2.三回目の異世界
死ぬ。
"異世界行き"の扉を潜った先で、俺は初めて魔物の足の裏を見た。こんなに汚くて、でも分厚く頑丈そうだなとそんな無益なことを思った。
だってどうしろって言うんだ?俺は、僅かな魔力しか持っていないんだぞ?今から<<物理障壁>>なんて張れないし、張ったところでこの大足の前では紙一味程度にしかならないだろう。それでも一応、と魔法を発動させようとしたが、全く間に合わない。
死ぬ。
同じことをもう一度思ったとき、魔物の体目掛けて複数の何かがを投げつけられ、その体が急に揺れた。それによって魔物の足が僅かに俺から逸れ、俺は訳も分からず衝撃に吹き飛ばされて地べたを転がっていた。
頭が痛い。腕も手も、全身痛い。この痛みに比べれば、防具をつけて魔法を受けるなんてものは児戯程度なのかもしれない。
意識が薄れていく。まずい、ここで意識を失ったらどんな目に遭うか分からない。
それは、駄目だ。失敗するわけにはいかないんだ。
だが、そもそも失敗ばかりしてきた"俺"が異世界で成功するなんてとても難しい事なのだ。そこのところを、分かって、ほし、い。
俺はそうして意識を闇の中に預けた。
「起きな!」
頬に重い衝撃が走る。白い壁の部屋ではない。そのことにほっとしたのもつかの間、自分が捕まっていることに気が付いた。
俺を叩いたと思われる人物。大柄の屈強そうな女性が、険しい目でこちらを見ている。とても怖い。学校の奴らなど比じゃないだろう。
「あんた、どこから来たんだ?なんで武器もないのに魔物の近くにいたんだ?」
そう問われ、俺も改めて頭の中で状況を整理する。
この世界の俺は、特に優れた点のない貧村の村人のようだ。もともとの"俺"のスペックが低いせいで、転生した先であまり良いスタートを切れないことが悔やまれる。それでも、奴隷や実験体よりかはマシだろう。まだそんな目にはあっていないが、可能性はあるだろう。
「俺は、マーナ村出身の者です。自分の可能性が知りたくて、村から出てきたんです。ですが、立ち寄った街で魔物が現れて……」
そう言ったが、実のところあまり記憶がはっきりとしていない。マーナ村の村人であること、冒険者になりたくて村を出たこと、街に立ち寄ったこと。具体的に思い出せるのはそれだけだ。後はどこか朧気で、霞がかかっている。
「マーナ村?知らないところだが、それじゃあ、あんたはただの村人って言うのかい?」
「そ、そうです」
そう言うと、女は顔を近づけて怒鳴り始めた。
「嘘をつけ!あんた、魔法を使おうとしただろ?文献でしかしらないが、確かに腕の辺りが光っていたぞ!」
「……え?文献?」
何を言っているんだ、この人は。
「ああ。この街の衛兵長である私でも、その存在を知ったのは衛兵長の座についてからだ。ただの村人がその存在を知るわけがないし、ましてや使えるわけがない!」
「……」
成程。魔法の存在が秘匿されているか、廃れた世界なのだろうか?しかし、だとすると何故この世界の俺は村人をやってるんだ?もっと何か特別な何かになっていてもおかしくはないんじゃないか?
いや、そうだ。この世界の俺は、自分が魔法を使えることをつい先ほど知ったのだ。あの魔物に踏まれそうになる直前に。それまで魔法なんて知らなかったから、使えなかったのだ。
ニホンでもそうだったような記憶が、ボンヤリとある。白い壁の部屋に戻ると、それまでいた異世界の記憶が薄らいでいくのが口惜しい。今のところ"異世界行き"の扉をくぐった世界の、同じ俺を乗っ取っているのか、それとも転生して記憶を取り戻しているのか、それともまた別の何かなのかさえ判然としていない。
この能力を得たばかりなのだ、焦ってはいけない。
それに今はその事より、顔を怒らせる眼前のこの人を何とかしなければ。
「成程。あなたも知っていらしたのですね。でしたら、隠すことに意味はないでしょう」
一か八か。俺はそれなりの立場の人間が言葉にしそうなセリフを想像して、そう言ってみた。
「……急に何だい?」
「私は、ヴァラーム王の密命を受けてきた者です。その文献に、我が王も興味があるのですよ」
この街を治めている王国の王の名を口にする。ただの村人でも、王の名くらいは記憶にあった。
「はぁ?あんた、魔法が使えるんだろ?そんな奴が側にいるのに、王様がなんで今更文献に興味を持つんだい?」
「……いるからこそ、ですよ。王国のために我が王は、魔法が使える人材をまだまだ求めていらっしゃいます。魔法に関する文献は確かに埃を被ってはいますが、まだその中身までもは埋もれていないはずです。そこから学ぶべきことは、私にも王にもいくらでもあるのですよ」
それっぽいことを言ってみようとしているが、もう色々限界だ。頼む、少しでも信じてくれ。
女は疑わし気にこちらを見てくる。だが、魔法を使えると言う事実が功を奏したのだろう。信じてはいなさそうだが、とりあえず手足を縛る縄は切ってくれた。
「……ついてきな。領主様に会って頂く。密命だかなんだか知らないが、あんたは自分の身分を証明するものを何一つも持っていなかったな。王の命令を受けていることを証明するものも……領主様の前で、同じことを言ってくれ。その言葉が嘘なら、その罪は死に値するからね」
「……わかりました」
分かるわけねーよ。頼むから助けてくれよ。
自分が死んでも白い壁の部屋に戻ることは分かっている。だが、レアンナル王国にいる"俺"に掛かる負担が大きい。失敗すれば"俺"が本当に死にかねないのだ。怒りのままに俺を"異世界行き"の扉に送り込んだあいつは馬鹿だが、一緒に死ぬのはごめんだ。
このまま何も持ち帰らずに"異世界行き"の扉を呼ぶか?しかしそれにはそれなりの時間が掛かる。この屈強な女がその時間をくれるはずがない。
俺は牢屋から連れ出され、魔物がへこましたと思われる街道に沿って歩いていく。
ふと、とてつもなく臭い匂いが漂ってきた。その場所に目を向けると、倒れた魔物の胴体があった。その胴体には黄色の液体がべったりと広がっており、地面には赤く丸い何かが幾つか落ちていた。臭気はこの液体からするようだ。
「……これは?」
俺を引っ張る女に、問いかけてみる。鼻が曲がりそうな激臭。この臭いの元は何なのか、何故魔物の体についているのか、気になってしまったのだ。
「あ?テテラの実だよ。中身のにおいにあてられた魔物が酔うから、昏倒させるのによく使うんだ。王都のお高い人間は、後掃除が大変だからって使わないだろうけどね……まぁ私たちでも流石に、一日間をおいてから掃除をするけど」
「そうですか」
魔物に踏まれようとしているとき見えた、飛来する何かはこれだったのか。俺は異世界の妙な知識に、自分が危険な状態にあることを忘れて感心してしまった。
……待てよ。
「もういいだろ、ここは臭くって仕方ない。行くぞ」
縄が俺を強く引っ張る。だから俺は、その引っ張りのままに身を預けた。
「あっ、うわっ……!」
「あ、ちょっと……ああ!もう、何やってんだい!」
黄色の液体に突っ込む。臭い。とても臭い。液体が鼻腔に入り、思わずえずいてしまう。この臭いは、しばらく取れそうにもない。俺は涙を流しながら転がり、地面で手を足を振り回した。
「あ……くそっ!こっちにまで飛び散らせるんじゃない!!」
女が背を向けて逃げる。その瞬間、俺の手は赤く丸いものを掴み、それを素早く袖にいれた。
直ぐに女が振り返って、こちらを不快なものを見るように睨んで来る。
「おえええぇぇぇええ!!うぅ……そんなの、ぐぅぇ……むりですよ」
吐いたのがここで良かった。俺は、そんなことを思いながら、袖から転がして脇に挟んだそれを、確認していた。




