4.ヴァン・ダイン
活動期間: 1926~1939
発明品: ヴァン・ダインの二十則、犯行現場の見取り図、
明快な謎提示、ホームズ以来の主人公型探偵、
館ミステリ―、見立て殺人、心理的な推理
好きな作品: グリーン家殺人事件(1928)、
ベンスン殺人事件(1926)、
僧正殺人事件(1929)
処女作「ベンスン殺人事件(1926)」で彗星のごとく登場すると、立て続けに「カナリア殺人事件(1927)」、「グリーン家殺人事件(1928)」、「僧正殺人事件(1929)」の超傑作四連発を発表し、一世を風靡した米国ミステリー作家のヴァン・ダイン。
彼の作品では、犯行現場の見取り図がこまめに用意され、臨場感を盛り上げます。またヴァンは、推理小説は作者と読者による知的ゲームであり、それ以外の無駄な要素は極力とり除くべきだと断言し、『ヴァン・ダインの二十則』と呼ばれる指標も提示しています。
これは、ロナルド・ノックスによる『ノックスの十戒』と並んで、推理小説におけるフェアプレイ精神を体系化しようとする意欲的な規律ですが、すべてを守ろうとするとなかなか縛りがきついこともあり、それを意図的に破った名作があるのも事実です。
ヴァン・ダインの特徴として挙げられるのは、彼が二十則を守った健全なミステリ―作家であること(少なくとも、ヴァン自身はそう思っているはず)です。クリスティ、カーやクイーンは、ときおり二十則を破っていますが、ヴァンは一貫して、大掛かりなトリックに頼らず、細かいトリックの組み合わせで、作品を書いています。大掛かりなトリックは出尽くした、と言われる現代において、小トリックを重ねるヴァンの作風は、とても参考になることでしょう。
一方で、ヴァンが本当にこの二十則を守り通しているかと問われたら、わたしは個人的にそうではないと答えます。その理由は後述しますが、いずれにせよ、ヴァンが目指したミステリーが『作者と読者とのガチンコ対決』であることは間違いなく、『読者への挑戦状』で有名なエラリー・クイーンにも確実に影響を及ぼしています。
ヴァンが先駆けて生み出したミステリーの定番形式が二つあります。
一つは、「グリーン家殺人事件(1928)」での『館ミステリ―』。閉ざされた館の中で一族の間に勃発する謎の連続殺人。果たして、犯人の意図するものは……。
もう一つが、「僧正殺人事件(1929)」の『見立て殺人』。連続殺人がマザーグース(イギリスの童謡)の歌詞にのっとって、次々と引き起こされます。いったい犯人は、なぜこんなふざけた見立てをするのでしょう……。
どちらも、あまりにも定番過ぎる、もはやミステリーには不可欠な舞台設定となっています。
任意に選んだミステリー愛好家たちにミステリー作家を10点満点で評価させたとします。おそらく、クリスティやクイーンは、ほとんどの愛好家たちから、8点、9点が投じられ、総じて安定した高得点を得ることでしょう。それに対して、ヴァンやカーは、10点満点を投じる愛好家がいるかと思えば、6点,7点の低評価を投じる愛好家も少なからずいるはずです。ヴァンやカーは、評価が大きく分かれる作家です。誰からも安定して好かれる作家と、一部の熱狂的なファンに指示される作家。どちらが良いとかという問題ではなく、それぞれが作家の個性ということです。
では、両極端な評価をされるヴァン作品の最大の魅力とは、いったいなんでしょうか。それは、ファイロ・ヴァンスという名探偵が登場することです。
(ヴァン・ダインの『ヴァン』と、ファイロ・ヴァンスの『ヴァンス』が酷似していますから、以後の文章で混乱されないよう十分に注意してください。)
世界中で星の数ほど創作された探偵たちの中で、シャーロック・ホームズの人気が断トツなのはなぜでしょう。多くのミステリー作品で、探偵は脇役の一人に過ぎませんが、ホームズだけが、物語の主人公として活躍をし、君臨をしているからです。普通のミステリーでは、読者は謎解きを楽しみますが、ホームズが登場するミステリーでは、読者は謎を解いていくホームズの姿を楽しみます。
実は、ヴァンが創造したファイロ・ヴァンスこそ、ホームズと双璧をなす主人公型探偵です。ではそのファイロ・ヴァンスとは、いったいどんな人物なのでしょうか。
ファイロ・ヴァンスは、鼻筋がまっすぐ通った並みはずれた美貌の持ち主で、背丈もそこそこ高く、がっしりとした体格で、フェンシングの達人です。また、ゴルフのハンディが3で、ポロに至ってはアメリカ代表選手団のメンバーに選ばれています。すごいですね。
ハーバード大学出身で、ヨーロッパで放蕩生活をするうちに、偶然にも叔母の莫大な遺産を相続することとなり、それからは、セザンヌの水彩画を皮切りに、イタリア、中国、ギリシャ、スペイン、フランス、インドにエジプトにアフリカ諸国と、世界中の絵画や彫像を買いあさります。気が付くと、彼のおうちは、大都会ニューヨークにある高級マンションの一室ですが、中は美術館状態になっていました。ちなみに、執事も雇っていますけど、物語の記述を見る限りでは、彼が定職についている様子はなく、若干三十半ばにしてこのハイレベルな生活を維持しているみたいです。いったい彼はいくら相続したのでしょうか。
ただ、ヴァンスの日本美術に関する評価は、なぜか低くて、葛飾北斎をはじめとする日本画は、彼に言わせれば、実に浅薄であり、たんなる装飾品よりもちょっとはましな俗物に過ぎない、とのこと。ちょっと残念な気持ちがします。
ヴァンスの知識は、語学、文学、哲学、音楽、美術、歴史学、考古学、物理学など多岐にわたり、その情報量は現代のネットワーク並みです。会話の途中で、フランス語はしょっちゅう飛び出すし、時にギリシャ語やラテン語などの文句を引用しながら、聞き手を煙に巻くのが大好きです。頭がすごくいい反面、低俗なことには我慢ならないみたいでいちいち侮辱を繰り返します。まるで子供のような性格の持ち主です。
その才気煥発なファイロ・ヴァンスがする推理は、彼特有の、神がかり的な人間観察力をベースに、心理学的見地から人間の行動パターンを分析しつつ、時に繊細に、時に大胆に、展開されます。卓上ゲームを利用して、容疑者がひた隠しにする深層心理を、見事に暴露したこともありました。
グリーン家殺人事件の第一事件を例に挙げてみます。(小トリックの積み重ねが得意なヴァンですが、この第一事件では華麗なる大トリックが披露されていますから、必見です。)現場検証を終えたヴァンスは、事件解決のために今後説明を要するであろう謎の核心部分を、さりげなく次から次へと読者へ明示していきます。
ヴァンス「二人の被害者には、やられ方に相違がある。被害者Aは寝台の上で前方から(ピストルで)撃たれているが、被害者Bは寝台から起き出したところを、うしろから撃たれている。それも、犯人にその気さえあれば、Bが寝台にいるうちに、そばへいって撃つ時間的余裕は十分あったのにね。なぜ、Bが起き上がってそばへ来るまで、犯人はじっと待っていたのだろう?」
どうです? どっちでもいいじゃないか、と素人的に思ってしまう、とても細かな議論でしたけど、あらためて名探偵から指摘されると、なにかググっと来ませんか。読者諸君よ、この事件を解明せんとするのなら、少なくともヴァンスが呈示した疑問にきちんと答えを用意しなさい。それができなければ、真相にはたどり着けませんよ、と作者から突っ込まれている感じがします。
ヴァンミステリーの際立った特徴は、事件解明のための質問事項が、子供みたいにまくし立てるヴァンスの語り口を通して、極めてクリアに読者へ提示されることです。
有名作家でも、これができていない作品は、実は結構あります。突然、警察が、犯人は左利きだ! 左利きの人物を探せ、と話の中で捜査が急展開しても、あれれ、どこに犯人が左利きであるという理由が示されていたっけ? なんて、読者が戸惑うことはよくあります。結局、作者は説明したつもりでも、記述が浅いと、読者は謎を見過ごして、先へ読み進んでしまうのです。
解明されるべき謎が読者にはっきり伝わるよう、文章を丁寧に構築する。単純なことですが、ヴァンのこの姿勢は、わたしたちが真似るべき恰好の手本と言えます。
次に、ヴァンスがする推理の特徴について考えてみましょう。
その一方で、ヴァンスが語った文章を原文からそのまま引用すると、作品のネタバレにつながる危惧がありますから、ここで書くのは、ヴァンスならこんな感じで推理を展開しますよという、わたしが勝手に創作した文章であることを、あらかじめご了承ください。
解決編となり、犯人像について語るヴァンスを、語り手の私が聴いています。
ヴァンス「この事件の性格と、登場人物たちをみて、犯人がAしかあり得ないことを、僕は早々から認識していたのだよ」
私「でも、Bにだって、同じことができたはずじゃないか。どうして犯人がAだと、君は決めるけることができるんだい?」
ヴァンス「ふふっ、Bなんかにこんな大胆不敵な犯行が行えるものか」
私「なんだって?」
ヴァンス「この事件で見つかった数多くの証拠を思い出してみたまえ。その一つ一つがはっきりと、犯人が図太い神経の持ち主であることを明示している。
ところで、Bといっしょに競馬場へ行った時のことを、君はおぼえているかい。Bが賭ける馬はいつも本命中の本命ばかりだったよね。無意識に安全志向を追い求めるBの本性が露骨に表れていた。そんなBが、今回の犯行のような大胆な大博打を打つ勇気を持ち合わせていないことは、もはや明白だ。ゆえに、Bは犯人ではないのだよ」
いかがでしょう。彼の推理を聞いて、何か感じませんか?
まず、『ゆえに』という言葉が使われています。ヴァンスは自分の推理の正当性を、数学的に証明しようとしており、そこを読んだ読者は、Bが犯人でないことが論理的に証明された、と理解します。
ところが、もしBが、ヴァンスの前でだけわざと臆病に振舞っていて、図太い人物であることを隠していたとしたら、Aしか犯人であり得ないというヴァンスの推理は、根底から崩れ去ります。これは『後期クイーン問題』と呼ばれる、かのエラリー・クイーンをも悩ませた、犯人が探偵に意図的に偽手がかりを信じ込ませる可能性までを想定すると、作者が呈示する事件の状況証拠の真偽を、読者は判断できなくなってしまう、というゆゆしき未解決問題です。
でも、大丈夫です。なにしろ、ファイロ・ヴァンスは超が付くほどの天才です。わたしたち凡人が見逃してしまう人間の心理の深層を、彼はとことん知り尽くしています。仮に競馬場でBが、自分は臆病者だとヴァンスを騙そうとしても、ヴァンスには、その騙そうとするBの心のうごきまでも全部読めてしまいますから、Bの嘘は確実にヴァンスに看破されます。すなわち、ヴァンスが出した、Bは臆病者である、という推理は、まぎれもなき真実というわけです。
このあと、事件は急展開の大団円をむかえます。ヴァンスが指摘した推理を聞いて動揺した犯人Aが、突然警察を振り切って、逃げ出したのです。でも、すぐさま多数の警官たちによって取り押さえられてしまいました。すると、全てを観念したのか、Aは犯行の自供を始めました。
ヴァンミステリーは、いつもこんな感じでしめくくられます。ところで、これまでの文中に読者をあざむく壮大なトリックが仕込まれているのですが、果たしてみなさんは気付かれたでしょうか。
みなさん、ミステリーを書こうとするとき、『意外な犯人』を創造したいとは思いませんか。うーん、そいつはかなり難しそうですね。でも、決してあきらめる必要はありません。なぜなら、それを解決するヒントが、ほら、そこのヴァンの文章の中に隠されていますから。
それではヴァンが得意とする、意外な犯人を創り出すための叙述トリックを解明しましょう。
彼のミステリーは、まず、ヴァンスによって様々な疑問が提示され、その道しるべに従って、読者は、犯行がどのように行われたのか、犯人がどのような人物なのか、を意識しはじめます。ヴァンはその辺りの記述がとりわけ上手な作家ですし、さらに、その謎のうちのいくつかを、解決編に入る前に、ヴァンスが解き明かしてくれるから、ここに至って読者は、犯行がどのように行われたかが、おぼろげに分ってきます。
さあ、いよいよ物語は解決編に入ります。フェアプレイ精神の下、ここまでに提供された情報をつなぎ合わせて、真犯人を当てられますか。まさに、作者ヴァンと読者との一騎打ちの開始です。
ところが、読者は容易に真犯人が当てられません。なぜでしょう。そのからくりは実に巧妙です。
ヴァンの文章は、犯人がどのように犯行を行ったのか(ハウダニット)の推理はできるようになっていますが、犯人が誰なのか(フーダニット)についての推理が、なぜかできないのです。ぶっちゃけ、犯人が一人に特定できる物理的な証拠が、文中になにも提示されていないのです。
解決編の直前まで、誰が犯人であっても矛盾がない舞台を作っておいて、そこで満を持して、名探偵ファイロ・ヴァンスが、真犯人として、とある人物の名前を告げる。もちろん、告げる以上はなんらかの根拠が提供されますが、それらはどれも心理的な根拠ばかりで、客観的に犯人が特定できる物理的な根拠ではありません。
論理的に犯人が特定できない枠組みで、作者が読者へ謎解きをいどんでいる。つまり、この勝負は、最初から作者の勝利がほぼ確定した戦いなのです。(たまたま当てずっぽうで犯人が当たって、読者が勝利することもまれにありますが。)
作者は登場人物の中から、都合のいい人物を選び、『探偵の鶴のひと声』で、真犯人と化すことができます。もっとも、読者がそのからくりに気付いてしまえば、当然文句が生じます。それを読者に悟られないようにしつつ、意図した犯人がを唯一無二であると読者に納得させる。その二つが、作者に課された新たなる課題というわけです。
ここからがヴァンミステリーの真骨頂です。ヴァンは、主人公探偵ファイロ・ヴァンスの口から、読者に意外な犯人を告げさせます。それから理由が説明されますが、その理由づけが実に鮮やかで、決して物理的に完璧な証拠ではないけれど、ヴァンスの華麗なる三段論法が連発されて、読者は納得させられてしまうのです。(このあたりは、実際にヴァンの小説を読んで確認してください。)
そして最後の土壇場で、犯人は動揺して暴れ出したり、時に死んでしまいます。(ヴァンが意図的にそうさせているのです。)ほら、やっぱり犯人は僕が言った通りだったでしょう。ヴァンスは得意げに告げて、舞台から静かに立ち去ります。読者は、意外な犯人に驚きを隠せぬまま、謎が解かれて至福の喜びを味わうのです。
ホワイダニットとハウダニットを読者へ問いかける一方で、フーダニットを解く手掛かりは提示せずに、意外な真犯人を創造する。この形式を取っている作品は、意外とたくさんあります。ヴァン・ダインのほかにも、ディクスン・カーがこの形式の名手ですが、実は、近年の作家たちも手掛けています。
もし、読者がすっかり騙されてしまう意外なる犯人を要して、高評価を受けている作品があったら、ちょっと調べてみてください。犯人の動機はなんでしたか? おそらくそれは、読者にとって推理不能な、あとから取って付けたような動機ではないでしょうか。たとえば、冷静沈着な人である、と首尾一貫記述されていた人物が、実は殺人願望をひそかに抱いていたことが後になって判明し、今回の事件が引き起こされていた。さらに、犯人を特定する物理的な証拠は最後まで提示されぬまま、代わりに、犯人が自白をするか、死んでしまい(まさに死人に口なしということです)、探偵がさまざまな心理的根拠を一方的に補足して、フィナーレを迎える。
物理的に犯人が特定されないけど、心理的な推理で犯人をあばき出すこの形式は、一見ずるい気もしますが、読者にそれを悟らせないことができるかどうかに、作者の腕の見せ所と勝利への鍵があるわけで、ある意味、作者と読者の一騎打ちの構図はきちんと保たれています。このテクニックを上手に使えば、意外な犯人を創作することも決して夢ではありません。使う使わないは、あなたの自由ですけどね。
ヴァン・ダインから得た教訓:
事件解明のために何の説明が求められているかを読者へきちんと明示することは、とても大切です。謎があいまいな状態では、読者との正々堂々たる一騎打ちはできませんからね。