2.「宗谷本線秘境駅殺人事件」の執筆時苦心談
2014年にJR北海道の宗谷本線に乗って、あてどなき列車の旅をしたことがあります。日本最低気温氷点下41度の記録を誇る、最果ての地に位置する都会、旭川市ですが、とにかく私は初めての訪問で、それだけでも感動ものなのに、そこからさらに北へ北へと進んでいくミステリアスな鉄道があるというのです。それが宗谷本線――。全長が260キロもあり、東京から浜松までとほぼ同じ距離を北上するわけですから、窓から眺める風景は、米作地帯、蕎麦・小麦地帯、酪農地帯と次々に変化していきます。最果てと思っていた旭川から、さらに新しい壮大なドラマが始まる。もうそれは衝撃の極致でした。
どこの駅でも降りられる乗り放題切符を利用しながら、期間は一週間ほどの、勝手気ままな『乗り鉄の旅』ですが、その最終目的地は最北にある秘境駅『抜海駅』でした。「宗谷本線秘境駅殺人事件」の主人公、瑠璃垣青葉ちゃんがしたのと同じ、無謀でアバウトな計画です。
ところが、旅が数日過ぎた時のことです。宿泊していた旅館の部屋の中で、ふと、列車を利用した殺人事件のアリバイトリックが脳裏に浮かびます。あまりにきれいなトリックで、一瞬びっくりしましたが、すぐさまアイディアをノートに書き留めて、ひと眠り。翌朝からは、車窓からの風景を楽しむだけでなく、ミステリーのアイディアを妄想する楽しみも増えました。
家に帰って来てから、いよいよ本格的な執筆に入りますが、いざ書こうとすると、旅で得たさまざまな思い出をもっときちんと記録で残しておくべきでした。あの場所の風景はどんな感じだったっけ。文章を書く時になってはじめて気付く些細な出来事。肝心なところがちっとも思い出せません。本当に悔やまれました。
例えば、旭川駅の構内の美しさを文章で表現したかったけれど、自分の文才のなさにあきれ果てるばかり。たしか、壁が木のようなイメージで、とても長いエスカレータがあったような……。駅のホームで宗谷本線の一両編成のワンマン列車にはじめて乗った瞬間の震え出すような感動。こちらもさっぱり文章に書けません。さて、どうしましょうか。
そんな時に、思わぬ便利な道具がありました。ネットです。宗谷本線で検索すると、即座にいろいろな情報が出てきます。中でも、宗谷本線の中で撮影された動画があって、車内アナウンスを聴くことができました。それを聞いた瞬間、様ざまな旅行での感情がよみがえります。これだよって思いました。それから、アナウンスの一字一句を書き留めて、そのまま小説の文章に掲載しました。おお、一気に書きたかった雰囲気が出てきましたよ!
動画を見ていれば列車が走っている時の車内音も聴くことができます。目をつぶってじっと走行音を聴いてから、ぱっと書いてみた擬音語が、ガタットゥトン、タタン……。なかなかの上出来と思いました。たしかにそう聴こえるんですよね。それから、時折車両が発する警笛音の、フュオワァァーーーー。あとから気付いたことですが、この音色は、JR北海道の他地区の路線の警笛音とは違っていて、宗谷本線特有のものでした。
線路沿いに巨大な葉っぱを持つ雑草がいっぱい生えていました。このミステリアスな植物が、とにかく印象的で、写真にも撮ってあったくらいです。いったいあれはなんだったのだろう。北海道の線路のまわりにはよく生えているけど、本州ではなかなか見られない植物です。さっそくネットで調べてみましたが、これは相当に苦労しました。どうやら『イタドリ』という草らしいのですが、いまだ百パーセントの確信は持てません。でも、宗谷本線独特の雰囲気をかもし出す貴重な描写アイテムとして、これも小説の文章に載せました。
ネット検索をすれば小説に使える様々な題材が手に入ります。明治の文豪には決してできなかった必殺テクニック。みなさんも、ネットを駆使して、面白い小説を書いてみてください。
最後に「宗谷本線秘境駅殺人事件」についての簡単な紹介をさせていただきます。文章は8万字余りで、形の上では長編小説なのですが、『旅情編』と章分けした紀行に関する文章が、その半分以上を占めており、それらを取り除けば、実質短編小説的な作品です。
トリックは結構面白いと気に入っていますが(旅の途中でパッとひらめいたトリックですね)、メイントリック単発の、割とシンプルな謎解き構成となっています。
事件の舞台となった宗谷本線ですが、当時あった秘境駅の多くが今ではなくなってしまい、もはやかつての旅はできません。小説の中で犯行現場となった『安牛駅』も、ついに廃止となりました。
つまりこの小説は、もはやリアリティを失った作品となってしまったわけです。少し悲しいけれど、西村京太郎の作品をはじめとする、多くの鉄道ミステリ―が、同じ運命をたどっています。ある意味、歴史の記録をとどめた文章だと思って、これからもこの作品が意味を持っていてくれたら嬉しいと思います。
単純な構成の作品なので、とにかく謎解きの伏線が勝負だと思いました。中でも、『旅情編』の文中に、重要な伏線を盛り込むことができた瞬間は、うれしさのあまり跳びあがりましたね。
発表当初は、読者への挑戦状は入れませんでした。理由は、読者が純粋に謎解きできる情報が、文章の中に十分に提供されていなかったためです。如月シリーズの中で、ポツンと一つだけ読者への挑戦状がない作品。長いこと「宗谷本線秘境駅殺人事件」だけがそうなっていて、心残りでしたが、宗谷本線の当時の時刻表を掲載することで、晴れて読者への挑戦状を挿入できるようになりました。
謎解きと同時に宗谷本線の旅情気分が楽しめる「宗谷本線秘境駅殺人事件」。興味を持たれた方は、ぜひご一読を――。
本章の教訓:
ネット情報は、小説の題材にとても役に立ちます。それを生かすも殺すも、作者次第のような気がします。