第七話 風の唄(1)
『…この風は何処まで吹き往くのか』
『誰も知らない遠い地に咲いた名も無き花の哀しみを乗せたまま』
『君の名を呼ぶこの声もどうか乗せて欲しい』
『私にはもう貴方の地へ行く術など無いというのに』
『忘れられないこの想いを何処かへ流しておくれ』
『そして叶わない夢を見た女を哀れむがいい』
『それでも私は』
『叶わない夢を見る』
ふわりと、微かに花の香りを感じて如月は振り向いた。
「いつから其処にいらっしゃったのですか?お祖母様」
「さあ……いつでしょうね」
柔らかな微笑を浮かべる老婦人に、如月は少しだけ困ったように笑う。
「……“風の唄”をあなたが歌う日が来るなんてね」
優しげに目を細めて、呟く祖母から気恥ずかしげに如月は目をそらす。気配に気付けないなんて初歩的な失敗をおかした事も問題だが、それ以上に歌を聞かれた事の方が彼女にとっては問題だった。
「どういう心境の変化かしら?」
「……別に、特に意味なんてありませんよ」
むすっとした顔のまま、ぶっきらぼうに呟くが余計に面白がらせるだけだったらしい。くすくすと笑う声が耳に届いて、自分の意思に関係なく顔が赤くなっていくのがわかる。懐かしい人からの手紙を読んで、ちょっとばかり感傷的になっていただけだと、わかってはいるのだが、気恥ずかしい。それにしても無意識に口ずさんでいた曲が“風の唄”だなんて、本当にどうかしていたと思う。“風の唄”は叶わぬ恋を歌う恋歌だ。
「私は恋などしません。私の全ては皇族の守護を宿命とする、この一族の定めと共にあります」
「……昔からあなたはそればかりね。如月」
頑なな言葉に、元皇女である老婦人は悲しげに微笑んだ。立派に成長を遂げた孫娘の姿に、もう何年も前に失った我が子の姿が不意に被る。
「お祖母様、私はね……母様のようにはなりたくないの」
「……如月」
「ただ待つだけしかできないなんてまっぴらだし、私は守られるよりは守りたい。……だって私のせいで誰かが血を流すなんて、耐えられない」
「優しい子ね」
「いいえ、私が我が儘なだけ」
悲しげに否定した孫娘の気持ちを思うと、胸が潰れそうになる。あんな事があったというのに、よくぞ強い娘に育ったものだと老婦人は思う。
「……“風の唄”はね、よく母様が歌ってたの」
だから無意識に歌ってしまったみたい、と呟く少女がひどく儚げに見えた。
幼い頃の記憶というのは、時に鮮明に残ることがある。如月にとって、今は亡き母との日々がそれにあたった。
『かあさま!』
小さな手を伸ばせば、必ず抱き締めてくれた温もり。
『なぁに?如月は甘えん坊ね』
笑いながらも膝に乗せてくれて、そして静かに歌う母が大好きだった。
『かあさまはいつも、そのおうたなのね』
『如月はこのお歌は嫌い?』
『ううん!いちばんすきだよ!』
『……これはね、“風の唄”っていうの。どんな意味のお歌かわかるかしら?』
『わかんない、けどかなしいかんじ』
教えて、とねだれば母は決まって首を横に振る。そして笑って言うのだ。
『……きっと、如月も大きくなったらわかるようになるわ』
その時のまるで大事な宝物を見るような優しい目が、ひどく印象的だった。
優しい日々の思い出を何度も辿っていくその度に、如月は必ずこの場面を見るのだ。
そして、場面は急展する。
その記憶は途切れ途切れで、正しい順序であるのかすらもわからない。
ただひとつ、確実にわかることはこれが優しい日々の幕切れだということだけだ。
少し離れた場所で、武器を構えている父や一族の者達。聞き慣れない怒鳴り声と、気持ちの悪い笑い声に耳が上手く機能しない。
くしゃり、と頭を撫でる母の優しい手。見上げれば何故か母は微笑んでいて。ゆっくりとその口が動く。聞こえない言葉、そして。
『…………、あなただけは』
直後、もの凄い力で背後へ突き飛ばされた如月の目に映ったものは、母の体から噴き出す赤い血飛沫だった。
そして、最後の場面は必ず花に埋もれた母の棺の前。
『如月、母様はおまえを守ったんだよ』
隣に立つ父の声がそう言って、ようやく記憶の世界が閉じていくのが常だった。
はっ、と如月は暗闇の中で目を覚ます。不自然に荒くなった息。着ていた服は汗でじとりと濡れている。
「(夢……か)」
懐かしい陽千からの手紙、そして祖母との会話が久しぶりに過去の夢を見せたらしい。大きく息を吐いて、如月は寝台から抜け出した。
眠る気も失せて、ぼんやりと歪な月が浮かんだ夜空を窓から眺める。そういえば、昔はよくこうやって月を眺めていたものだった。……ほとんどの場合は疲れ果てて、泥まみれで地面に転がった状態でだったが。
「よく、頑張ったよね……」
母の死後、如月は一族の人間として生きるためにさまざまな修行に身を投じた。修行は厳しく、苦しいものであったが、幼い彼女にとってはそれすらも救いだった。修行に打ち込んでいる間は何も考えずにすんだ。
娘を守るために、母は死んだ。
その愛の深さはどれほどだったのだろうか。一族の者達は皆揃って母を讃えた。勇敢な女だと。強い人間だったと。けれど、それらの言葉は如月にとっては何の意味もなさなかった。
父の言葉が、重かった。
周囲の者達からかけられる言葉が重かった。
まるでお前が母を殺したのだと言われているようで、心は罪悪感に潰されそうだった。誰にも責められることは無く、救われた命だからと自ら死ぬこともできない。苦しくて仕方なかった。
あの頃を思い出すと、今でも胸の中が苦しくなるような気がして、如月は大きく息をついた。
「やっぱりな」
「!……瞬、なんで」
背後からの声に振り向けば、開いた扉に寄りかかるようにして瞬明が立っていた。驚きで固まっている如月に目をやって、おもむろに息を吐く。
「背後の気配に気付けないなんて、おまえも落ちたもんだな。如月」
「……うるさい。なんで瞬がここにいるのよ」
「別に、いつもの事だろ?任務入った時に呼びに来てやってるんだから」
本日二回目の失態に、ばつの悪そうな顔で言う如月が瞬明の言葉に顔色を変える。
「なにかあったの?」
「いや、今のところは何も」
瞬明の言葉に体の緊張を解く。安堵と共にやってきたのは脱力感。
「……じゃあ何なのよ」
あきらかに疲れたような空気をかもし出している如月に、瞬明はいたずらっぽく笑う。
「落ち込んでる誰かさんに、手合わせでも願おうかと」
「……是非」
月明かりの中、好戦的な瞳が愉しげに細められた。