第六話 王の盾
王城にもすっかり夜の帳が落ちた頃、篝火で照らされた小道を行く影がひとつ。まっすぐに第二城壁へと向かって行く。やがて人影は小さな扉の前で立ち止まった。
コン、ココン。
独特なリズムで扉を叩くこと数回、ぎぃぎぃと軋んだ音を立てて扉が内から開いた。内から漏れる光に、人影の顔が照らされる。
陵王であった。
「これはこれは……このような時刻に“王の盾”に来られるとは如何なされましたか、若」
「いつもの野暮用だ」
「そうでございますか。失礼致しました、ではどうぞ」
扉を開けた男は、すっと身を引いて道を開ける。無表情で陵王が扉を抜け、二歩踏み出した瞬間。
ガキィ…ン!!
突如として響いた剣戟の音。男の短剣と陵王の剣が一瞬の間に交わり、重なる。
「相変わらず……容赦ないな」
「いやはや、これくらいではまだまだ軽いもんでしょう?若」
お互いに剣を交えたまま、二人してにやりと笑う。そうして同時に剣を収めた。
「まったく!よくも飽きないものだな!」
「どんな時にも“油断大敵”って奴ですよ、若。これが御身を護るための術として身に付くのですからね」
鍛錬みたいなものですよと、からから笑う男にやや呆れながらも、陵王は満足げな笑顔になった。
「さすが、と言うところか?」
「お褒めの言葉ならば素直にお受け致しましょう。……“王の盾”へ、よくぞおいで下さいました」
“王の盾”とは、王城を囲む二つの城壁があるうちの内側の物を指す。この城壁の内部には、代々晋国皇族を護る任につく二つの一族が暮らしており、昼夜問わずの警護態勢を整えている。もしも何か事が起こった時に王城を守る、最高で最後の砦となる事から、通称“王の盾”と呼ばれている。陵王の護衛をつとめる瞬明と如月も、当然の如くこの“王の盾”に暮らしていた。
……何だこれは。
如月と瞬明の一族が暮らす区域に、一歩足を踏み入れた瞬間に陵王が思ったことである。
「若?」
呆然としている彼を瞬明が見つけて声をかけるも、陵王の視線は室内に向けられたまま動かない。
それもそのはず。室内は凄まじい惨状を呈していた。
倒れた燭台、石造りの床でゆらゆらと踊る小さな火。
割れて散った花器に、バラバラに散乱した花。
そして床と言わず壁と言わず…果ては天井にまで突き刺さった、無数の黒光りした暗器。
室内はさながら嵐の過ぎた後のようで。
「…瞬、これはいったい何事だ?」
そう呟くように尋ねる己の主に、瞬明はただ苦笑するしかないのだった。
「この惨状はいったいなんだ!?……まさか賊でも入ったと」
「落ち着いてください、若」
いつものことですから、と苦笑する瞬明に陵王は怪訝な顔を向ける。
「……俺はこんな惨状を見たのははじめてだぞ」
「あー……、そういえば若のいらっしゃる時にはいつもありませんでしたね」
まぁここで見ていればわかりますよと言う、その瞬明の声をかき消すかのような足音が近付いてくる。そして怒鳴り声。
「…から、ーーんしょ!」
「そ…!まだ…ー、き」
何を言っているかまでは聞き取れなかったが、その声の片方は陵王のよく見知ったものだった。
「如月……?」
陵王がそう呟いたその時、いままでで一番大きな怒鳴り声が二人の耳をついた。
「…ッだから私は姫じゃないって何度言ったらわかるのよーっ!!」
まさに渾身の叫び。
びりびりと鼓膜に響くその音量よりも何よりも、陵王には彼女の叫ぶ内容にしばし唖然とした。
だだだだ、と激しい足音がどんどん近付いてくる。そして陵王と瞬明の目の前を、如月ともう一人が物凄い速さで走り抜ける。
「私は、私でしかないの!!姫なんかじゃ、ない!!」
「いいえっ!長の娘であるあなた様はこの一族きっての血筋の持ち主…そして同時に我等の姫であります!!何度そう申し上げればおわかり頂けるのです、かッ!!!!」
カカカッ!
如月を追う、少し年かさのいった女が怒鳴った言葉の合間に素早く投げた暗器が床に刺さる。かなりの手練れである陵王も、思わず見とれてしまう程の素晴らしい腕前である。飛んでくる暗器を避けて、器用に身を捻らせた如月もかなりのものだ。
「甘いわよ、ばあや!!これくらい避けられないとでも……ッきゃあぁ!?」
「姫様もまだまだ、でございますよ」
いつの間に仕掛けたのやら、暗器と暗器の間に張った細い糸に足をとられて見事に転倒した如月に、息を切らしてすらいない女はどこか楽しげにすら見える笑顔でそう言ったのだった。
実のところ、如月が“姫”であるというのは決して間違いではない。
話は彼女の祖母まで遡るのだが、彼女の祖母は現在の皇帝の姉姫にあたる人である。護衛をしていた一人の男を愛し、降嫁したのだ。そして生まれたひとり娘が如月の母の、華那。皇族の血を引く娘として育てられた彼女もまた、護衛だった男と恋に落ちて結ばれる。その娘が、如月なのであった。
あの後、主の来訪に気付いた如月の焦りようは見物だった。猛烈に謝られた後、支度があるとかで如月を待つ間、別室にてもてなしのお茶を二人して啜っている。
「……如月が姫、ねぇ」
「まあ、普段を考えると俄かに信じられる話でもないですが」
知らなかった訳では無いが、すっかり忘れていた。皇族紋章を与えられ、一年に一度の集まりに参加する資格があるのは直系だけだ。そして如月は直系ではない。
「……だから若、身分違いの恋なんて障害はないんですよ」
「ーッげほ!」
さらりと爆弾発言をした瞬明に、食道を通過しようとしていたお茶が反乱を起こした。げほげほと咳き込む主の背を、笑いながら瞬明が撫でる。
「おまっ…瞬、何を!?」
「なにを動揺してるんです?若」
「そ、そんな事はない!!」
「顔、赤くなってますけど」
「ううう、うるさい!!」
陵王にとって如月は部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。好きか嫌いかで聞かれるともちろん嫌いな訳など無いが、そのような事を考えた事もなかった。
それなのに。
「(どうしてこんなに焦っているんだ、俺!?)」
どきどきと胸が全力疾走している。おかしい。こんなことは今までなかったのに。
「申し訳ありません、遅くなりました…って何やってんですか?若」
陵王がひとり悶々としていたその時、扉が開いて如月がひょっこりと顔を出した。
「別に、何でもない」
「……?ならいいんですけど」
クスクスと笑う瞬明をひとにらみして、陵王は手元の杯に残った茶を一気に飲み干す。そしてようやく、この場へ来た本来の目的を思い出したのであった。
「やはり、那国が絡んでいるのは間違いない」
いつになく真剣な顔で、従者二人は主の言葉に耳を傾けていた。
「……確信できるような証拠があったのですか?」
「いや……父上に軽くカマをかけてみた」
「皇帝にカマかけるって……相変わらずの怖いもの知らずですよね、若って」
陵王の発言に若干呆れながら、如月は笑う。
「皇帝といっても、実の父親だしな」
「あ、そうか……」
苦笑して答えた陵王に、如月はいま思い出したかのように納得。
「それで皇帝はなんと?」
「……全く話してはくれなかった。ただ不穏な動きがあるとしか」
「不穏な動き?」
「ああ……まだわからないが、もしかしたら」
「戦…ですか、若」
「まだ不明だがな。可能性はある」
戦という言葉に顔が強張った如月の頭をぽんぽんと叩いて、陵王は話を続ける。
「いまは乱世。……戦の可能性だけは捨てきれない」
何事も平和的な解決で済ます事は出来ない、なんて。現実を知る者達には、哀しくも正しい真実。
綺麗事なんかじゃ、生きてはいけない。
「……国境周辺が気になりますね。偵察隊を放っておきます」
「先日の事件にも関与していたとなると、国内に間者が入り込んでいてもおかしくはない。……頼んだぞ、瞬」
「は。お任せ下さい」
「報告は直接俺のもとに持ってこい。皇帝や昭兄上のもとへは間違っても持っていくなよ、説教喰らうのは俺なんだからな?」
「御意」
跪き、深々と首を垂れて命令を受けた瞬明に満足げに頷いて、陵王は如月へと目を向ける。
「如月は引き続き、都の様子から目を離すな。どんな小さな事でもいい……異変を感じたらまっすぐに俺のもとへ来い。絶対に単独で行動を起こそうとはするな」
「……若の御心のままに」
如月も同じく跪いて命令を受ける。その様子を見た陵王はひとつ頷いて、小さく息を吐いた。
「すまない。お前たち二人にはいらぬ苦労をかける」
「そんなこと気にしないで下さいよ、若」
陵王の言葉に、瞬時に立ち上がった如月は困ったように笑っていた。
「私も瞬も、自分の意思で若についていこうと決めたんです。私達が勝手についていってるだけなんですから、苦労とかそんなのありませんよ」
にこりと笑う如月と、その隣で同じく穏やかな微笑みを浮かべる瞬明を見て、陵王の顔にも笑顔が浮かぶ。
「……ありがとうな」
「どういたしまして、ですよ。若」
どこか照れくさそうに答えた如月を、瞬明がからかい顔で小突く。
「如月もたまには良いことを言うじゃないか」
「瞬はうるさい」
部下二人のやりとりに、思わず陵王は声を上げて笑った。自分はなんて恵まれているのだろう、と思った。三人ならきっと全てが上手くいく、なんて。一瞬でも思ってしまうくらいに、全てが輝いて見えた。
混沌とした世に輝く、大切な存在。そして陵王の中に生まれたひとつの決意があった。
「……お前たちは、俺が守ってやる」
「若ったら、逆ですよ!逆!」
「我々が、あなたを守るんです」
護衛が主に守られてどうするんだと笑う部下達に、そうだなと頷きながらも陵王はその決意を翻す気はなかった。
たとえこの先何があろうとも、
「…っとそういえば、如月に陽兄上からの手紙を持ってきたのだった」
「陽千様からの!?わぁー、ありがとうございます!!」
今と変わらずにいられたらと願うのに。
兄からの手紙を受け取った時の如月の満面の笑みに、胸のどこかがツキン、と痛んだ。
どうしてこんなにも、胸が痛むのだろうか。
固く閉まった筈の蓋が、カタリと震えた。
†王の盾、了。