第75話
カツン、カツンとやけに大きく足音が耳に響く。骨を通じて響くその音に、彼は普段の一歩以上の疲労を覚えていた。
「ああ……」
遠く、遠く、施設は離れていく。
後悔が心に残り続けて、どうにも心残りばかりがあって、それは晴れそうにもない。
黒色のブーツが地面をスローテンポに叩く。振り返れば施設はもう見えない。
「…………」
空を見上げれば青空が広がっている。
まばらに散った雲。日光は彼を照らす。いつも以上の暑さを感じる。
施設から離れ、彼の今立つ場所には建造物が立ち並んでいた。
人は少ないながらも歩いている。
ここにいる四島が逃げてきたことなど、街を歩く誰にもわかるわけがない。
「沙奈……」
止まってしまっていた歩みを進める。
振り返ることは許されない。戻ってはならない。
これは四島が選んだ道だ。
四島自身の手で、四島自身の意思で選択した。
もう過去は変えられない。
結局、自分は臆病者だったのだと思うと、ふと足が止まった。
「大丈夫かい?」
立ち止まり動かずに居ると、細目の老婆から声がかけられた。
白髪の老婆で、年も食っていそうな見た目だ。しかし、着ている服はそれなりに派手にも見えて、若々しくも見える。
「あ、はい」
「そうかい。……今じゃ戦争中だろう? 暗い表情のも多くてね。気が滅入っちまうよ」
明るく話す老婆はどこか苦しげな笑みを浮かべた。彼女の顔は、きっと誰が見ても無理をしていると思えた筈だ。
「ああ、そうだ、最近あの子を見てないね……」
「あの子?」
「ここいらに住んでる、軍人さんの息子だよ。背はデカいんだけどね可愛いの。名前は剛って言ってね……。あんたと同じくらいだよ」
物寂しげな様子で語る老婆。
「厳しい家庭だったからかね。飯島さんの家は昔っから厳しいからねェ。私ぁ、世話焼いてやってたのさ」
過去を懐かしみ、彼女は笑った。
けれど、彼女の思い出話を聞いた四島は大きく心を揺さぶられる。
「最近は顔を見てないけど、優しい子だったの」
横断歩道の手前、建物の陰で交わされた一つの会話。
日の光は一層強く感じる。
「あ……」
「ごめんね。こんなオバさんの話に付き合わせちゃって」
「…………」
何も答えられなかった。
ただ、四島は恐ろしかったのだ。
「大丈夫かい?」
「大丈夫、です」
何とか絞り出す様に答えると、彼女は少しばかり疑う様な視線を投げかけてきたが、これ以上の干渉はするつもりもなかったのだろう。
「こんな苦しい時さね。あんたも色々あるんだろう? でも笑顔は忘れちゃならんよ」
老婆はニコリと笑う。皺の深い笑いだった。作り笑いだった。
そんな言葉から、そんな笑顔から、彼は逃げ出す様に歩き始めていた。
笑えない。
作り笑いすらも浮かべることができない。
歩き出した四島に、老婆の声はもう聞こえなかった。




