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カナリアの空

作者: 悠井すみれ

「空を飛んでみたいなあ」

「バカじゃねえの」


 スポットとカナリアの、それはお決まりのやり取りだった。毒の雨が降る灰色の空を飛んでみたいとか、実際おかしいとしか思えなかった。


「そうかなあ」


 へらへらと笑ってたカナリアがどんな気持ちだったか。スポットが知るのはずっと後になってからだった。




 ドームの真ん中に(そび)える()、カナリアの部屋はその上層部にある。ボスの大事な小鳥だから、ボスの傍にいるって訳。でも、それは大体の連中にとって、訪ねに行くにはちょっと手間な場所にあるってことでもある。


「カナリア、起きろよ! このねぼすけっ」


 だからカナリアを叩き起こすのはスポットの役目になることが多い。カナリアが鳥籠の小鳥なら、スポットは放し飼いの犬。同じペット同士、カナリアの部屋に入っても何の問題もない。たとえ二人がもう十四歳で、相手が女の子でも。カナリアならそんなこと気にするもんか。


「んーもうちょっとだけ……」


 ほら、スポットが遠慮なくドアを開け放って枕元まで近づいても、まだシーツに(くる)まってむにゃむにゃ言っている。


「起きろって。今日は大事なお客が来る日だろ? ベルティーニ・ドームのフェデリコ翁――ボスに恥かかせる気かよっ!?」

「ふぇ? そうだっけ?」


 シーツを剥ぎ取りながら耳元で怒鳴ってやると、カナリアはうるさそうに顔を顰めて身体を丸めた。ショートパンツにキャミソール。だらしない格好でやっとベッドに半身を起こしたカナリアは、寝乱れた髪を手櫛で梳いた。それだけでつやつやした金の煌きが宿るんだからすごいというかズルいというか。


「下で姐さんたちが待ってる。着替えと――化粧もするんだろ?」

「ん……そうだった。すぐ行くね。錠剤(タブレット)取って」


 細い指が示すのは、枕元のピルケースだった。他の女の子と同じように、カナリアもビーズやシールで飾った自分だけのケースをちまちまと作ってた。スポットも見慣れたそれを投げ渡してやると、カナリアは掌にざらざらと幾つかのカプセルや錠剤を取り出す。


「……パーティなんだろ? そんなの食べなくても良いじゃん」

「今、お腹空いてるの!」


 首を傾げるスポットに、カナリアは錠剤を噛み砕きながら答えた。唇の隙間から漏れるミントとベリーの香料が、鼻をくすぐる。パーティじゃご馳走が出るのに――もしかしたら本物の鶏や豚の肉だって! ――もったいない。


 錠剤を呑み込んだカナリアは完全に目が覚めたらしい、ぱっちりした青い目が輝いている。


「ベルティーニ・ドームかあ……きっと、大きな船で来てるんだよねえ」

「遊びじゃないんだぞ。見せてもらえる暇なんてないだろ」

「そっかあ」


 寝坊しておいて、うっとりと夢でも見ているような目つきにスポットは少し苛立った。


 結局、カナリアが顔を洗って歯を磨くまで、スポットがつきっきりで急かさなきゃならなかった。




 朝の騒ぎが嘘のように、カナリアは綺麗に仕上げられていた。普段は下ろしてる金色の髪は、結い上げて首筋を見せて。名前に合わせて――本物のカナリアなんて見たことないけど、記録だとそうだった――明るい黄色のドレスを纏ってる。光沢のある生地は、昔のシルクって素材の再現だ。髪と耳朶と首を飾るのは、模造だけど柔らかい輝きを放つ真珠。このジェッダ・ドームができる最高の装いに、見慣れているはずのチェリオだって軽く目を瞠るほど。


「カナリア、綺麗だ」

「ありがと、チェリオ」


 そういうチェリオも、こういう改まった席だと普段以上に格好良いんだけど。スーツとかいう、動きにくそうな服――でも、黒い色がボスの紫外線に灼けた肌とよく合ってる。黒い髪を撫でつけて、気取った仕草でカナリアに手を差し出すと、ふたりだけの世界、って感じ。まるでスポットなんかお呼びじゃないみたいだ。


「スポットも。今日はめかし込んでるな」

「……そうだよ。給仕ってやつ、やるんだ!」

「そうか、頼んだぞ」

「任せろよ」


 でも、ボスがやっとスポットを見て笑ってくれたから、仲間外れのイヤな気分もたちまち消えた。ちょっとくらい不機嫌な時も、大きな手でくしゃりと髪を乱してもらえると嬉しくなっちゃうんだ。スポットはチェリオの犬、飼い主に構ってもらうと、犬は喜ぶものだから。

 ボタンのついたシャツは、窮屈で仕方ない。でも、カナリアほどじゃないにしても、役に立てるところを見せなくちゃ。


 でなきゃ、拾ってもらった意味がない。




 ベルティーニ・ドームからのお客を迎えるパーティは、塔の中層に位置するホールで開かれた。何日か前から飾り立ててたけど、一行があまり驚いた風じゃないのがスポットには癪だった。


 客の中でも特に悠然と会場を見渡すフェデリコ翁は、がっしりとした背の高い男だった。顔には深い皺が刻まれているけど、歩き方も話し方もしっかりしている。こんなに元気そうな年寄りを、スポットは見たことがない。ジェッダ・ドームではそもそも年寄りが少ないんだけど。


 スポットが興味津々で見つめる先で、フェデリコ翁の目はカナリアに釘付けになっていた。


「これは綺麗な嬢ちゃんだ。その髪は、天然の金髪か?」

「ええ。目も、青空みたいで綺麗でしょう」

「ふむ、本当に珍しい」


 ベルティーニ・ドームはジェッダ・ドームよりずっと大きくて資源も抱えてるって話だ。だから、取引をしてもらうためにはこっちが頭を下げなきゃいけない。だからこそ総出でパーティを開いてるんだし、ボスも丁重に扱ってるのが分かる。――でも、どうもカナリアに近づき過ぎじゃないだろうか。カナリアも、どうして笑って肩を抱かせてるんだろう。


「坊や、こっちにも飲み物を」

「あ、はいっ」


 グラスを乗せた盆を手に、カナリアたちの様子を窺っていたところに声を掛けられて、スポットは慌てて跳び上がった。

 空のグラスを振ってるのは、フェデリコ翁が連れて来た女たち。カナリアみたいに着飾ってるけど、カナリアよりも歳上だし髪や目も暗い色ばかりだ。


「若いのに頑張ってるのね」

「別に大したことじゃ……」


 グラスを渡した手を赤く塗った爪でなぞられて、スポットは口ごもった。本当に大したことじゃないんだ。今日じゃなくても、スポットができるのはボスの後をついて回ってちょっとした雑用をするくらい。あとは、カナリアの話し相手とか。ドームの外に出て廃墟を漁る捜し屋とか、肉や野菜の培養工場で働く連中に比べれば、何てことないことだけだ。


「名前、何ていうの?」


 さっさと他に移ろうとしたのに、女たちはスポットを取り囲んで離してくれなかった。



「スポット……ぶち(スポット)が、あるから」

「あら、ほんと」


 くすくすという笑い声が肌をくすぐるような引っかくような気分がして、スポットは居心地悪く辺りを見渡した。カナリアはもちろん、チェリオもこっちの様子に気付いてはいないようだったけど。


「ここのボスのワンちゃんってとこ? 可愛いわ」


 女の一人が、指を伸ばしてスポットの目元に触れた。スポットの名前の由来になった、黒い(スポット)に。汚染の進んだ()の住人にはよくある障害の一つ――といっても、スポットの場合は見た目だけ、右目の周りの肌が変色しているほかは、いたって健康だ。


「うちのボスが取られちゃって暇なの、遊んでよ」

「あの小鳥ちゃん、まだ小さいのに大したタマねえ」

「ベルティーニ・ドームに取り入ろうってのね」


 スポットの答えに構わず、女たちは好き勝手に笑ってる。でも、目つきは何だかトゲトゲして怖い。だからスポットは曖昧に相槌を打ちながら、女が持ってるグラスを見つめた。女たちの紅い唇もきらきらした目元も、白い首筋も、真っ直ぐに見るのは何だか気後れがするから。




『ドームを外から見るとこんな感じだ』


 チェリオの声が蘇った。一日の終わりに三人で寛ぐ、いつもの時間のことだっけ。ウィスキーを飲み干した後、チェリオはグラスをひっくり返した。

 スポットの名前の由来になったぶちのある犬や、工場でチューブに繋がれた(チキン)じゃない、ちゃんと空を飛ぶ鳥。珍しい紙の本や映像記録を使いながら、知らないことを教えてくれるのが楽しくて、スポットはこのひと時が好きだった。


 その日は、スポットたちが暮らすドームについての授業だった。


 テーブルの上に逆さに置かれたグラス、その中に閉じ込められたのがスポットたち人間だ。グラス――ドームに囲まれて、外の汚染された大気から身を守っている。外に住んでる人間もいない訳じゃないけど、荒れた環境では細々としか暮らせない。嵐で疫病で、あっさり全滅することもしばしばだ。


『じゃあ、これは塔ね』

『そう。賢いな』


 天井へ聳えるグラスの軸を、カナリアが指先で弾いた。呑み込みが良くてチェリオに褒めてもらえるカナリアはズルい。後れを取らないように、スポットも慌てて声を上げた。


『塔って何なの?』

『宇宙を目指して建てたらしいぞ。今じゃ技術も資源もないから無理だがな』

『宇宙!』


 そう聞いてカナリアの目が輝いたのが嫌だった。空とか宇宙とか、カナリアは夢みたいなことにばかり惹かれるんだ。今の暮らしはチェリオのお陰――なら、もっと手伝うとか力になることを考えれば良いのに。少なくともスポットはそうなのに。


 カナリアは、少し恩知らずだ。




「なんだお前ら、ガキの相手が良いのか」

「あら、ボスが若い子に取られてしまったんだもの」

「あんな子供のどこが良いのよ?」


 生返事で女たちをやり過ごして、どれくらい経っていたんだろう。気が付くと、女たちはフェデリコ翁にしなだれかかっていた。はっと顔を上げて見れば、チェリオの隣にはちゃんとカナリアがいて安心する。


 これでもうお開きなのかな。答えを求めてチェリオを見ると、にこりと笑ってくれた。ただし、スポットに対してじゃなく、ジェッダ・ドームの皆に対してだったけど。


「ここからはフェデリコ翁との商談になる。カナリアだけ連れて行くから、皆は引き続き楽しんでてくれ。――スポットは、お客の案内を。お前ならどこでも入れるだろう」

「……それだけ?」


 名前を呼ばれて喜んだのも束の間、命じられたのは結局女たちの相手ってことだった。スポットは不満で唇を尖らせでも、チェリオは気付かないフリだ。


「ああ。大事なことだ」


 嘘だ。別にスポットを見込んでくれたからじゃなく、暇な奴を取りあえず宛がっただけ。どんなに頼んでも大した役目を与えてくれないのは、今に始まったことじゃないけど。


「……分かったよ」


 フェデリコ翁との話し合いに一緒にいさせてもらえるカナリアの方が、絶対大事な仕事だと思うのに。お客の前で文句を言うことなんてできなくて、スポットはただ頷くことしかできなかった。




 スポットは結局、夜更けまでフェデリコ翁の女たちに連れ回された。あれが欲しいとかこれがないかとか、ひっきりなしの要求に疲れ切って、やっとチェリオの部屋に戻れると、飛び込んだソファの柔らかさが嬉しかった。チェリオは安楽椅子に、カナリアはベッドに腰掛けて。三人で寛ぐ時の、これが大体お決まりの位置だった。


「大変だったんだね」

「お前はボスと一緒だったから良いよな。何話してたの?」

「色々。あっちのドームから何が欲しいとか、こっちは何を出せるとか。ベルティーニ・ドームのことも、聞かせてもらったよ」


 昼間は食べる暇がなかった分、スポットはパーティの残り物を摘まんでる。揚げた芋とか鶏肉とか、柔らかく煮込んだ豚肉とか。一方のカナリアは、また錠剤ばかりを齧っている。ご馳走よりそんなのが良いなんて、変な奴。


「どんなとこだって?」

「すごいんだよ! 自然の森が少しだけど残ってて、飛んでる鳥もいるんだって! フェデリコ翁もペットを飼ってるんだって。本物の、鳥とか犬とか蛇とか!」

「ふうん」


 また、カナリアが夢見る目になっている。フェデリコ翁との話は大事な商談で、カナリアがはしゃいでる場合じゃないのに。よその話にばっかり目を輝かせて、チェリオがどう思うかは考えないんだ。そんな、カナリアのふわふわしたところが気に入らなくて――つい憎まれ口を叩いてしまう。


「そんなにすごいなら、ベルティーニ・ドームに行けば良いじゃん」

「え、っと……」


 でも、カナリアが頬を強張らせたのを見て、すぐに後悔する。青い目が揺らいで、それからチェリオの方を見るのも辛かった。スポットが虐めたと言われたらどうしよう。


「カナリア。スポットにも言っておけ」

「う、うん……」


 何だろう。スポットを置いてけぼりにして、何の話をしてるんだろう。泣きそうなカナリアと、怖い顔のチェリオと。何だか嫌なことが起きそうで、スポットは脂で汚れた指をシャツで拭った。そこに、ふわりと甘い香りが漂う。カナリアが齧ってた錠剤の香料だ。カナリアが金の髪を揺らして、スポットの顔を覗き込んでる。


「あのね、スポット。私、本当にあっちに行くんだ。フェデリコ翁が、私を欲しいんだって」

「――そんな、何でだよ……っ!?」


 息が止まるような衝撃は、一瞬。それが過ぎ去ると、スポットは思わず地団駄を踏んで喚いていた。みっともないと思っても止められなかった。だってこんなのおかしい。カナリアが他所に行ってしまうなんて。


「そんなの、ダメだろ……!」


 カナリアは、ジェッダ・ドームに必要な存在だ。ボスの気まぐれで拾われたスポットとは違う。他にはいない金の髪と青い瞳、白すぎる肌と細すぎる手足。どう見てもまともに働くことなんてできやしない。でも、そんな子を綺麗なままで置いておく余裕があるってことが、ドームの評判には大事なんだ。チェリオも皆もそう言ってて、だからカナリアは何もしないでも許されてきた。なのにここを見捨てるなんて、そんなの勝手だ、我が儘だ。


「だって、フェデリコ翁は他に欲しいのはないんだって。ベルティーニ・ドームと取引したいところは沢山あるから、選んでもらえるにはこうしないと……!」

「ベルティーニ・ドームとの関係とカナリアと。天秤に掛ければ答えは知れる。皆にも明日説明するが、分かってくれるだろう」


 二人揃って、どうしてこんな言い方をするんだろう。まるで、スポットの聞き分けが悪いみたいに。


「そんなの……」


 いつの間にか、チェリオがカナリアの隣に並んでる。そうすると、二人との間にはっきりと線を引かれたようだった。スポットだけが線のこっちに残されたかのような。そんな気分に耐えられなくてそっぽを向くと、チェリオが苦笑したのを空気の流れで感じた。


「フェデリコ翁の出発にカナリアも同行する。あと何日かあるから、それまでは今まで通り仲良くしてくれ」


 髪をくしゃりと乱されて頭を撫でられても、全然嬉しいなんて思えなかった。今度ばかりはチェリオの命令に従うことができないのが、分かり切っていたから。




 スポットの最初の記憶はチェリオの声だ。親や兄弟もいたはずだけど、竜巻がジェッダ・ドームのすぐ外を吹き荒れて行った時、彼らの命と一緒に記憶も飛ばされちゃった。だから、スポットの人生は、半分砂に埋もれて死にかけていた時に降ってきた、チェリオの声から始まっている。


『こいつ、まだ生きてる』

『拾うのか? 止めとけよ、使えないガキを拾ってもどうにもならない。分かってるだろ、ボス?』

『……見ろよ、目の周りにぶち(スポット)がある。犬みたいだな……俺のペットってことにするのはどうだ?』


 砂の中から掘り起こされたスポットが最初に見たのは、間近に微笑むチェリオの目だった。防護服のゴーグル越しだったけど、この人なら守ってくれると信じられて安心できた。

 役に立たないのに拾ってくれた――その恩を、返さなきゃいけないと思ってるのに。スポットは、何もできないカナリアよりも、もっと何もできない。ただチェリオの後をついて回るだけの、雑種の犬でしかないんだ。




 フェデリコ翁の出発の日――カナリアとの別れの日はすぐにやって来た。スポットはほとんど眠れなかったのに、カナリアは今日ももねぼすけで起こすのが大変だった。ジェッダ・ドームを離れるのを何とも思ってないんじゃないかと疑うとやっぱり面白くない。あの夜からほとんど話してないから、お別れはちゃんとしたかったのに。こんな有様じゃそんなことできそうにない。


 だから、スポットはふくれっ面で飛行場までカナリアに付き添った。ベルティーニ・ドームの一行の見送りに、人を並べなきゃいけないし。

 人が住める世界と外を隔てるドームの透明な壁――昔の人が築いたというそれのキワには、探索や輸送用の飛行艇やジープが並んでいる。いつかは乗りたくて、大人たちの手伝いをしてくて、普段だったらドキドキしながら眺めるものなんだけど。ジェッダ・ドームのより二回りは大きいベルティーニ・ドームの船を見ても、全然ワクワクしないのが不思議だった。


「なんだ、不機嫌そうだな、犬っころ。小鳥と別れるのが寂しいのか?」

「いいえ、全然!」


 しまった、フェデリコ翁に気付かれた。最後まで失礼があっちゃいけないのに。

 そうだ、カナリアなんて裏切者、さっさと行かせちゃえ。そうすれば、スポットがチェリオを独り占めできるのかもしれないし。


「ほらカナリア、行くんだろ」

「スポット……」


 カナリアが悲しそうな顔をするのはズルかった。嫌なら嫌って言えば良いのに。そうすれば、スポットだってもっとちゃんと寂しがって、別れを惜しめるかもしれないのに。良い子ぶって仕方ないみたいな顔をするのは、ズルい。


「スポット、最後なんだから」


 チェリオまでスポットが悪いみたいに扱うし。どうして何でもないような顔ができるんだろう。


「ふん、納得してないんだな」

「違います」


 ああダメだ、フェデリコ翁を怒らせちゃう。小さなドームと取引をしてくれるなんて願ってもないことなんだ。出された条件を嫌々呑んだなんて思われちゃいけない。


 無理に笑顔を作ろうとした時、でも、意外なほど朗らかな声が降ってきた。


「じゃあ、もうちょっと一緒にいるか? 俺の船に乗せてやろう。小鳥の新しいお家を確認したら、安心できるか?」

「え……」


 ベルティーニ・ドームへの招待だって気づくのに、しばらくかかってしまった。スポットの髪をくしゃりと掴む、フェデリコ翁の手――チェリオとは全然違うかさかさとした感触なのに、何でだか優しい。


「あんたもだ、チェリオ坊や。飼い主の責任ってやつだ、二人を仲直りさせるまで見届けろ」

「ですが――」

「何日か留守にするくらい大丈夫だろ。それとも何か、あんたのとこはそんなに危なっかしいのか?」


 ()()扱いされたチェリオが顔を顰めても、フェデリコ翁は気にも留めてないようだった。それに、こんな言い方をされたら断るなんてできない。


 よく分からないまま、スポットはチェリオとカナリアと一緒にフェデリコ翁の飛行艇に乗ることになっていた。




「わ、すごい……!」


 離陸した瞬間にカナリアが上げた歓声が、スポットの胸を引っ掻いた。みるみる小さくなっていくジェッダ・ドームの工場や建物。普段見上げる塔が目の高さにきて窓まで数えられるよう。土埃を突き抜けて雲の中へ。その光景には、確かにワクワクさせられるんだけど。

 カナリアは、目新しい風景が見たいだけなのかな。取引のため、ジェッダ・ドームのためっていうのは言い訳で、例の空を飛ぶ夢って奴を叶えたいだけ、とか?


「俺の船は退屈か、犬っころ?」

「いえ、そんなことは……」


 カナリアを横目で睨んでいると、またフェデリコ翁に絡まれて、スポットは嫌々背筋を伸ばした。あのきらきらした女たちと話してれば良いのに、どうしてこの人は構って来るんだろう。不思議に思うスポットの腕を、フェデリコ翁はぐいと掴んでにやりと笑った。


「ちょっと男同士で話をしようや、スポット」


 名前、いつの間にか憶えられてる。チェリオを見上げてみれば、嫌そうな顔はしてたけど確かに小さく頷いていた。言うことを聞いておけってことだと思う。

 でも、返事をするまでもなく、フェデリコ翁はスポットの腕を掴んだままぐいぐいと歩き出していた。




 さすがはベルティーニ・ドームの船というか、飛行艇は飛んでる間もほとんど揺れを感じなかった。それでも窓の外を見れば、絶え間なく過ぎていく雲の流れで確かに地上を離れているのが分かる。ドームの内から見上げた時は灰色だった雲も、こうして中に入ってみるとずっと白い。こういう不思議な感じがカナリアには楽しいんだろうか。


「俺のことを横暴な爺だと思ってるんだろうな?」

「そんなことないです。……あ、ジェッダ・ドームを選んでくれて、ありがとうございます」


 ひと際豪華な扉を潜ると、そこはフェデリコ翁が寛ぐための部屋のようだった。ふかふかのソファに、温かくて甘いココア。多分材料からして質が違うんだろう、今までに味わったことのない良い香りがした。啜ってみるととても甘い。甘いけど、フェデリコ翁の用事が分からないから、スポットの態度も言葉遣いもぎこちない。


「スポット、犬っころ。ジェッダ・ドームでは家畜の繁殖は――してないか、クローンか。だが、人間のガキはいるよな? 子供は親に似るものだってのは、分かるな」

「はい……」


 それでもフェデリコ翁は分かりやすい言葉を選んでくれているようで、相槌を打つのは難しくなかった。


「カナリアみたいな金色の髪と青い目、あんな派手な色の人間はほかにいるか?」

「いえ……」

「だろう。ああいう見た目の人間はもうほとんどいないんだ。人種の混交ってやつでな、色水を混ぜると濁って黒くなってくな? 人の目や髪の色も同じことだ」

「はい……」


 フェデリコ翁の、言っていることは分かる。でも、カナリアとどう関係あるんだろう。カナリアは珍しい存在だから、ベルティーニ・ドームの方が相応しいってこと? それは、もう分かってるんだけど。

 スポットがぼんやりしているように見えたのかもしれない。フェデリコ翁は軽く顔を顰めてからぐいと顔を近づけてきた。顔に刻まれた皺の、一本一本も数えられるくらい。


「なのになんでカナリアがいるかっていうと――金髪に青い目の男と女を、ほんの何人かずつ生かしてるドームがあるらしい。他所に高く売るためにな。それを手に入れた辺り、チェリオ坊やは遣り手だな」

「ボスは……すごいんだ……」

「だが、子は親に似るって言っただろう? 近親交配って言ってな、近しい間柄で子供を作ってくと、悪いところも似て、煮詰まっちまうんだ。生まれつき身体が弱かったりバカだったりな。身体の中身も、あちこちおかしくなっちまう」


 フェデリコ翁が喋るにつれて顔の皺も動くのを、スポットはただ見入っていた。もう相槌を打つこともできない。ただ、嫌な感じだけが胸を満たして、喉を窒息させていくような気がした。


「カナリアは今までよく保った。だが、ジェッダ・ドームじゃ薬漬けにするしかできない。うちに来れば、もう少し長持ちさせられるだろう。チェリオ坊やを薄情だと思ってるかもしれないが、あいつはよく呑み込んでくれたんだ」

「…………」


 錠剤を齧るカナリアの姿を、思い出していた。皆が食べてる栄養剤やカロリー補給のと同じだと思っていた。でも、本当にそうだった? あんなに錠剤ばっかり食べるのを、おかしいとは思っていたのに。今日まで寝過ごしてたのも、怠け者だからじゃなくて……?


「どうして、教えてくれたんですか」

「犬っころが睨んでくるのが気に入らなかったからな。それに、誤解をしたまま別れちゃカナリアも可哀想だろうが」


 カナリアを可哀想と言いながら、フェデリコ翁はスポットも哀れむような目で見ていた。


「俺は、生きてるものが好きなんだよ。うちのドームで色々動物を育ててるのも、昔の連中がやらかした分を今の俺たちが埋め合わせようってことだ。お前も――頑張って生きてるからな」




 カナリアとちゃんと話をしろ。そう言われてフェデリコ翁の部屋から出ると、スポットは金の煌きを探した。乗員や例の女たちに聞きながら走り回って、船尾に辿り着いて――そこでやっと、カナリアが窓の外を見ているところを見つけた。


「スポット、聞いたんだね……」


 元々、展望室みたいな場所なのかもしれない。船尾は一面ガラス窓になっていて、外の様子が見えるようになっていた。といっても、見えるのはどこまでも広がる灰色の空と灰色の荒野だけ、大して綺麗なものじゃない。でも、カナリアにとってはあんなに夢見た外の空、なんだろうか。


「何で黙ってたんだよ。チェリオも、お前も……!」


 謝る言葉を考えてた。でも、いざ困ったように笑うカナリアを見ると、口にすることはできなかった。カナリアはいつもスポットより大人びてた。こんな大事なことまで隠してて、スポットを置いて行こうとしてた。


「ごめんね」


 怒っていたし、悲しいのに――でも、素直に謝られたら、続けることなんてできないじゃないか。やっぱりカナリアはズルくて、イヤだ。


「心配、させたくなくて……。どうしようもないことだし。それにね、ベルティーニ・ドームが楽しみなのも本当なの。だから、気にしないで……?」

「いつから知ってたんだ? 空とか、外とか! どうして、絶対無理なのに……!」


 カナリアの指先がスポットの目の周りの(スポット)を撫でる。その優しい感触に何も言えなくなりそうなのも腹立たしくて、スポットは必死に首を振った。でも、視界からは避けても、カナリアの声は追いかけてくる。


「無理だから、かな……? 夢見て、想像するだけならできるから。そうなったら良いなあ、って……」


 夢みたいなことばかり言うカナリアは、バカだと思ってた。でも、バカなのはやっぱりスポットだった。スポットが思ってた以上にカナリアは大人で、ものを分かってて、それに、どうしようもなく籠の鳥だった。


「ほら、そんな顔しないで。お菓子食べよ。お姐さんにもらったんだ。これからよろしく、って」


 そっぽを向いて目もつむったところに、甘い香りが鼻先をくすぐった。思わず目を開ければ、カナリアが笑ってチョコレートを差し出していた。まだ困ったような感じで、口元は少し震えていたけど、仲直りしよう、って言いたいのは分かる。フェデリコ翁が言ってた通り、ちゃんとお別れした方が良いのも。


「ん……ありがとう」

「別にもう会えないって訳じゃないし。手紙――映像送ってよ。チェリオに頼んでさ」

「うん、そうだな……」


 呟きながら半分こしたチョコレートを口に入れた――その瞬間、何だか苦いと思った。本物だから苦味があるとか、そんなんじゃなくて、もっと明らかに「ダメな」味だ。


「カナリア、これ……!」


 スポットが叫ぶのと、カナリアが崩れ落ちるのははぼ同時だった。カナリアの着てたワンピースの衣擦れに、どさりという音が重なる。スポット自身も、手足に力が入らなくて倒れてしまったんだ。

 急に暗くなる視界の中、最後に見えたのはカナリアが吐いた血の塊の赤だった。




 どこか遠くが騒がしかった。


「死にかけを掴ませようとするなんて舐めてるわ! ジェッダ・ドームとの取引はなしね?」

「黙ってろ。こんなに早く体調が悪化するはずない。医者を――」

「いらない! もう死んでるでしょ!」

「スポットがいない。カナリアと一緒じゃなかったのか?」

「あのガキは関係ないわ!」


 キンキンする声が頭に刺さって痛い。フェデリコ翁の声に、チェリオもいるみたいだ。スポットはここにいるのに、何を言ってるんだろう?

 目を開けても真っ暗闇だったので、最初パニックになりかけた。目が見えなくなったのか、夜まで眠り込んでしまったのかと思って。でも、目が慣れてくると辺りの様子が分かって来る。

 スポットは、コンテナの隙間に押し込まれていた。ベルティーニ・ドームへの手土産に、皆して詰め込んだやつ。スポットも手伝ったから、ラベルや封にも覚えがある。それなら、ここは倉庫ってことで、船尾のあの空間とそう離れていないはず。


 そう――騒ぎは、船尾で起きているようだ。そう気付いたスポットは、手探りで扉を目指す。たまに崩れたコンテナにつまずいたりしながら。足元がふらついたけど、カナリアがどうなっているかが気になって仕方なかった。だから、全身の力を使って倉庫の重い扉を、開く。通路を、ほんの短い距離を這うように進む。そしてもう一度扉を開ける。


 一面のガラス窓が、砂塵の舞う灰色の空がスポットを迎えた。さっきと違って、沢山の人が集まって窓を大分塞いでしまってるけど。声が聞こえた通り、チェリオとフェデリコ翁、両方のドームの面々。カナリアは真っ白な顔でぐったりとしてチェリオに抱かれてる。それから、フェデリコ翁の取り巻きの女たち。

 視線が突き刺さるのを感じながら、スポットは口を開いた。舌も痺れてて、思ったほど大きな声は出せなかったけど。でも、少なくともその場の全員の耳に届いたはずだ。


「カナリア、お姐さんからチョコレートをもらったって。すごく苦かった……あれくれたの、誰?」


 息を呑む音と、声にならない悲鳴がその場に満ちた。それを聞きながら、スポットは女たちひとりひとりの顔を、じっと見てた。皆、目と口を開いて驚いた表情――でも、一人だけ、他の奴らと感じが違う。ただ驚いているだけじゃない。そう、悪いことをしたのがバレた時の表情だ。


「――あんた?」


 一歩、そいつに歩み寄って尋ねる――と、また視界がぐるりと回転した。


「何言ってんのよ、このガキ……っ!」


 身体が床に叩きつけられた痛みで、突き飛ばされたと気が付いた。同時に、さっきよりも大きな悲鳴が上がる。


「アルマ、てめえっ」

「毒か!? 胃の、洗浄を……!」


 スポットの故郷を呑み込んだ竜巻は、こんな感じだったんだろうか。見上げる視界の中で色んな人間が行き交うのがひどくゆっくりに見えた。カナリアに駆け寄る人、アルマって女を取り押さえる人、チェリオはカナリアの口に息を吹き込んで、フェデリコ翁は何か叫んでて――それから、アルマが何本もの手をすり抜ける。スポットに迫る。ボールが二つ並んだみたいな胸元、その間から、銀色の煌きが見えて――


「なんで死んでないのよ! お前らが、余計なっ、ガキの癖に……!」


 黒い影が過ぎる。鈍い音が耳を、衝撃が身体を襲う。血の臭い。カナリアが吐いたのだけじゃなく、また新しく噴き出してスポットに降り注ぐ。


「チェリオ……血が……!」

「スポット……無事か、良かった……」


 カナリアを抱えていたはずのチェリオが、スポットの目の前に飛び出して庇ってくれた。アルマのナイフを、防いでくれた。ボスなのに、スポットみたいな犬っころのために!


「このアマ、船から降ろせ! 野垂れ死にさせろ!」


 アルマの悲鳴とフェデリコ翁の怒鳴り声がうるさかった。チェリオとカナリア、スポットの大事な二人が目の前で血を流して倒れているのに、なんであんなに騒いでいるんだろう。


「カナリア……チェリオ……」


 二人とも答えてくれない。スポットの声が小さすぎるから? でも、これ以上なんて無理だ。

 息を吸おうとしても、上手くいかない。視界が、また暗くなる。起きていなきゃと思うけど、苦しくて辛くて抗いきれなくて。


 スポットは、また目を閉じてしまった。




 フェデリコ翁の飛行艇は、出発してすぐにジェッダ・ドームに引き返したらしい。チェリオとカナリアの治療には、その方が早いから。悠々とした空の旅のはずが全力で戻ってきた船に、ジェッダ・ドームの皆はさぞ驚いたことだろう。


『あんたらにはデカい借りができちまったな……これからの付き合いで、存分に返させてもらおう』


 フェデリコ翁はそう言って帰ったとか。乗員が一人少なくなった船で、カナリアは連れずに。ベルティーニ・ドームに貸しを作ったこと、良かったと思える日が来ないだろうけど。


 一晩寝込んだだけで、スポットはあっさり恢復することができた。()の生まれで汚染物質――つまりは毒に、耐性があったからだって。それはつまり、あのアルマって女には運が悪かったってことなんだけど。

 チェリオの怪我も大したことない。女の腕で小さなナイフを必死に振り回しても、大の男の命を奪うのは難しい。


 でも、カナリアは――


「チェリオ……スポット……ごめんね……?」

「良いよ。喋るなよ。辛いんだろ」


 フェデリコ翁が残してくれた薬と設備のお陰で、取りあえず心臓を動かし続けることは、できる。でも、それだけだ。何本ものチューブに繋がれたカナリアは、食肉工場の鶏と同じでただ生きているだけ。それが可哀想で、目と手ぶりでカナリアの気持ちを確かめて、今朝全部のチューブを外した。ドームの皆がカナリアとのお別れに順番にやってきて、最後にチェリオとスポットが残った。


「私、これで良かったから……あんまり、悲しまないで……?」

「カナリア。無理をするな」


 ひと言ごとに苦しそうに息を吐くカナリアを見ていられなくて、チェリオもぎゅっと眉を寄せている。でも、カナリアは小さく首を振って止めようとしない。枕に散る金の髪もすっかり色あせて、まるで白髪だった。アルマって女は、カナリアにフェデリコ翁を取られるかと思ったんだって。カナリアはただ外を見てみたかっただけなのに、分からなかったんだ。


「遠くで長生きするより、二人と一緒で……どうせ、あっちでも籠の中だし……」

「元気になれば、行けるって。どこにでも。だから……」


 こんな時まで大したことを言えないスポットは、本当にどうしようもないバカだ。カナリアがどんな気持ちで空を夢見てたのか、ずっと分からないままで。チェリオにも庇われるだけで。最後の最後まで、何もできなかった。


「そうだね、スポットなら……。チェリオ、出してあげてね……?」


 カナリアの目も、今では乾季に濁った貯水池みたいな淀んだ色だった。今はない空の色、って。鏡を見ては喜んでたのが嘘のように。チェリオもそんなカナリアを見るのが辛かったんだろう、目を背けたいと首に力を入れているのが、傍にいるスポットにはよく分かった。


「ああ、カナリア。お前がそう言うなら」


 それでもカナリアの目を覗き込んでちゃんと答えたチェリオは、スポットよりもずっと強かった。




 カナリアが息をしなくなると、チェリオはそっと手を伸ばして目を閉じさせた。眠っているように見えれば良かったかもしれないけど、痩せ細った頬に静脈が浮かぶ肌――変わり果ててしまった姿を前に、そんな風に信じ込むのは難しかった。


「守るだけのものが欲しかったんだ……」

「え?」


 チェリオの手が伸びて、スポットの髪をくしゃりと乱した。いつもの仕草――だけじゃなくて、大きな掌で目を塞がれる。


「ドームの奴らには、危ないことも命じなきゃいけないからな……。ただ大切にして、全てから守ってやる相手……俺が幸せにできる存在があると、信じたかったんだな……」

「カナリアのこと?」


 温かい感触に目隠しされたまま、スポットは尋ねた。首を振って振り払おうとしても、チェリオは手を放してくれない。ボスのこんな声初めてだから、どんな顔してるのか気になるのに。


「お前もだ、スポット」


 顔を見るどころか、ぎゅっと抱きしめられて身動きもできなくなってしまう。頭に被さる感触は、多分チェリオが顔を埋めてる。


「だから、何もさせたくなかった……」

「俺、何もできないのは嫌だよ……カナリアのことだって……!」


 スポットとカナリアを、同じくらい大事に思ってくれてた? だから庇ってくれた? 何仕事をくれないのは、信じてないからじゃなかった? それは、嬉しいことかもしれないけど――でも、やっぱり嫌だ。カナリアのために何もできなかった、何も気づかなかった、こんな思いはもうしたくない。

 必死にもがきながら訴えると、そうだな、という呟きが降ってきた。


「あいつの願いだからな。あいつの分まで、お前には――」


 その呟きは、スポットの胸に落ちて染みる。カナリアが頼んだから。カナリアが死んだから、チェリオが考えを変えてくれた。スポットは最後まであいつに敵わなかった。




 ドームの壁が開く瞬間、スポットは防護服の繋ぎ目を念入りに確かめた。準備が甘いと、毒素を纏った砂塵が入り込んでしまうこともあるんだって。スポットはドーム生まれの連中よりも耐性があるけど、それでも過信しちゃいけない。スポットが迂闊なことをして死んだり怪我をしたりすれば、チェリオがまた泣いてしまう。――カナリアが死んだ時、チェリオは決して顔を見せてくれなかった。それは、そういうことだと思う。


「初仕事だな。気合入れろよ」

「うん!」


 駆け出しのガキをジープに乗せてくれた捜し屋に、勢い込んで頷くと、そいつは苦笑したようだった。防護服のゴーグル越しだけど、仕草や雰囲気は伝わるものだ。


「……ま、肩肘張って消耗するのも良くないからな。今日は様子見だ。外で動く感じだけ掴んどけ」

「うん!」


 言葉を交わす間に、捜し屋はエンジンを掛けて勢いよくアクセルを踏んだ。乾いた大地をタイヤが噛んで、瞬く間に砂埃が舞い上がる。


 目の前に広がるのは、灰色の大地と灰色の空。カナリアが夢見て、一度だけしか飛ぶことができなかった世界。味気なく何もないようにも見えるけど、これがスポットが生きる世界。


 犬っころには翼なんてないけれど、だからこそ駆けて這いずって生きていこう。カナリアが飛べなかった分まで、どこまでも。

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― 新着の感想 ―
[一言] カナリアの存在の儚さ、美しさの描写がさりげなくも印象的でした。 描写について考えさせられます。 一所懸命なスポット。 彼はこれから幼さを脱いで、これからぐっとたくましくなっていくのだろうな…
[良い点] 『ペダンティズムの時代』は未読でございましたが、興味深く拝読いたしました。 カナリアは、籠の鳥、か弱い存在の比喩に使われ、この物語の「カナリア」も儚い少女でした。 そうやって命をつないでい…
[良い点] 最後までどうなることかとハラハラしながら拝読しました。 スポットとカナリアとチェリオの関係。愛を下地に憧れとうっすらとした妬み、焦りの入り混じる3人の姿に引き込まれました。 最初はスポット…
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