165話 渓谷底の戦闘
リャアン様は大地を蹴って飛び上がり、自重で足元を抉りながら着地。悠々方位を抜け出した。
折角囲んだのに抜けられた。…面倒な。だが、やることは変わらない。殴れば死ぬ。囲んで殴ればいい。
…と言いたいが、大丈夫だろうか? 今の彼の纏うオーラは間違いなく「チヌカ」のもの。妙な力を得ていないかどうか。そこが問題だ。
さすがにリャアン様も、俺らが何もせずに待機しているだけならそうやすやすと手を明かすことはしないはず。何か仕掛けてくるならそれ相応のリターンの確証を得た時だろうし…。
ああ、厄介だ。何をしてくるかわからないから下手に動けない。だが、動かなければそれはそれで、彼に時間を与えてしまう…。最大限警戒しながら囲むしかないか?
俺らは手を出せず、リャアン様も動かない。そんな小康状態に突入していたが…、それはリャアン様によって破られた。口を三日月の如く歪ませながら、口を動かし言葉を紡ぐ。
その言葉は彼の移動によって出来た風の音に遮られて聞こえない。何が目的だ!? …四季か!? しくじった! 確実に俺も四季も間に合わない!
リャアン様は俺らの間を駆け抜けた。俺の妨害も、子供達の邪魔も遅くて意味をなさず、四季の顔を守ろうとする腕の動きよりもなお早く、彼女の顔に手をかざしていった。
瞬間、「パキィィン!」と甲高い、センが四季にかけてくれていた結界が砕け散る音が響いた。
「ッ!?アアアアアア!」
結界破壊に一拍遅れ、四季が頭を抱え絶叫する。
「お母さん!?」
「おかーさん!?」
「母ちゃん!?」
「お母様!?」
子供達が俺より早く声をあげる。
助かった。皆のおかげで何とか「四季!?」と叫ばずに済んだ。冷静になれ。落ち着け。俺。
四季がこのザマで、俺まで錯乱してしまえば…、この子らまで混乱して収拾がつかなる。シールさんがいてくれているけれど、きっと無駄だ。それくらいこの子たちの俺らへの偏執的とまでいえる信頼は強い。
「『回復』」
「ブルルッ!」
ひとまず、『回復』を。何が起きているかわからない。だが、これで少しはましになるはずだ。
『回復』の光に続いて温かい光が四季を包んだ。センの『浄化』の魔法だ。落ち着いたか…? 四季の叫び声も少し落ち着いてきた。
「ぎっぃいいい!」
安心した瞬間からこれか! まだか! まだ足りないのか! 意味があるかわからないが『回復』!
元凶を叩けば治るか? なら、リャアン様はどこだ? 近くにいないことは分かってる。どこにいる?
目の届く範囲に目を滑らせる。一体どこに…、あ。いた。スルーしかけたが。いた。
…遠い。かすかに見えるだけだ。かなり遠い。しかもリャアン様は何かしているっぽい。一点に座り込んでジッと立ち止まっているのはいいが…、赤い目が霧の中でなお不気味にぼやっと浮かんでいる。まだ魔法は終わっていないのか?
なら、離れて殴るのは得策ではない。殴りに行くまでに終わる可能性がある。四季に寄り添ってひたすら彼女が何かに耐えるのを手伝おう。
「皆、悪いがちょっとの間、俺らを守ってくれ」
俺の声に素早く態勢を整える子供達。怒りを目に湛え、シャイツァー持ちの子達は各々の得物を軽く振り回し構え、レイコは詠唱を始める。そして、シールさんは俺らの後ろで奇襲を警戒してくれている。
センは…、既に来てくれてる。馬車もろとも走り寄ってきて俺らを浄化結界で包み込み、『浄化』を四季にひっきりなしにかけてくれる。ありがとう。
俺も行動せねば。顔を押さえて座り込む四季の空いている手をそっと取る。そして片手で包み込む。もう片方の手は『回復』と書かれた紙を握りつぶし、繰り返し『回復』と紡ぐ。
たった5回ほどの使用で紙が消える。だが、まだ辛そう。…ひょっとして『回復』は効果が薄いか、ない? いや、だが…、続けた方が良い。『回復』の紙は…、あ。
顔からスッと血の気が引いた。まずい…。今使い切った紙以外の『回復』は全部四季に預けたままだ!?
「ぁぅぅ…、しゅ…ぅ、君?」
この距離でないと聞き逃してしまいそうなほど弱弱しい四季の声。思わず空いた手でも四季の手を握る。じわじわと彼女の温かさが伝わってくる。
「大丈夫。四季。俺はここにいるから。」
彼女の耳元でリャアン様はおろか、近くにいてくれているセンやアイリ達にさえ聞こえないほど小さな声で返す。
小さすぎて彼女にさえ聞こえていなくとも構わない。何度だって声をかければいい。四季なら握っているだけで、この手が誰のものか察してくれそうだが。
俺が声をかけるたびに、手の握り方を少し変えるたびに、四季は俺の名前を辛うじて俺が聞き取れる声で呟く。それを繰り返していると四季の目の焦点があってきて…、
「あな…た?」
完全に焦点のあった目で俺をそう呼んだ。あぁ、よかった…。
「お帰り?」
「ただいま?です。」
互いにこれでいいの? と思いつつ言葉を投げ合った。
そんなたいして面白くもないはずのやり取りが、嬉しい。クスっと笑い声が漏れて二人でクスクス笑う。彼女の顔が愛おしい。
「母ちゃんに声かけたのに無視されたぜ」
「…二人で喜んでるし、仕方ない」
「ああ。ごめんなさい。ただいまです」
その言葉に子供たちは速攻で挨拶を返す。
「立てる?」
「ええ。勿論です。肉体的にも精神的にも問題ありません」
手を引いて四季を抱き起す。見た限りは本人の言うように大丈夫そう…だな。
「私はこのまま黙っているつもりはないのです」
「俺もだ」
四季をあれほど苦しめるなぞ絶対に許さない。だが、行動するには情報が必要だ。
「…で、何をされた?」
「あ、情報共有はちゃんとするんだ。」
そりゃしますよ。シールさん。無策で突っ込んでどうするんですか。
「あ、皆、俺らも警戒するけど、アレの警戒はしていて」
愕然と膝をついていて、隙だらけに見えるが…、これで手痛いカウンターをくらうと笑えない。せめてあの謎の攻撃の対策だけはしておきたい。
「何された?」
「洗脳…だと思います。」
うわぁ…。
「あ。完全無欠に失敗させてやったので、私への影響は皆無ですよ」
それは安心。だが…、洗脳か。何がやりたかったかわかってしまう。それだけでムカムカする。
「彼のやりたかったことはほぼ貴方の想像通りだと思いますが…。聞きますか?」
暗に「聞いてしまうと、怒りが天元突破すると思いますよ?」と尋ねてくる。
「君から聞かないなんてありえない。勿論聞く。」
怒りに任せたとて中途半端では先のようになるのは目に見えている。だから抑えて見せるさ。
「逆に聞くけど…、君も俺に話して大丈夫か?辛くなったり…、怒りがこみあげてきたりしない?」
「あぁ…、思い出すだけでムカムカしますが、こらえてみせますよ。必要でしょうし…、何より貴方が聞きたいと言ってくれているのですから」
言い切ると顔をキュッと引き締めた。
「私が受けていたのは記憶への干渉だと思います。頭の中にある記憶全部に干渉、それによって洗脳しようとしたみたいです」
あの攻撃のターゲットは記憶か…。下種が。
「普通に思考回路を書き換えることも出来るでしょうが…、私の中からリャアン様以外すべてを無くそうとしたみたいです」
ん?
「干渉されたのは君の中の、俺と君の記憶だけじゃないのか?」
四季の中にある俺の記憶を全てリャアン様とのものに置換すれば、四季はリャアン様を好きになってしまうはず、後は、彼女の好みを書き換えてしまえばリャアン様の「四季が皇帝の妻」という妄言は達成できるはずだが…。
「えぇ。文字通り全部ですよ。貴方との記憶は勿論、子供達との間に作った思い出も、私と両親との歴史も、友達との思い出も、通りすがりのおばあちゃんに至るまで全てです」
何で…、あ。まさか…。
「おそらく貴方の推測で合っていますよ。それらを消す。というだけなら万が一にも残った記憶から自力で洗脳を解いたら困るというのが理由なんだろうと思いますが」
四季の言い方的に、そうではない。ってことか。となると…、
「思い出を作るのを面倒くさがった?」
通りすがりの人と楽しく話す記憶を、リャアン様と四季が楽しく話す記憶にしてしまえば簡単に思い出は作れる。…偽物ではあるが。
「だと思いますよ。彼と私が恋人だったら?という下らない仮定の下、矛盾しないように記憶を改変。彼が不要だと断じたものを破棄させようとしてくれやがったようです」
はぁ?
「えーと、ちょっと待って。それって子供達を俺と君じゃなく、リャアン様と君の子という記憶に改竄する…ということではないよね?」
「ええ違いますよ。リャアン様と私の子供。そうするより、子供達の記憶から都合のいい部分だけ抽出して改竄。残りは破棄して私の中の彼のウェイトを大きくしたかったようです。そうすれば手ごろに思い出を偽造できますからね」
四季の中にリャアン様しか残さない気…。そのうえで、思い出も偽造すると。…成功していれば完膚なきまでに四季が破壊されるぞ!?
「よくちょっかいをかけられた記憶は料理でしょうかね。特に長女ちゃんなんて一番彼にとって都合が良さそうでしょう?」
頷く前にアイリから殺気が吹きあがった。四季を洗脳しようとした。これだけで十分アイリを怒らせていたのに…。逆鱗に触れた。いや、逆鱗を砕いたと言うべきか。
アイリは俺らの作る飴が好きだからな…。
「…作ってくれる飴。だよ」
そこ訂正するのね。押しつけがましくなるから心の中でもそうしなかったんだけど。読心されてたって事実はゴミ箱に投げ捨てる。
「…わたしを愛してくれるお父さんとお母さんを奪うのは許さない」
静かに怒りをにじませながらアイリが零した。アイリの俺らへの想いは結局、そこに帰着する。しっかりとアイリに思いを注いで行動する。その一点に。
だからアイリにとって「四季の記憶をリャアン様が自分の欲望のために。四季がアレのために、顔はいいけど中身が終わっているせいで台無しの笑顔を見るために飴を作った」なんて許容できるわけがない。勿論、俺も。そしてカレンも、ガロウも、レイコも。
「後…、君と両親の記憶もリャアン様は弄ろうとしたんだよな?」
「ですね。親の愛をアレの愛にしようとしたみたいです」
馬鹿げてる。親から子、子から親への気持ちは、恋人同士の時の気持ちとほぼ間違いなく等価ではないはず。
「要するに、リャアン様は私に与えられた+の感情を全部アレから与えられたものにすり替え、私が与えた+の感情を全てリャアン様に与えた。としたかったようですよ。後はいらないから破棄。今の私を殺したかったようですね」
馬鹿げてる。そんな感想しか出てこない。
「ああ、ですが。先も言ったように何も出来ていませんよ。かなりしんどかったですが、抵抗しましたから。それに、センや貴方の助けもありましたしね。出来て「記憶の上っ面を舐める」ことぐらいでしょう」
たぶん今だに私の名前さえ知りませんよ。そう四季は続けた。
上っ面を舐めるだけ。四季は何でもないように言ったが、記憶を他人に無遠慮に触れられ、こねくり回されそうになる。その気持ち悪さはどんなものなのだろうか?
「いい加減本題に入りますか」
ああ。そうだ。対策を立てようとしてたんだった。
「私の抵抗方法ですが…、頭の中に記憶の箱があるので、それをひたすら開けられないようにします。隠したり、箱に蓋をしたりして」
言葉だけ聞いていると楽しそうに聞こえなくもない。子供が見られたくないものを必死に隠して見せないようにしようという…そんな微笑ましさすらある。
四季がやっていたのはおぞましい「洗脳」への抵抗だが。
「一番確実なのは記憶の箱がある部屋から閉め出すことですね。部屋の中にあるモノを見ることは出来るみたいですが、部屋の中の記憶には一切の手出しは出来ません。箱と部屋の二重防壁にもなります」
子供の遊び的なものだったのに、暴君的手段に出たね…。
「こちらの方がきつかったですね。部屋は移動できませんし」
記憶を保存している脳は移動できない。だから、脳の中身を弄られないようにそこから無理やり閉め出す。…という感じだろうか? 部屋(脳)の位置は変わらないリャアン様はドア目がけて一直線に突撃すればいい。彼にとっては楽だ。
となると、さっき四季が言ってた箱を隠す、移動させるというのは…、脳の中にある記憶を移動させて逃がす。というようなものか? 一直線に突撃してもそこには既に何もない。四季にとってはこっちの方が楽? …ではないな。箱は一つではないのだから。
ま、何はともあれ…、
「君が無事で本当によかった」
四季を引き寄せ、ギュッと抱きしめる。彼女の顔が俺の顔のそばに。勢いで髪がゆらり揺れ、四季のいい匂いがふわり舞い上がり鼻腔をくすぐる。
「心配をおかけしました」
ギュッと四季も俺に抱擁してくれる。俺と彼女の体の触れ合う接触点から、じんわり温かさが広がって幸せな気分になる。
四季とこうすることが出来て…、四季が抵抗しようとしてくれてよかった。そうでなければきっと四季を守れなかった。
「貴方。悲しそうな顔してますよ?」
「ああ。君があの一瞬で死ぬ可能性があったと思ったらゾッとしたんだ」
さっきからたびたび思っていたが…、抱き合っていたら改めてそのことが目の前に突きつけられた。記憶を完全に改変された四季は…、俺らの知ってる四季としては死んだも同然だ。
「あー。なるほどです。記憶──特に貴方と私の──を改竄されたくない一心だったのでそこに意識行ってませんでしたが…、そうですね。その可能性もありましたね」
人のこと言えないけれど気づくのが遅いよ。四季。
「あ、そうだ。『回復』と『浄化』、効果あった?」
「『回復』はおそらくなかったですね。貴方の声の方が、よほど効き目ありました。『浄化』一択ですね」
なるほど。記憶という不定形のモノに対する攻撃だからか? それとも、チヌカと化したリャアン様の特性によるものだろ…、
「ああアアあああアア゛ア゛あ゛ア゛ア゛!?」
「父ちゃん達!」
「ああ!」「ええ!」
リャアン様が絶叫し始めた。言われなくとも警戒はしてたさ。でも、ありがとう。
「皇帝は皇帝である!何故、何故…、皇帝の思い通りにならぬ!」
絶叫して四季に向かって再度突っ込んでくる。だが…、先に比べると動きが雑。リャアン様の手が四季に翳され黒いモノが四季を襲おうとしたが…、俺が直接リャアン様を吹き飛ばし、アイリが鎌でその黒を切り裂き、カレンとガロウとレイコが各々の手段で俺同様に、リャアン様を吹き飛ばす。
「大丈夫か!?」
「はい!皆の援護がなくとも、先に比べるとないも同然でしたから…。頭が割れそうな痛みすらありません」
「記憶の欠損は?」
「先にないのにあるとでも?」
不敵に微笑む四季。そっか。ならいい。
「何故だ!何故なのだ!どうして皇帝の意向が通らぬ!?」
頭を抱えて絶叫するリャアン様。それが普通…。なんて言っても聞かないだろう。言って聞くならば俺らに再度手を出してきたりはしない。
…絶叫しているその姿は哀れ。そして、四季の言う事から鑑みるに彼の切り札であろう『洗脳』はもはや最初に四季に使ったほど効果は発揮できないはず。間違いなく好機だ。殴ってしまえ。
リャアン様の心臓を一突き…は、さすがにさせてくれないな。回避された。
「妻に言い寄る男…、貴様を殺して目を覚まさせる」
「ハッ。俺らからすればリャアン様、貴方が迷惑なのです。それを理解されておいでですか?」
「それに覚めるも何も、私は貴方ではなくこの人にゾッコンで、貴方のことなど眼中にないとお伝えしたことは忘れましたか?」
二人で煽る。そのあおりに対して返ってきたのは、俺も、四季もまとめて殺せる大きさを持った火球。
「「『『火球』』」」
同じ魔法で相殺する。威力も高くない。動く必要すらない。
「私を殺すおつもりですか?」
「五月蠅い」
「やはり口だけでしたか」
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い!」
四季が煽るついでに攻撃。俺らも加わり合計7人。煽られているのに動きが鈍らず、7人なのになかなか当たらない。回避能力が高い!
腐ってもチヌカということか? しかも、俺と四季の一撃の警戒レベルが高い。子供達のは当たっているのに当たらない。
「取り戻すだのなんだの言って…、」
「五月蠅い!貴様は皇帝の妻の偽物だ!皇帝は本当の妻を捜す!見つからなくば作り上げる!」
俺も四季も大きなため息を吐く。わかってはいた。わかってはいたが…、現実を見ていない。
「私こそが本物なのですがね…」
「言ってやるな」
四季の中身を知らないくせに「作る」とか言うやつに何を言っても意味はない。知らないのにどうやって中身を再現するのか…。ま、彼の興味は四季の外見にあって、中身ではないってことなのだろう。
「ま、いいです。やりましょう」
「ああ。やろう」
囲んで殴る。洗脳はもうできないだろう。出来るならばさっき火球を放ってきた説明がつかない。
さて、1VS7。センまで入れると1VS8だ。この戦いを終わらせよう。