藤崎さんが話したこととそれから
車を三十分程走らせたあとで、結局、環状線沿いにあった「ガスト」というファミリーレストランに入った。池田としてはもっとオシャレな感じの店にしたかったのだけれど、何だか途中で探すのが面倒になってしまったのだ。
席に着くと、ふたりは取り敢えずという感じで、トリンクバーをオーダーした。それから池田はハンバーグとライスのセットを注文し、藤崎さんはしばらく迷ってからパスタを注文した。
店内には平日の夜遅い時間帯ということもあってか、人影は少なかった。男女が入り混じった学生ふうの集団がちらほらいるくらいだった。
しばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。料理はべつに不味くはなかったけれど、かといって美味しいわけでもなかった。
店に入ってから、藤崎さんとは色々なことを話した。高校の頃の思い出話や、そのときの共通の友達が今何をしているかということや、大学時代がどうだったということや、最近見た映画のことまで、とにかく思いつくままに色々なことを話した。藤崎さんと話すのは楽しかった。何しろ久しぶりだったし、話題が尽きることはなかった。そして当然のように、話題は恋愛の話へと移っていった。
池田は、実は今日、自分は振られてしまったばかりなのだということを、彼女に話して聞かせた。厳密に言えば、池田が彼女に振られてしまったのは今日ではなかった。この前のデートの帰りだった。でも、そのとき池田は彼女に対してもう一度考え直してみてくれないかと言った。あっさりと別れを受け入れるほど、池田の彼女に対する気持ちは簡単ではなかった。
池田の言葉に対して、彼女はわかったと答えた。そしてそれから一週間が経った今日、彼女から電話がかかってきて、やっぱり別れたいと告げられたのだった。理由を尋ねてみたけれど、べつに理由と呼べるほどのものはないみたいだった。ただ彼女のなかで、気持ちが冷めてしめてしまったということらしかった。池田はもうそれ以上彼女を引き止めようとは思わなかった。一度引き止めてダメだったのだから仕方がない、と思った。それに無理に引き止めたりしても、自分が惨めになるだけだと判断した。
池田がそう言うと、藤崎さんは感心した様子で頷いた。
「池田くんは偉いなぁ。潔いいと思うわ。…わたしやったら、たぶん、未練たらたらやで。きっと」
冗談めかしてそう言った彼女の声は、でも、どこか哀しそうだった。
その言葉から何かを感じ取った池田は、「もしかして、藤崎さんもわかれたばっかりとかなん?」と、試しにからかうような感じで尋ねてみた。
すると、水面に一滴の滴を零したときのように、彼女の顔の表面に哀しみがさあっと広がっていくのがわかった。彼女はテーブルの上の飲み差しのコーヒーを手にとってそれを少し口に含むと、口元の隅でちょっとぎこちない感じに微笑んだ。そして、
「…そうやねん。実はな、わたしも別れたばっかりやねん」と、哀しみを誤魔化そうとしてか、明るい声で答えた。
「…わたしな、浮気されとってん。…それが原因で別れたんやけどな、最近なって別れるまで、そのことに全然気がつかへんかってん。それも一年近く浮気されとったらしくてな…もう笑うやろ?」
池田はどう答えたらいいのかわからなかったから、黙っていた。
藤崎さんは視線をテーブルの上に落とすと、話すべき言葉を見失ってしまったように黙りこんでしまった。池田は何か言おうと思ったけれど、でも適当な言葉が思い浮かばなかった。しばらくの沈黙のあとで、また藤崎さんが口を開いた。
「しかも、その浮気相手っていうのがな、わたしの親友やったりすんねんで。…それ知ったときは、自分のアホさ加減に何も言われへんかったわ」
そう言って、藤崎さんは少し無理に笑った。「…自分のすごい身近なひとと浮気してんのに、それに気がつかへんなんて、わたし終わってるよな」
池田はどうリアクションしていいのかわからなかった。少し迷ってから、「でもそれってちょっとひどいよな」と、慎重に言葉を選びながら言った。
「…なんで藤崎さんの彼氏はそんなことしてんやろ。…浮気するにしても、何も藤崎さんの友達とすることないのにな」
池田の言葉に、藤崎さんは何かを諦めたような、ちょっと寂しそうな微笑を浮かべた。それから、彼女はとなりの窓の向こうに視線を向けると、そのまましばらくの間黙っていた。池田は彼女の視線を辿るように、窓の外に視線を向けた。
暗闇のなかで、信号が青から赤に変わろうとしていた。通り鋏んだ向かい側にはマクドナルドがあって、その看板がライトアップされているのが見えた。目の前の道路を長距離トラックがすごいスピードで走りすぎていった。
「…わたしな、ずっとそのひとと結婚するつもりでおってん。…今思うとバカみたいやねんけどな、そのひととは結構長い付き合いやったしな…だからな…そんなひどい裏切られ方されてんのに、まだ忘れられへんかったりすんねん…ホンマ、アホらしいんやけどな」
藤崎さんは窓の外に視線を向けたまま、そうぼんやりとした口調で言った。少し弱い声だった。池田は何と言ってあげたらいいのかわからなかった。
「…でもまたいいことあるで」と、池田は気休めにもならないとわかりながらもそう言ってみた。池田としてはできるだけ彼女を励ましてあげたかった。
藤崎さんは池田の方にちらりと視線を向けると、「そうやね」と、いくらか哀しみを引きずりながらも小さく微笑した。
☆
☆
店を出たときには、時刻はもう午前三時を少し回っていた。結構長居してしまったな、と池田は思った。
帰りの車のなか、あまり会話は弾まなかった。お互いに、それぞれの思考のなかに沈み込んでしまっている感じだった。
藤崎さんが口を開いたのは、あともう少しでさっきのビデオ店に着くという頃になってからだった。
「さっきはごめんな」と、藤崎さんは謝った。何のことなのかよくわからなくて、池田は横目でちらりと彼女の方に視線を向けた。
すると、彼女は、「…久しぶりに会ったのに、ちょっと重かったよな。あんな話するつもりじゃなかってん」
と、言い訳するように言った。
池田は咄嗟に言葉が出てこなかったけれど、「べつにそんなことないで」と、できるだけ優しい口調で言った。「俺も彼女に振られた話ししたんやし」
池田がそう言うと、藤崎さんは何が可笑しかったのか、少し小さく笑った。そして、「お互い色々上手くいかへんよな」と、弱い声で言った。「仕事のこととか色々…」池田はちょっと考えてから、「確かにな」と、頷いた。
「…わたしな、いつもはそうでもないんやけどな、ときどき落とし穴に落ちたみたいに寂しくなってしまうことがあるねん。それはべつに彼氏と別れたからとかじゃなくてな、もっと漠然とした、対象のない寂しさやねん。それですごく落ち込んでしまったりする」
信号待ちで止まったときに彼女の方に視線を向けてみると、彼女は車の窓に頭をもたせかけて、哀しそうな顔をして外の景色を眺めていた。
「でも、それは誰でも同じやで」と、池田は言った。
すると、藤崎さんは意外な言葉を耳にしたように、振り向いて池田の顔に表情のない視線を彷徨わせた。信号が青に変わったので、池田はアクセルを踏んだ。
「俺もたまにめっちゃ寂しくなったりすることあるで。…やっぱひとりでずっと勉強してるとな、なんかしんどくなったりすることがあるねん。絶対結果出せるとは限らへんしな。…そういうときはすごく寂しくなったりするで」
彼女は黙って池田の顔に視線を注いでいたけれど、ふっとその口元を緩めて、「池田くんもそんなこと思ったりすんねんな」と、意外だというよりは感心した様子で頷いた。
池田はちらりと彼女の方に視線を向けて、「俺、結構寂しがり屋やったりするしな」と、冗談めかして言った。
すると、藤崎さんは可笑しそうに口元を綻ばせた。
「でも俺はそういうときは無理に逆らわんと、流れに身を任せることにしてんねん」と、池田は正面に視線を戻しながら言葉を続けた。
「流れに身を任せる?」と、藤崎さんは繰り返した。
「…なんて言うんやろ」どう表現したらいいのかわからなくて、池田はちょっと眉をしかめた。「落ち込んでるときってな、ついつい落ち込んでしまってる自分を責めてしまうやん。何こんなことで俺は落ち込んでるんやろって。でもそんなことしてもな、よけいに気持ちが沈んでしまうだけやと思うねん。だからな、そういうときは何も考えんと、落ち込んでしまえるだけ落ち込んでしまうことにしてんねん。その方が、底から浮かびあがってくるのも早い気すんねん。…まあ、ひとにもよるんやろうけどな」
藤崎さんは池田の言葉にしばらくの間黙っていたけれど、「そうかもしれへんな」と、何か考え込むような表情を浮かべて頷いた。
「とにかくな」と、池田は言葉を続けた。「俺はこう思うことにしてんねん。何かめっちゃ哀しいことがあったあとにはな、それと同じくらいめっちゃ嬉しいことがあるんやって。…世の中そんな単純じゃないと思うけどな、少なくともそう思うことによって、気持ちがちょっと楽になんねん。ああ、こんなひどい目にあったんやから、また次いいことはあるわって」
そう言ってしまってから、池田はちょっと照れくさくなって笑った。すると、つれられるようにして藤崎さんもちょっと笑った。
☆
藤崎さんとはレンタルビテオ店の前で別れた。
彼女は自転車に乗って帰っていった。ちょっと心配になって送っていこうかと言ったのだけれど、彼女はひとりで帰れるから大丈夫だと答えた。
彼女の姿はすぐに夜の闇に溶けるように見えなくなってしまった。池田は彼女の姿が完全に見えなくなってしまってから、車を走らせた。
帰り際に、藤崎さんとはお互いの携帯番号とメールアドレスを交換した。
家に帰ってから、池田は彼女と話した色々なことを思い出した。そしてそれから、彼女のあの哀しそうな表情を思い出した。池田はふと思いついて、彼女のメールアドレスを画面に表示させた。何か彼女にとって少しでも励ましとなるような言葉を送りたいと思った。池田はしばらく迷ってから、こうメールを送った。
嫌なことも色々あると思うけど、まあ、元気だしてな。何もしてあげられへんけど、話し聞くことぐらいやったらできると思うし、いつでも電話なり、メールなりしてください。
そのメールに対して、すぐに返事は帰ってきた。彼女はメールのなかで、おかけでたいぶ気持ちが楽になった、色々ありがとう、と書いていた。そしてそれにつけ加えるように、池田くんも早く前の彼女のことが忘れられるといいな、とも書いていた。
池田はそのメールを二度読み返してから、携帯を机の上に置いた。
池田は机の上に問題集を広げた。部屋の時計に目をやると、もう時刻は五時を回ってしまっていた。
「さてやりますか」と、池田は声に出して呟いてから、シャープペンシルを手に持った。勉強を開始する時間はいつもよりもだいぶ遅くなってしまっていたけれど、それでも何もしないよりはマシだろうと判断した。とにかく、十一時まで気合いを入れて頑張ってみようと思った。
ふと、窓の方に視線を向けると、閉じられたカーテンの隙間から、朝日のやわらかい光がそっと静かに差し込んできていた。