偶然の再会
不幸にも、公務員採用試験の不採用通知が届いたのと、彼女に振られてしまったのは同じ日だった。だから、池田はどうしようもなく落ち込んでしまった。あー、と叫びだしたくなるくらいだった。試験に落ちてしまったのも仕方がない。彼女に振られてしまったのもまあ仕方がない。でもよりにもよって、ふたついっぺんに起こらなくたっていいじゃないか、と池田は思った。
自棄になって、「なんでやねん」と叫びながら携帯を床に叩きつけると、携帯は壊れはしなかったものの、そのの画面にヒビが入ってしまった。それを見て、池田は猛烈に後悔した。そしてもう一度、「なんでやねん」と、目頭に涙を滲ませながら呟いた。
悪いことというものは重なるものらしい、と池田は苦渋の気持ちで学び取った。気分転換に音楽でも聞こうと思って、最近出たばかりのBzのアルバムをミニコンポでかけてみた。でも、それを聞いていてもちっともよくないどころか、ただうるさいだけだった。池田はうんざりした気分で、そのかけていた音楽を止めた。
さすがにさっきの携帯の件で学習していたから、自棄になってミニコンポを叩いたりするようなことはなかったけれど、しかし、ムシャクシャした気分はどうしようもなかった。それで何か当たれるものはないだろうかあたりを見回していたところ、池田の視線はさっきまで整理していたアルバムの写真の上に止まった。
そこに写っているのは、高校の頃からずっとつき合いのある友達の顔だった。それは以前、みんなで集まって飲んだときに撮ったものだった。眼鏡をかけて楽しそうに笑っているその友達の顔を見ていると、池田は意味もなくムシャクシャしてきた。それで池田は写真のなかの男に向かって、「泉谷のアホ」と、言ってみた。すると男は一瞬、写真のなかで不服そうにその表情を歪めたような気がしたけれど、もちろんそれは気のせいだった。
俺は一体何をやっているんだ、と池田は思った。我ながら自分のやっていることがアホらしくなってきた。ほんとうはこれから次の公務員試験に向けて勉強するつもりだったのだけれど、こんな気持ちではとても勉強なんて手につきそうにもなかった。池田は諦めてちょっと外に出ることにした。この前借りていたビデオを返しにいかなければならない用事もあったし、ちょうど良い機会だと判断した。
☆
家を出ると、あたりはもうすっかり暗くなってしまっていた。池田は試験勉強をしていたので、このところずっと朝夜が逆転した生活を送っていた。だいたい夕方五時頃に目覚めて、それから次の日の十一時頃まで活動するといった生活サイクルだった。
愛車のラブフォーに乗り込み、走り出す。この車は、学生の頃に苦労して手に入れたものだった。まだいくらかローンが残っていたけれど、もうすぐでそのローンも終わるはずだった。
池田は実家住まいだったから、フリーターの身であっても、家賃や駐車場代のことを気にする必要がなかった。まあ、大学を卒業しているにもかかわらず、実家のお世話になっているというのもあまり居心地の良いものではなかったけれど、しかし、公務員になるという目標のためには取り敢えず仕方がなかった。
池田は大学を卒業してから、アルバイトをしながら公務員を目指すという生活を送っていた。普通に社会人をやりながら公務員を目指すという手もなくはなかったけれど、しかしそうするとなると相当涙ぐましい努力をしなければならなかったし、だいたいそんなことをやっていたらいつになったら公務員になれるかわかったものではなかった。
これは池田が実際に勉強しはじめてわかったことなのだけれど、公務員試験というのはかなり難易度が高く、よっぽど身を入れて勉強しない限り、その試験を突破することなんてまずできないものなのだ。だから、池田は比較的に自由な身でいられるフリーターをやりながら、公務員試験の勉強を続けていた。
実際のところ、池田はもう既にいくつか結果を出していた。それでもまだ勉強を続けているのは、他に本命があるからだった。…最も、その本命のうちのひとつが、今日無惨な結果に終わってしまったわけなのだけれど。
車のなかではドラゴンアッシュのアルバムを聴いた。彼等の歌は常にポジティブなエネルギーに満ち溢れていて、池田は聴いていて元気が湧いてくるような気がした。今日みたいにロクでもないことが立て続けに二回も起こった日には、彼等の音楽に耳を澄ませて、そのポジティブなエネルギーを少しでも自分の気持ちのなかに補給したい気がした。
池田はしばらく音楽に耳を傾けていてから、ふとあることを思い出した。この音楽を作っている人間と自分は同い年なのだ。彼等がこうやって日本のミュージックシーンに燦然と輝いている一方で、今の自分はいかがなものだろう、と池田は思った。…一年半つき合っていた恋人に振られ、おまけに第一志望だった就職先まで落としてしまった。人間は生まれながらして不公平にできていると誰かが言っていたような気がしたけれど、まさにその通りだよな、と池田は感じた。
ああ、これから俺の将来はどうなっていくのだろう、と池田は一瞬暗澹たる思いに駆られた。でも、慌てて首を振り、いや、まだまだこれからやねん、と自分に言い聞かせた。第一もう既にいくつか内定はもらっているのだ。そんなに将来を悲観する必要はないだろう。
それにまだ俺は24なのだ。その気になりさえすれば努力次第で何だってできる。まだまだいくらでもやり直しはきく歳じゃないか。そうだ、俺は絶対やったんねん、やったんねん、やったんねーん、と、池田は心のなかで取り憑かれたように繰り返した。
☆
借りていたビデオは、北野武の「ドールズ」という映画だった。その映画は池田にとって久しぶりのヒットだった。見ているだけで涙が溢れてきそうになるその色彩の美しさや、作品全体に流れる悲哀感が、池田のなかでたまらなくフェィバリットだった。ぐっとくるね、と池田は思った。
借りていたビテオを返してしまうと、池田は取り敢えずという感じで店内をぶらついた。せっかくここまで来たのに、そのままとんぼ返りしてしまうというのも何だかもったいないような気がした。しばらく店内に置かれている様々なビテオを見て回ったけれど、あまり池田の感心を惹くようなビデオは見当たらなかった。
さて帰ろかな、と思ったところ、池田の視線はふとアダルトビデオのコーナーに止まった。そういえばここ最近はアダルトビデオなんて全然見ていないような気がした。久しぶりに借りてみるのも悪くないよな、と池田は思った。
何しろ就職試験に失敗して、彼女にまで振られてしまったのだ。アダルトビテオを一本ぐらい借りたからといって、べつにバチは当たらないだろうと思った。というか、それくらいのことが許しもらえないようじゃ、世の中あまりにも救いがないじゃないか、と池田は弁解するように思った。
アダルトビデオのコーナーに入って行こうとしたところで、背中から、「池田くん?」と、呼び止められた。
ふと振り返ってみると、そこには藤崎さんが立っていた。池田はかなり驚いてしまった。
彼女は、池田がまだ高校生だった頃に、密かに憧れていたひとだった。彼女に告白しようかどうしようか思い悩んだあげく、結局告白できなかったことを、池田は彼女の顔を見つめながらぼんやりと思い出していた。心のなかにそのときの感情が鮮やかに蘇って、池田はあれからもう何年も経っているというのに、ドキドキしてしまった。
「やっぱり池田くんや」と、藤崎さんはいくらか頬を輝かせて言った。「久しぶりやな」と、彼女は続けて言った。「おお、久しぶりやな」と、池田は答えたけれど、その声は緊張のせいか、ちょっとぎこちない感じに震えてしまった。
「池田くんに会うのは同窓会のとき以来よな?」と、藤崎さんは言った。池田は少し考える振りをしてから、「そういえばそうやな」と、答えた。
池田は、実は最後に藤崎さんに会ったときのことを明確に覚えていた。大学三年のときに高校の同窓会があって、そこで藤崎さんとは一度顔を会わせていた。
でも、そのときは他の友達に囲まれて、ろくに話すこともできなかった。二言三言交わすだけで精一杯だったような気がした。実はあのときから自分は藤崎さんのことがまた気になりだしていたのかもしれない、と、いま池田はそう直感するように思った。
…池田は他の誰かとつき合っていても、藤崎さんのことをたまに思い出してしまうことがあった。そんなふうに思ったりすることは、そのときつき合っていた恋人に対して失礼じゃないかも思ったけれど、でもそれは池田本人の意思ではどうすることもできないことだった。
藤崎さんはそんな池田の思いを知ってか知らずか、ふっと視線を斜め上に上げると、可笑しそうにその口元を綻ばせた。
「もしかして池田くん、あれ?エロビ借りにいくところやったん?」
そう訊かれると、池田としてはもう笑うことしかできなかった。池田は開き直って、「そうやで」と、答えた。
☆
「ほんまによかったん?」と、藤崎さんは車の助手席に乗り込みながら言った。
「べつにわたしに気使わへんくてもいいんやで。わたし、男のひとがそういうの借りるのって全然気にならへんし…」
「いや、べつにな」と、池田は車のエンジンをかけながら言った。「俺もそんなにエロビデが借りたかったわけじゃないからな」
池田は藤崎さんの手前もあって、結局ビデオを借りるのは止めることにした。
「そんな無理せんでもいいで」と、藤崎さんは笑いながらからかうように言った。つられるようにして池田も笑いながら、「いや、ほんまやで」と、答えた。「ただビテオを返しにきたついでにちょっと見ていこうかなって思ってただけやねん」
「ほんまに?」と、言って藤崎さんはまた笑った。
「ほんま、ほんま」と、答えながら池田は車を走らせた。
立ち話というのもなんだし、これからご飯でも食べに行こうという話になった。といっても、この近辺にはご飯を食べるようなところなんてなかったから、じゃあという話になって、池田の車で出掛けることになった。
レンタルビデオ店まで、彼女は自宅から自転車で来ていた。
「でも、大丈夫なん?」と、池田は車を心地よいスピードで飛ばしながら訊いた。
もう夜の十時を過ぎているせいか、車道に車の姿は少なかった。街灯の光がオレンジ色に街を染めていた。
「何が?」と、藤崎さんは池田の方を振り向いて尋ね返した。池田は、「いや…」と、口ごもってから、「明日、仕事とか大丈夫なんかなって思ってな。…もう結構遅い時間やし」と、言葉を続けた。
すると、藤崎さんは、「それやったら大丈夫やで」と、答えた。「わたし、明日、久しぶりの休みやねん」
でも、そう答えた彼女の声は、心なしか寂しげに感じられた。池田は少し疑問に思ったけれど、でも結局何も訊かなかった。代わりに、「何の仕事してんの?」と、尋ねてみた。すると、彼女は今ショップの店員をしているのだと答えた。
彼女は大学四年のときにみんなと同じように就職活動した。彼女が目指したのは、マスコミ関係の仕事だった。昔からそういう仕事に憧れていたのだ、と彼女は語った。でも、結局そこには受からず、半ば妥協するような形で、今の服飾関係の会社に就職した。まあ、接客は嫌いじゃなかったし、服飾の仕事にもある程度興味はあったから、といいわけするように彼女は言った。
「どうなん?仕事は楽しいん?」と、池田が試しに訊いてみると、彼女は窓の外に視線を向けて、「どうなんやろ」と、少し弱い声で答えた。「楽しいときもあるんやけどな…」と、彼女は迷うように答えてから、「でも、上司とかうるさいしな、売り上げのことととか気にせなあかんかったりでな…何か色々大変やねん」と、疲れを帯びたような声で続けた。
「…そうなんや」と、池田は頷いた。何と言ったらいいのかわからなかった。池田の回りの友達も大学卒業と同時に働いていたけれど、みんなそれなり大変そうにしていた。みんなの話を総合すると、池田の就職に対するイメージはあまりパッとしなかった。
「池田くんは今何してんの?」と、藤崎さんが改まった調子で尋ねてきた。池田は少し迷ってから、「今、フリーターしてんねん」と、答えた。それから池田は自分の事情を彼女に話して聴かせた。
自分も大学四年のとき就職活動したのだが、結局行きたいところに行けず、途中で公務員を目指すことに変更したということ。そしてそれから一年半勉強して、今いくつか内定をもらっているということ。これからまだいくつか本命の試験が残っているということ。今日その本命うちのひとつがダメになってしまったということも、べつに話す必要はなかったのだけれど、つい勢いで話してしまった。
池田の話を聞き終わったあとで、藤崎さんは、「そっか。公務員かー」と、納得したように頷いた。「確かに、公務員やったらある程度好きなように時間が使えるもんな。…公務員のひともそれなりに大変やろうけど、でも、一応定時で帰れるし、ちゃんと土日休みもらえるし」
池田はその言葉に頷いてから、「俺は趣味に生きることにしてん」と、冗談交じりに答えた。すると、藤崎さんは可笑しそうに少し口元を綻ばせた。それから、彼女はふっと表情を消すと、「わたしも公務員になれば良かったんかな」と、ちょっと寂しそうな声で言った。
信号が赤に変わって、池田はブレーキを踏み込んだ。オレンジ色の光に照らされた街は、妙にひっそりとして感じられた。
☆