夏休みは忙しい(ベヒモス討伐)12
地上の黒く腐った屍の川を遡り、骨だらけの白い平原が見えてくるといよいよである。
船は一気に『浮遊魔法陣』の限界高度から更なる高みに浮上する。
上空から見下ろした僕たちは大きな白黒の的を見ることができた。大地は多くの犠牲者の亡骸によって同心円状の模様を作り出していた。黒い縁から段々と白い中心部にグラデーションが、まるで「的はここだ」と言わんばかりにできあがっていた。
進行方向には蠢く無数の黒い影が。後方には腐敗する物すら残っていない、清浄と言っても過言ではないような、まっさらな足跡が続いていた。
鳥肌が立った。
人知の及ばぬ景色が広がっていた。ここは地獄か……
ロザリアや旅団の一部の女性陣が目に涙を浮かべた。
この世にこの船がなかったら、この残酷で雄大な景色を見ることはなかっただろう。
腐った命で築かれた見事な幾何学模様のアートだった。
「作戦を開始する! 投下する玉は二発。投下後、速やかにこの空域を離脱する!」
姿は見えずともその影響が広範囲に及んでいるせいで、ベヒモスの現在位置がしっかりと見て取れた。それでも成功率を上げるために……
「行きます!」
僕は甲板を蹴ってフライングボードで飛び出した。
『浮遊魔法陣』は効いていないので、そのまま落下する。ボードはあくまで帰還時、甲板に降り立つとき、落下の加速を打ち消すためのものだ。でなければ転移して戻ったとき、残っている慣性で甲板に激突、僕は複雑骨折かあの世行きだ。
後のことは全て任せて、僕は自分の仕事をする。
ギリギリまで降下して、より正確な場所に目印になる『聖なる光・改(仮)』を撃ち込むと同時に、『衝撃波』で露払いである。ガスを四散させた一瞬の間隙を縫って、侵入、上空から『眩しい未来を貴方に!(仮)』を投下するのである。
マレーアさんには『必中』付与のために望遠鏡を使って、敵を視認して貰わなければならない。それ故の無茶である。
光の目印の方はどちらかというとロメオ君のためのものである。船の侵入角をあわせるためのものだ。
どんどん地上が大きくなっていく。大地の模様も黒い同心円が視界の外に追いやられて、白い景色も消えていく。何もない空間が広がっていく。
「自分ですべてを塵に変えているとしたら、奴は何を食べているんだ?」
ブリーフィングで出た質問の答えを僕は肉眼で捉えた。結界が悲鳴を上げるなか、かすかに捉えたベヒモスの姿はアイシャさんの説明にあったような太った巨大なライノスではなく、痩せ細った、今にも折れそうな何かであった。断食を何百年すればああなるのか? もはや腹と背中は貼り付いて、食事も内臓を通らないだろう。かつては頑強であっただろう外皮の鎧も見る影もなく、皺だらけでしぼんでいる。
余程生前の業が深かったのだろうか? 大食漢だった奴が、自分の吐く息のせいで何一つ口にできなくなったのだ。口に入る前にすべては腐敗し、骨すらも塵になって虚空に消えるのだ。
呪いか…… 案外、呪った奴はこの結果に満足して成仏したんじゃないだろうか?
考え事をしている場合ではなかった。限界である。
「できれば成仏しろよ」
僕は『聖なる光・改(仮)』を封じ込めた鏃をなるべく正確に奴に撃ち込んだ。
そして『衝撃波』を全方位に向けて放った。
結界に余裕ができた気がした。万能薬を念のために一瓶飲み干す。
ここからはアクロバットである。『眩しい未来を貴方に!(仮)』が破裂する前に、安全圏に脱出しなければいけない。
僕はボードで風を切りながら、同心円の外側に滑り落ちる。
ガアアアアアアアアアアアッ!
空気を切り裂く咆哮が轟いた。後ろを振り返ると、光がベヒモスに命中すると同時に、僕の存在に気付いた奴が久しぶりの獲物とばかりに、血走った目で追い掛けてきたのだ。
もっとも枯れ枝のようになってしまった脚では、落下速度を利用して離脱するこちらの速度には追いつけない。だが、鼻や口から漏れ出す荒れた息は容赦なく迫ってくる。
これは不測の事態であった。
距離があれば問題ないと思っていたこちらの落ち度である。大物らしく「小物など眼中にはない」と大人の対応をしてくるだろうと思っていたのだ。それが飢餓で飢えた野獣と化していようとは。
上空からこの様子はまだ見えていないだろう。僕が動き回ればそれだけ目標がずれてしまう。かと言ってとどまってもいられない。
献身的に身を捧ぐ義理も今のところないし、どうしたものか?
僕は閃いた。
『楽園』に身を投じたのだ。
「しまった」
入ってから気が付いた。
ここから外に出たとき、作戦が成功していなかったら……
出た途端に僕は腐敗ガスに飲み込まれて、あの世行きである。
どうする? どうすれば……
別の安全な場所に出る…… その手があった!
いつぞや以来の『楽園』を使った空間移動である。我が家の書庫から近衛第二師団の庭先の雪原まで飛んだあれだ。でも、これイメージができないと出られないんだよな。
どこに出ればいいんだ? 余り遠いのはごめんだぞ。みんなとはぐれたくはない。
甲板しかないか…… でも、いけるのか? 着地点は高速で動いてるんだぞ。
大丈夫だ。転移ができるんだから。いけるはずだ! きっと行ける。
僕は甲板に降り立っていた。
げっ、魔力が。急いで万能薬を口に放り込む。
「やっぱ疲れるわ、これ」
僕はへたり込んだ。万能薬が空きっ腹に染み渡る感じだ。
見下ろすと巨大な光の波紋が白黒の異様な景色を打ち消していた。帆が風をはらみ、急旋回を掛けながら、再浮上を始めていた。バラストの調整はアイシャさんがしているはずだ。
「どうやっても見えんな」
視力が駄目なら『竜の目』でと、爆心地を望むが、膨大な魔力が充満していて奴の姿は見えなかった。
「お早いお帰りじゃな」
振り向くとアイシャさんが剣の柄に手を置いていた。
「不足の事態というものはあるものですね」
「何があった」
説明は二言三言で済んだ。腹を空かせた奴が久しぶりの餌を見つけて襲いかかってきたこと。的に動かれては困るので、逃げずに『楽園』に飛び込んだこと。出るに出られず、大技を使ってへたれていること。
「それで魔力がスカスカなのだな?」
「もう二瓶使いましたよ」
「そなたの場合、容量が大きいから飲みすぎることにならんのかもしれんな? 薬自体純度が高いせいもあるが、普通なら中毒症状が多少なりとも出るものじゃが」
「それより、二発目じゃないですか?」
船が降下、加速し始めた。
後方に投下された『眩しい未来を貴方に!(仮)』が見えた。
船が旋回するに従い歪な軌跡を描いて玉は落ちていった。
そして……
「追尾できなかった?」
アイシャさんが珍しく興奮して、手摺りに身を乗り出した。
『必中』で追尾できる範囲を逸脱したのか?
まさか……
目標物が消失した?
「マレーアさんが目視できなかった?」
扉が乱暴に開いた。
ロザリアが飛び込んできた。
「ベヒモス殲滅しました!」
僕とアイシャさんは呆然と立ち尽くした。
「お早いお帰りで」
僕の顔を見るとロザリアの方が驚いて、アイシャさんと同じことを言った。
「確認してくる。船は上空待機!」
僕は『楽園』に忘れてきたボードを取り出した。
「余程腹を空かせておったのかの?」
「腹と背中がくっついてましたからね」
「ベヒモスにとって最悪の呪いじゃな」
アイシャさんの軽口に送られて僕は再度降下した。
異常があれば即、『楽園』に逃げ込むつもりである。
だが、先程と違って、低空は清浄な空気が満ちていた。
ほんとにやったのか? 敵はバジリスク級だぞ。
大きな穴に不発弾が落ちていた。
さすがにこれを誰かに見つけられるのは困るので、腹のなかに急いで納めた。
何度も、何度も確認したが、ベヒモスの姿は跡形もなく消えていた。
「成仏したか…… 今度生まれ変わってきたら、腐った物は食うなよ」
現状に自身、耐えられなかったのかも知れない。もしかするとこれは一種の自害なのではないか、呪いを受けた者に理性がないことは分かっているが、この世からおさらばしたかったのではないか。余りのあっけなさに余計なことを考えてしまう。
「屍もなしか……」
側にあった岩に僕は『無刃剣』で記念に一文を彫った。
『ベヒモス、空腹の果てに、ここに散る』




