遅日と砂漠の蛇(プロローグ)3
ドックに入港すると館から迎えが来ていて、皇太子夫妻は僕の手から離れた。
リオナたちは早速持ち帰った調理器具をガラスの棟の倉庫に仕舞うべく作業を開始していた。
帰宅すると、エミリーとロッタが世間話をしていた。どうやら食材の買い出しを一緒にしていたようだ。
聞けば、ドナテッラ様が館に呼ばれていて、ここで待っているのだと言う。
まさか本気で彼女を書記官にするつもりなのか? 睡眠不足でとうとういかれたか?
もし城の女主人が大人しく余生を送っているのなら、僕は余計なことを言ってしまったことになる。申し訳ないことをしたと思わずにはいられない。
リオナが子供たちを引き連れて戻ってくると、お土産のケバブの包みを開いて、おやつだと言ってふたりに振る舞った。
「わたしもよろしいのですか?」
ロッタは申し訳なさそうに言った。
「当然なのです。いっぱい買ってきたから気にすることないのです。これだけあれば三日は戦えるのです」
何と戦うのかは聞かないでおいてやるから、少しは僕の財布の中身を心配してほしい。
一口食べるとロッタが突然泣き出してしまった。
全員がオロオロし始めた。どんなつらいことも食べたら忘れるような連中ばかりで、こんな事態にはあまり慣れていなかった。「誰かなんとかして」と言わんばかりにキョロキョロしている。
「不味かったですか?」
リオナが優しく声を掛ける。
「いえ、そんなことは。ただ懐かしくて……」
ロッタはドナテッラ様同様、旧アシャール公国出身者だった。世情不安な元公国から脱出してきた難民だったのだ。旅の途中で家族を失って途方に暮れていた彼女を、同郷のドナテッラ様が拾ったのである。
ケバブはまさに同じ砂漠の町の、故郷の、家族の味だったのだ。
「カーターもかい?」
ロッタは頷いた。カーターも似たような境遇だという。
リオナはドナテッラ様の分もあわせて三人分を土産に包むようにアンジェラさんに頼んだ。
その思いやりが僕にも欲しいところだね。
日が暮れ始めた頃、ドナテッラ様が戻って来た。
なんだか憂鬱そうな顔をしていた。
「書記官の話受けたんですか?」
僕が尋ねると、彼女は首を振った。
「保留にしておいたわ。わたしにそんな大役ができるとも思えないし。ごめんなさいね。エルネストちゃん」
なぜ謝る? それに保留ってなんだ? 断ったんじゃないのか?
「まあ、いい匂いがすると思ったら、ケバブじゃないの!」
「ミコーレのお土産なのです」
「ロッタはもう食べたの?」
「え? あ、はい。少しだけ」
「わたしにも頂けないかしら?」
「今夜は当家でご一緒に夕食などいかがでしょうか? 故郷の味ともなりますと、人恋しくもなりましょう」
アンジェラさんがお土産を並べる皿を持ってきた。
「そうね。そうしましょう。お言葉に甘えて。ロッタ、カーターを――」
「俺が呼んできてやるよ」
ピノが出て行った。リオナと双璧をなす肉好きのピノが肉より優先して迎えに行った。ロッタの涙が効いたか。
「みんないい子ね」
ドナテッラ様の一言に皆、照れながら笑った。
その日は、大いに騒ごうということになって、僕はポテトとベーコン載せのピザを焼いた。
「生地だけ焼いて欲しい」と言うので生地だけ焼いたら、それにケバブを挟んでカーターが食べ始めた。ロッタの作ったトマトソースベースの唐辛子入りのソースが、よく合った。
ドナテッラ様はほろ酔い心地になると、故郷の歌だと言ってロッタとカーターと一緒に一曲を興じた。
砂漠で月でも眺めながらしんみり聞いていたくなるような、そんな哀愁のある歌声だった。
その後は歌合戦になった。
子供たちは故郷の村の歌を、リオナは母親から教わった簡単な童歌を歌った。
ロザリアは賛美歌を、ロメオ君と僕はこの辺りの流行歌を歌った。
圧巻だったのはアイシャさんの竪琴だった。なんとも不思議な音色だった。
幸せがコロコロと床に転がり始めると、一足早い我が家のお祭りは静かに終わりを迎えた。
泊まっていけばいいと勧めたのだが、ドナテッラ様は帰るというので、馬車で城の入り口まで送ることにした。ロッタとカーターは荷台でうとうとしている。
「歳を取るはずね……」
御者台に並んだドナテッラ様が呟いた。
「あんなに小さかった坊やがこんなに大きくなってしまって……」
頭を撫でられた。
「幼い頃、リバタリアのお屋敷で何度か会ったことがあるのよ。覚えてない?」
「すいません……」
「いいのよ。エルネストちゃんはまだ幼かったし」
僕たちは静かに森のなかを進んだ。
馬車が最初の郭に入ると「大きな馬車ではこの先は大変だから」と言って、三人は馬車を降りた。
僕はカーターに土産のケバブがどっさり入った袋を預けた。
「エルネストちゃん…… 今度一緒に旅をしましょうか?」
「是非に」と僕は何の気なしに応えた。
彼女の最後の言葉の意味も知らずに、典型的な社交辞令を交わして、僕たちは別れた。
「エルネスト・ヴィオネッティー。『銀花の紋章団』のギルドマスターとして、あなたに任務を与えます。旧アシャール公国に潜入して、内情を探ってきなさい」
両皇女様揃っての勅命だった。
「巻き込まないんじゃなかったんですか?」
「悪いわね。そのつもりだったのだけれど、今回は彼女からのご指名なのよ」
執務室の扉が開いた。
そこにいたのは……
「どうして?」
「わたしの望みを聞いてくれたら、こちらも書記官の仕事を引き受けようかと思ってね」
「危険なんじゃ?」
「ただの里帰りよ。ひとりじゃ怖いから、いいでしょ? 一緒に行きましょう」
ドナテッラ様が見るからに高級そうなローブ姿で現れた。これが彼女の正装。
母さんの一番弟子で、姉さんの師匠。ヴァレンティーナ様が天才と称する魔法使い。
「今回は、当人の意向でこちらからは何もすることはない」
「それって……」
「アールハイト王国もミコーレ公国も関知しないということだ」
「え?」
僕は言葉を失った。
「君たちほどの魔法使いが敵性国家に例え観光であったとしても侵入することの意味は分かるだろう?」
「表から入るんじゃないんですか?」
「彼女は公爵家のたった一人の生き残りだぞ。得策だと思うかい?」
皇太子殿下が言った。
「密入国……」
「報酬は…… そうね、わたしの書類整理の手伝いをしないで済むようになることかしらね」
ヴァレンティーナ様が笑った。目だけは笑ってないけど。
「姉さんがいないんですけど」
「知らせてないわ。彼女の意向でね。正直、知られたときのことを考えると気が重いわ。長年の友情にひびが入るのは必至だものね」
「大丈夫ですよ。お祭りの前までには戻ってきますから」
かくして僕たちは飛空艇に乗り、ミコーレと旧アシャール公国との国境に向かうことになった。飛空艇は僕の船ではなく、一番艇である。
リオナたちにはアシャン老の所に用事があって、ドナテッラ様と一緒に一週間ほど家を空けると言っておいた。こんな嘘で大丈夫か? 姉さんなら簡単に看破するだろう。
「エルネスト。彼女をくれぐれもお願いね」
ヴァレンティーナ様が僕を捕まえて言った。
「……」
船のハッチが閉じられる瞬間、彼女は呟いた。「なぜ自分が同伴者として選ばれたのか、考え続けなさい。答えはきっとそこにあるから」と。




