春風来来
パスカル君一行の春休みが終り、我が家は久しぶりに静かな平常を取り戻していた。後輩の指導は我が身の成長ともなって、初心を思い出すいい機会になった。
城の住人、ドナテッラ様と二人の小姓もすっかり町に溶け込んだ。
エミリーとロッタが急速に仲良くなっていくなかで、リオナは少しばかり寂しい思いをした。
その寂しさの隙間を埋めたのがパスカル君たち、特にビアンカだったのだが、彼女たちはもういない。
「春がそこまで来ているのです」
「そうだな。大分暖かくなったな。外套も薄手のものにしないとな」
リオナは森の緑を寂しそうに見下ろしていた。
「昔はもっと楽しかった気がするのです。エルリンとふたりぼっちだったけど、冒険は楽しかったのです」
「今は楽しくないのか?」
「楽しいのです。でも楽しさが違うのです」
僕たちは白亜城の主塔の上から朝の晴れやかな景色を眺めていた。
「アルガスはあっちだな」
「遠いのです」
「あの洞窟はどうなったかな? コロコロも逃げ出しちゃったんだよな」
「足長大蜘蛛もいなくなったのです」
「何もないかも知れないけど行ってみるか?」
リオナの耳がピンとなった。
「行くのです!」
僕たちは帰宅すると、ランチセットを用意して貰ってアルガスに向かった。
商店街の叔母さんたちに挨拶しながら、ギルドに立ち寄り、あの辺りがどうなったか確認したが、足長大蜘蛛の棲息地であるという意識がまだあるらしく、近づく冒険者はいなかった。
帰りのことを考えて、僕たちは歩いて森に入ることにした。
黒毛豚を狩りに森に入ったのはちょうど今の季節だった。
同じ景色のはずなのに、随分世界が違って見えた。今の僕には見えない物までよく見える。周囲の探索をリオナに頼らなくてもいいほどに。
「大物発見したのです」
確かに反応が大きい。
僕たちは丘を登った。目標はすぐに見つかった。
「キングベアなのです」
「あのサイズで熊?」
「身長三メルテはあるです」
「見なかったことにしよう」
「それがいいのです。あれのお肉は癖があるのです」
そう言う意味じゃなくて。
僕たちは丘を滑り降り、正規のルートに戻った。
「木が邪魔なのです」
去年も道を塞いでいた大木を僕は道幅分だけ切り落とした。そして切り分けた丸太を端の坂に転がした。
「楽ちんなのです」
森をようやく抜け、低い尾根を一つ越えるといつか見た岩だらけの景色が現れる。
洞窟は今もそこにあった。
なかに侵入すると、僕たちはすぐに足を止めた。
「洞窟の向こうに何かいるな」
「コロコロ帰ってきたですか?」
鼻を突き出し、耳を立てた。
「コロコロの臭いじゃないのです。黒毛でもないのです」
「結構いるな……」
僕たちは剣を抜いた。
青々とした草原地帯が相変わらず広がっていた。
右手側には一部崩落した絶壁が、左手には深い霧の谷間が広がっていた。その先には太陽を正面から浴びた断崖絶壁の大パノラマが広がっていた。
変わらぬ楽園があった。
崖の隙間から流れ出る湧き水を鹿が舐めていた。
その姿はいつか外の岩場で見たことがあった。
「鹿の群れだ」
「大角赤鹿なのです」
「鹿肉は最近食べてないな」
「一回りしてみるです」
僕たちは壁際を歩いた。
鹿は後ずさりしながら距離を置いた。
崩れた場所はそのままに、踏み固められて鹿たちの通り道になっていた。
足長大蜘蛛の影はどこにもなかった。
茂みを切り開きながら僕たちは奥へと進んだ。
谷間にダイブしたのはいつだったか。
「あっ」
リオナが立ち止まった。
僕も立ち止まった。
「いたのです」
まだ幼いコロコロだった。逃げていく先には丸々太った奴らがいた。
「黒毛もいる!」
「お前たちも戻っていたですか!」
数はだいぶ減っていたが、以前の景色がそこにあった。
「一番いい場所は取られちゃったんだな」
「コロコロが増えたら、すぐ取り返すのです」
リオナの顔に笑みが戻った。
一段高い場所を造成すると、その上で僕たちはバスケットを開いて昼食にした。
「クスクス、見晴らしがいいのです」
渓谷の向こう側の景色はどんな名画も及ばない。流れる雲。鳥の隊列。照らされて光る絶壁の岩肌。
「今度あの壁の天辺に登りたいのです」
「今から行くか?」
「届くですか?」
「パスカル君の修行に付き合ってたら、省エネモードが板に付いてきた」
「あの上で続きを食べるのです!」
ランチボックスを仕舞い、僕は景色を見定める。
「危なくなさそうな場所に一回飛んで……いや、一気にいけるか」
僕はゲートを開いた。
「飛び出すなよ! 足元は不安定だぞ」
「行くのです!」
降り立った世界は空の上だった。
空気は冷たく、雲間が下に見えた。
この辺りで一番高い場所だった。
「アルガスが見えるのです」
深い森の向こうに赤煉瓦に彩られた、年季の入った町並みが広がっていた。
僕たちはランチボックスを改めて開いた。
「蟹の道…… あそこが分かれ道だ。東に折れて…… あれが北の砦だ」
「雲に隠れたのです。あれなんですか?」
砦の先の南西の遠い空に灰色の雨雲のカーテンが迫ってきていた。
「あれは雨雲だな」
「あの下は雨ですか?」
「そのはずだ」
鼻をひくつかせた。
「ほんとだ水の匂い」
「お、雲が晴れた。見えたぞ、砦」
「飛行船なのです」
リオナが指差した。
日光に反射した船体が光っている。どうやら砦に降りるようだ。この時間帯なら『北の砦レストラン』での昼食付きランチコースだな。
「雲が近づいてくるのです」
「え?」
僕は雲のある方角に視線を戻すとアルガスの上空に差し掛かっていた。町が段々陰に飲み込まれていく。
町の遠く、雨雲の向こう側には日差しのカーテンが掛かっていた。濡れた地面を眩しく照らしていた。
「通り雨だな。洞窟に待避するか」
雨はすぐに降り始め、獣たちも洞穴に避難を始めた。僕たちの姿を見ると鹿たちは入り口に固まったまま、こちらを静かに見据えた。一番角のでかい奴が、群れを割って現れ、いつでも突き刺せるぞとばかりに頭を上下させてなかに入ってきた。
僕とリオナは道を空けた。
ボス鹿はただ真っ直ぐ進み、視線だけで威嚇してくる。
「ボス役も大変だな」
一頭が僕たちの前を素通りすると、後はもう雪崩のようにずかずか入ってくる。
そうか、ここはもうお前たちの家なのか。
侵入者はこっちというわけだ。
ザーッと地面を叩く音がしたので外を覗き見た。
空は真っ暗で、どしゃ降りになっていた。
「冷てっ」
首筋に滴が落ちた。
僕は拭く物を探してポケットを弄った。
あっ。
しゃがみ込んでいた鹿たちが立ち上がった。そして入り口の側にいる僕たちににじりよると角で僕たちの背中をつつきだした。
僕たちが道を譲ると次々外へと出ていった。どうやら場所取りのようだ。
雨が完全に上がると僕たちはまた向かいの高い断崖絶壁の頂上に登った。
雨雲は頭上を通り過ぎて北に抜けて行く。
雨の境目がゆっくりと、でも人の足より遙かに速く遠ざかって行く。
雲が抜けると太陽が眼下の草原を照らした。濡れた地面がきらきら輝いた。
「空気が暖かいのです」
光の世界が北へと広がって行く。
「リオナ、これ」
僕はポケットのなかからわたしそびれていた指輪を取りだした。
「それは、絶望のヘルメスの指輪なのです」
絶望って……
「違うよ。台座はそうだけど、石は姉さんと僕が作ったんだ。今壊れてないってことは…… たぶんこれからも壊れないと思うよ。もっと早く渡してあげようと思ってたんだけどね。いろいろあって渡しそびれてた」
「ありがとうなのです。ピンク色の可愛い指輪なのです」
リオナは嬉しそうに指に嵌めた。
「ランチの続きをするのです。腹ぺこなのです」
僕は地面を魔法で乾かし、リオナはリュックからランチボックスを取り出した。
消臭効果が付与されたリュックから出した途端、美味しそうな香りが辺りに広がった。
「いい匂いなのです」
リオナは自分のランチボックスの蓋を開けると、膝に置いて笑った。
「雨上がりの若草の香りもこの匂いには負けるのです」
そう言ってチーズハンバーグサンドをがぶりといった。




