第六話 林檎好きには堪らない誘惑でした。
主人公の林檎狂い発動。
コトリと小さな音を立てて置かれた皿には三角形に切り取られた黄金色の食べ物。地上界では午後のお茶のお供として出されるアップルパイというお菓子ということでさっそくそのお菓子に手を伸ばす。
林檎を使ったお菓子だと聞いてすぐにでも口元に運べば砂糖煮にされた林檎の程よい歯ごたえとさくさくのパイ生地に、地上界はこんなにも美味しい食べ物があるのかと感動した。その林檎の香りを引き立てるかのように甘いシナモンの存在に気づくもわたしにとっては些末なことだ。
林檎。林檎。林檎。とにかく林檎があればそれだけで機嫌が良くなる性格を何とかしなければならないと思いつつも、結局は林檎に屈服してしまう。もうほんと林檎を敬うべきだ。林檎を天界に持ち込んだ天使に平伏したいぐらいに。林檎最高。
嬉々としてフォークを進めるわたしに驚いたのか、アップルパイを食べるわたしを見ていたセルジュが目を丸くする。
「そんなに気に入りましたか?」
「はい。とっても!わたし、林檎狂いの天使と天界で呼ばれてるんです。林檎さえあれば幸せなんです。地上界では林檎の食べ方一つでも様々なんですね」
「そうですか。お口に合ったのなら何よりです。コックも喜びます」
にこにこと笑みを浮かべたセルジュはアップルパイをひたすらに食すわたしを飽きずに眺めていた。飽きもせずによく人の顔を見ていられるものですねー。意地汚いって思われてるのかしらね。でもまぁ、そんなの気にしてらんないや。林檎ちゃんの為ならば!
「我が家のコックは泣く子も黙るような厳つい顔ですが優しい性格で、ミカエル様の愛娘がいらっしゃると伝えたら『女性は甘いものが好きな方が多いので……』と言って昨夜から徹夜でキッチンに立っていたんですよ」
「徹夜」
林檎を前につい興奮してしまったが、わたしは本来潜入任務の為に地上界へとやってきたのだ。それを一時でも忘れて、愛しい林檎に現を抜かしてしまうなんて。
あ、いや。反省したいことはそれだけじゃなくて。コックさんにも直接『アップルパイ美味しかったです』と伝えたいが林檎を前にして平然としていられる自信はないし、キッチン以外でコックさんと会えればいいが。そんなわたしの表情を読んだのかやんわりとセルジュが口を開いた。
「いいえ。お気になさらず。コックも好きで調理をしていたので気に病む必要はありません。そのような憂い顔をされるよりも、自らの料理を笑顔で食べてくれる者の顔を見るのが好きなんですよノイシュは。
それに。リディア様も役目があって地上に舞い降りられたのですから役目を全うするにも適度の息抜きが必要です。今はまだ準備期間ですし。
天使の仕事を手伝えない私たちにそれ以外で、どうか手助けさせてください」
如何せん歓迎されすぎではないか、とぐるぐると思考を巡らすがどうせ短くはない時間を彼等と共に過ごすなら、快適に過ごせる環境は願ってもないが……。
悶々とする感情を振り払うようにアップルパイをゆっくりと咀嚼すれば、少しだけ気が楽になった。
「それと。ミカエル様からリディア様を最高峰の魔法学園への編入手続きとそのバックアップ、地上で暮らす際に必要となる知識の教授、と御言葉を頂きましたが。リディア様にはしばらく一般常識を学んでもらってから件の魔法学園へと編入していただきます。学園には私が推薦状を書くので何の問題もなく途中の学年からの編入となるでしょうが、失礼ですがリディア様は魔法は嗜まれますか?」
もくもくとフォークを進めていた手を止めて、セルジュの瞳を見つめる。アップルパイを食べる前にリディエルではなくリディアと呼んでほしいと言ったところ『リディア様』と呼ぶと頑なに拒否され、逆に自分は『セルジュ』でいいと押し切られてしまった。穏やかな顔をして自分の要求を通すなんて流石は貴族と納得してしまった。
「どの程度の基準かは知りませんが…。
ミカエル様より魔法の師事をしてから二百年近くは経過してますので。今は人の姿ですが天使の姿のときとは魔力にも差がありますから、生まれて二十年も経っていない子供であれば遅れはとらないかと」
「そうですか。見たところリディア様の魔力も高いですし、魔法学園に編入するにあたって不必要に落とされることもないでしょう」
「やはり試練のようなモノがあるんですか?」
「試練? 試験ならありますよ。
学園側も推薦を受ける人物に値する実力を持っているかどうかを見定めると思いますよ。向こうも才ある魔法使いを獲得するのに必死ですからね」
「なるほど。天界とはやはり違うのですね。
……手間をかけるとは思いますがどうかわたしにこの世界での必要な知識をご教授ください。セルジュ、エレナ…」
少し話を聞いただけでもやはり天界とは異なるようで軽く不安になる。天界ならば階級の高い天使が勧めれば誰もが無条件でうなずくのだ。その言動を疑いはしないのでわざわざ相手を試すような事をしない。よって天界には試験という概念もない。わたしは自らの階級での仕事で接した地上界のことを見て、知っていた気になっていたようだ。まだまだ学んで、地上界のことをもっと知らなければ。
そう意気込み二人に頭を下げれば、セルジュはゆっくりとティーカップを置き、わたしに微笑む。やはりエレナとは兄妹なだけあって笑った表情がとてもよく似ている。
「セルジュ?」
「ふふ。貴方のような天使様を迎えられて私は幸せだと思っただけですよ。リディア様には人間の欲深い感情までは知られたくないですが…。
我々の世界に興味を示してもらえて年甲斐もなく喜んでしまいました」
「そういうものですか? わたしは自分の無知を嘆いていたのですが」
「嘆くだけなら誰にでもできます。リディア様はそこからご自分の無知をどうにかしようと知ることを望まれました。
そうやって我々人間に頭を下げてまでものを乞う天使はきっとリディア様以外いないでしょう。
そんなリディア様だからこそ私もエレナもお力になろうと思えたのです」
そう言ったセルジュはこれまた優しげで見る者を魅了するような笑顔をわたしに向ける。ミカエル様の腹黒さのない笑顔を見慣れていなければ危うく彼に見とれるところでした。比較的容姿の整った天使が多いなかで天界の一、二を争うほど美しいミカエル様と並ぶほど素敵な笑顔でした。
まぁわたしの主観ですけど…。
そんなこんなでセルジュとのティータイムは終わり、エレナの淹れてくれた紅茶の美味しさはさることながら手作りのシナモンクッキーの美味しさに悶えたそんなお茶会だった。意外と地上界のお菓子にハマってしまいそうな環境だ。すぐ肥えそうだから早いとこ堕天使とか狩らないと。
お茶会が終わり、これからわたしの自室となる部屋に案内をするために先を歩くエレナの背中を追う。ティータイムと称した腹の探りあいを終えたあとセルジュは仕事があると言って自室に戻ったのを見送って、掃除の行き届いた階段をゆっくりと登る。
わたしに割り振られた部屋は二階の東側の広い部屋らしく、階段を登ってすぐだった。エレナの質のいいお仕着せからその部屋の鍵だろうと思われるものを出し、やや重厚な音を立てて扉が開かれる。
彼女に促され中を覗くとわたし好みの趣味のよい調度品たちすぐに気に入ってしまった。おそるおそる中に入っていろいろと見て回ってるとエレナがこの部屋の鍵を差し出してきたので受け取ると。
「これからリディア様は一カ月の間しっかりとこの世界の事を学ばれますがご自分が天使だということを秘するようにお願い致します」
「はい。なるべく注意して行動するようにします」
アンティーク調な鍵を受け取りながらエレナの瞳を見つめてそう言えば、何故か苦笑を向けられる。
「はい。お気をつけ下さい。信頼の置ける使用人たちしか揃えていませんが、一カ月後にリディア様は人に紛れて学園生活を始められますので口さがのない者たちの噂にならぬようにこちらも気を配ります」
その会話を打ち切ったあとにエレナは『御用があれば一階のキッチンにいるのでなんなりとお申し付けください』と言い置き、足音を立てずに廊下を歩いていった。
思わずその場に取り残されたかのように直立不動としていたが、何とか持ち直したわたしはひとりごちる。
キッチンの場所知らないんだけど……。
あれなの?天使なんだから気配ぐらい察して探せってことなの?
というかエレナの靴、ヒールだったけど足音しなかったんだけど。
何か特別な訓練を受けていたのだろうかと思いながら自室になった部屋へと足を向け、開かれたままの扉を閉め最後に手にある鍵でしっかりと施錠をした。
言葉を交わしたのは少しの間だけだが彼等がわたしを害するとは思えない。が、まだまだ赤の他人で全幅の信頼を置くほどではないので自衛のためにとこの部屋の中を安全な領域としたのだ。まぁ鍵ひとつ掛けたぐらいで安全とは言い難いが、彼等の持ち家?持ち屋敷?である、とある一室の扉を無理にこじ開けようとはしないだろう。
なんでこんな事を気にしているのかというと昔に読んだある書物が原因なのだけど。警戒心を持たない美しく無垢な天使を人が魔族並に言葉巧みに騙し、天使の誇りである白い翼を切り落とし悲嘆の涙にくれる天使を堕天させたという、わたし達天使からすれば死んで悔い改めろ、と説教かましてやりたいぐらいなのだ。
この逸話が事実なのかはわからない。ただの教訓として伝えられているものかもしれない。だけどそれらをお伽話だと笑うには出来ないほど心を惹きつけられるものだった。わたしってば堕天願望でもあるのかと自問自答したくなる。いやいや、そんな神を裏切るような感情を抱いているはずないと頭を振る。
軽くため息を吐き、先程まで脳裏に描いていたお伽話の光景を打ち捨てるように閉じられている窓を開けて景色を眺める。人間の身体となってしまったから筋力もずいぶんと落ちたようで、それだけで腕がぷるぷると痙攣してしまった。
腕をさすりながら目に痛いぐらいの夕焼けに眉をしかめるも、ちょうどこの部屋の窓からあの庭を見渡せる位置で目を凝らしてクロウを捜してみるが あの特徴的な翼が見当たらない。目立つはずなのだが一向に見つからない。もうすぐ日も暮れる時間なのに。どこまで散歩に行っているのだろう。それともずいぶん長くクロウの事を放置してしまったため拗ねているのだろうか。林檎に釣られたわたしが悪かったからクロウに早く帰ってきてもらいたい。独りきりになるとどうも物悲しくてしょうがないのだ。
あの血を混ぜたような夕焼けも、それに助長するかのようにしか見えない。
逢魔が時に誘われた魔族の気配に身震い一つして、両開きの窓をなんとか閉めた。今度は腕を痙攣させないようにと気張った。人間の身体でもやればデキたので小さな達成感にいまだけ酔いしれたのだった。