ようこそ、妖精さん
つらつらと思い返してみるに、幸彦の人生で自分の部屋に女性がやってきた来た記憶は無い。
双子の弟である裕が女の子をつれて来たことはある。それがどうにも幸彦には悔しくてたまらなかった。
どうしたことだと思うのだが、裕に訪ねると向こうから行きたいというのだと言う。
高校生二年……17の青春真っ盛りの幸彦にはその事実はつらかった。そんなことを言われたことは未だかつて一度も無い。そして自分から誘う度胸も無い。
だが今夜は部屋に女性が居る。それも血のつながりの無い女性だ。
自分には親類縁者以外の人が部屋を訪れる機会は無いのではないかと思っていた。
そう考えれば、今日という日は奇跡なのではないかと思う。
今この状況は良いのか、悪いのかは別にして。女の子が来たという事実だけ抜き出すならば、抜き出せたのならば、これは奇跡だ。
「奇跡か、奇跡なのか? 良いのか? ええのんか?」
落ち着かない頭で、誰にあてた訳でもない問いかけをしながら、扉のドアに貼付けてあるカレンダーの今日という日に幸彦は際限なく赤いマジックで○を付け続ける。
何を隠そう、彼は今まさに混乱していた。
こんなにパニックになったのは、小学校の花瓶を割った後くらいじゃないかと思う。
「あの、幸彦様」
まるで鈴のような、澄んだ優しい声に全神経をカレンダーの日付に○を描くことに費やしていた幸彦は飛び上がって驚く。心臓が口から飛び出るかと思う。出たんじゃないかと、口に手を突っ込むと出ていなかった。ちょっと安心する。
「は、はい。なんでございましょうか?」
幸彦が振り返った先には三年前にゴミ捨て場から拾ってきたちゃぶ台が置かれ、その向こうには使われたことの無いお客様用の座布団があり、そこには誰も座ってはいなかった。
しかし、振り返った先に誰もいない訳ではない。
優しそうで柔和な目元、髪と同じく金色の眉。すっと通った鼻筋。部屋の安い蛍光灯の光を煌びやかに照り返す綺麗なブロンドの髪。その身を包んでいるのはドレスには、銀糸で気が遠くなるほどの刺繍の施されている。そんな物を幸彦は結婚式でしか見たことが無い。
それが似合うその女性は、まるで……物語の中から抜出たお姫様のようだ。もしくは神話の世界の慈愛に満ちた女神様か。
そんな彼女は置かれたちゃぶ台の上、さらにその上に置かれた裁縫道具セットの中の針山……そこに優雅に腰掛けていた。
その大きさは二十センチ程度……小さい。小さすぎると幸久は思う。
だが女性だとも思う。思うのだが、小さい。
なにせ、彼女は妖精だった。その証拠に背中には透き通るような……昆虫のような羽が生えている。
困惑し、目に見えて怯んでいる幸彦にその綺麗な妖精はどこか困ったように、けれどもしっかりとした意志を持って、口を開く。
「あの、私はなにをすればよろしいのでしょうか?」
問いかけに対して、幸彦の目が泳ぐ。彼の頭の中には女性が来たときにしたいことリストが山のように溜まっていたが、そこからエロチックな男子の健全な欲望が入った項目を除くと、残ったものは何も無い。
ゼロだ。虚構である。ぞっとするほどに何も無い。
だから幸彦は戸惑いながら、それでもなお、誠実さを持って彼女に返答する。
「と、特には」
「……あの、遠慮なさらないでください。私は”生け贄”です」
妖精の彼女はそう言って、強い意志のこもった瞳で幸彦を見つめる。
小指の先の爪ほども無いその瞳の深いグリーンの瞳に射抜かれて、幸彦は頬を引きつらせた。
「い、いやぁ。だけどねぇ」
なんとか言葉が口から滑り出る。しかしそれは1時間煮込んだ素麺より腰の入っていない言葉だった。それに対して、妖精のお姫様は針金のような芯の入った言葉を紡ぐ。
「貴方にならば、この命を捧げる所存です。レイガスター=”ダイミョウ”=リリララノナの名において、貴方の望むことであれば、この身を持って全力で」
胸に手を当ての真摯な言葉。
十七の幸彦にはその言葉は重たすぎる。正直引く。それも、本気で言っていると判ればなおのこと。
しかし、お姫様は悲しそうに目を伏せる。はらりと垂れた髪の毛がものすごく哀愁があり、幸彦は自分がものすごぉく悪いことをしている気がして、胸が痛くなる。
「一度逃げ出した私では、やはり信用に値しませんか?」
「そ、そうじゃないんだけどね。ああ、まってね。考えさせて。考えるからね」
そう言って幸彦は冷や汗を掻きながら、振り替えて壁に向かって、どうしてこうなったと呟いた。