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夢拾いの庭  作者: テレン


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8/10

記憶の庭で

夜の気配が早い。

夕方の空はまだ薄いのに、庭の奥の影だけが先に濃くなっていく。

黒い瓶は静かだ。

静けさの底で、昨日の海がまだ呼吸をしている。

“短く、長く、短く”。

三つの点の間に、言えなかった言葉が沈んでいる。


灯真は鉢の前にしゃがみ込んだ。

芽は細い葉を二枚ひらき、茎の中の空色が濃くなっている。

土に指を入れると、指先が冷たい。

冷たさの向こうで、根がやわらかく網を編いでいる。

編まれた網の結び目が、胸の奥の結び目と呼応する。


黒板の「朝」は崩れない。

昨日戻った字は、今日もそこにいる。

ただ、白の片隅に小さな点が増えていた。

短く、長く、短く――

粉の粒まで波の拍子を覚えたらしい。


門のベルが鳴る気配がして、鳴らなかった。

代わりに、庭の中央がわずかに沈む。

沈んだところへ、椅子のない座面がひとつ置かれる。

座らずに、呼吸だけ合わせる位置。

昼の影は細く、夜の影は厚い。

厚さの縁で、誰かが立った。


「――戻ってきたね」


ユラではない。

もっと低くて、乾いた声。

灯真が顔を上げると、そこに一人の男がいた。

歳は分からない。

背は高くも低くもなく、目の奥に夜の色をひとつ持っている。


見覚えがある。

名前が出ない。

代わりに、指が先に動く。

無意識に、篭の底の金具を確かめた。

その金具をつけたのが、この男だった気がした。


「前に、ここを任された者だよ」

男は言った。

名乗らない。

名乗らなくていい顔だった。

庭が、彼の立っている位置をよく覚えている。


「どうして」

灯真は自分でも驚くほど素直に問う。

「――どうして、僕はここにいる?」


男は肩をすくめ、黒い鉢の影をひと目見た。

影の角は丸く、角でないところが角の役目をしている。

彼はそこに片膝をつき、土に耳を近づけた。

「根が伸びてる。いい伸び方だ」

短く言って、立ち上がる。


「質問の答えは簡単だよ。

 君は“拾ってしまったから”、ここにいる」


「拾って……しまった?」


「最初の夜にな。

 まだ君が“夢拾い人”じゃなかったころの夜だ。

 海のある、風の速い場所。

 砂に数字を書いたろう」


――「1」「2」。

胸の内側で砂の音がした。

灯真は息を止める。

男はうなずく。

「数字は、呼吸の数だった。

 君は呼吸を数えることで、誰かを呼び戻そうとしていた」


「誰を」

喉が乾く。

男は、門のほうを見た。

通りの音が遠い。

「“朝”だよ」


答えは単純だった。

単純すぎて、胸が痛い。

痛みは輪郭になる。

輪郭があると、そこに名前を置きたくなる。

名はまだ沈んだままだが、輪郭の周りに温度が集まる。


男は棚の手前――空白の前に立つ。

空白の深さを確かめるように指先で撫で、ふっと笑った。

「いい空白だ。

 空白は残すためにある。埋めるためだけじゃない」


「教えたのは、あなたですか」

灯真が問うと、男は首を傾げた。

「さあね。

 教えられたことは、忘れるのがいちばん上手い。

 残るのは、手順と体温と、癖だ」


その言葉は、灯真の手に残っている何かとぴたり合った。

手袋の縫い目、篭の金具、黒板の粉の擦れ。

癖でできた道具の匂いが、過去の手つきを連れてくる。


男は黒い瓶を見もしない。

代わりに、棚のいちばん奥から古い瓶を一本取り出した。

ラベルは色が抜け、文字が欠けている。

欠け方に見覚えがある。「海」の「み」が落ちる欠け方。

男は栓を開けない。

瓶の口を、影に傾けるだけ。

影の濃いところへ、古い光が一筋落ちる。


光は波だった。

砂の匂いがしないのに、膝裏に砂の形がつく気がする。

波の音の上に、もう一つ別の音。

低く、穏やかな声が重なる。

――トウマ。

呼び名が、胸の骨に触れる。

その骨は、痛みを忘れかけていた骨だ。


「思い出すなら、今だ」

男が言う。

「けれど、思い出せば、何かが減る」


「分かっています」

灯真の声は静かだった。

減るものが何か、もうだいたい分かっている。

“守る”と“思い出す”はいつも同じ場所を引き合う。

引かれた場所は、風の通り道になる。

通り道に、言葉が一度だけ鳴る。


――君の朝に。


影がわずかに深くなる。

男は瓶を戻し、黒板の前に立った。

粉の白で何も書かず、指で空気を撫でる。

撫でた軌跡が一瞬だけ見え、すぐ消える。

消える直前、灯真の目はその形を知っていた。

“朝”の一画目だ。

彼は笑って、目で「やってみろ」と言った。


灯真はチョークを取る。

一画目から、書く。

ゆっくり、深く。

線が残る。

残った線の上に、二画目、三画目を重ねる。

字は不格好だが、白は濃い。

白の厚みの中に、微かな塩の粒が光った。

海の気配が、字の骨に宿る。


「君は“朝”を拾った。

 拾ったから、ここにいる」

男は短く言って、庭の中央へ戻る。

「名は、まだ要らない。

 名を先に呼ぶと、夢は急ぐ」


「あなたは、このあとどこへ」

「影の細いほう」

男は肩越しに手を上げ、椅子のない座面に腰をかけるふりをして、座らずに消えた。

消えた跡に、土の匂いがひとつ残る。

前任者の癖の匂い。

匂いは、名より長く残る。


庭が再び灯真だけになる。

空気が少し軽く、少し深い。

黒い瓶は静かだ。

静けさの中に、胸の鼓動だけが確か。

鉢の上で、芽が細い影を落とす。

影は椅子の脚になりかけて、ならない。

ならない脚の形に、灯真は指を差し入れ、空気を軽く持ち上げた。

持ち上げた位置に、まだ見たことのない座り心地がある。


昼の終わり、雲が海の色を少しだけ混ぜる。

門の外を、足音が三つ分の間隔で通り過ぎる。

“短く、長く、短く”。

灯真は黒い瓶に口を寄せ、低く言った。

「――君の朝に」

栓の向こうで、波が一度だけ寄せ、引く。

胸の痛みが、呼吸の形を憶え直す。


夕方、女の人が来た。

腕に赤ん坊。

泣いてはいない。

眠ってもいない。

目をあけたまま、瓶の光を見ている。

灯真は棚から一本、白い瓶を取った。

ラベルには薄く「目覚めの前」とある。

彼女はそれを両手で受け取り、赤ん坊の頬に瓶の冷たさを一瞬だけ触れさせた。

赤ん坊のまぶたが、ゆっくり閉じる。

閉じる直前、目の中に小さな光が立った。

光はすぐに消える。

消えた場所に、眠りの形が残る。


「おいくらですか」

「三百五十円です」

数は迷わない。

女の人は会釈し、門の外へ消えた。

通りのほうから、細い笑い声が一度だけ跳ねて、収まる。

笑いの重さが、庭の中央に薄い円を置く。

円はしばらく残って、夜が落ちる前に消えた。


夜。

風が海の匂いを一つだけ連れてくる。

黒い瓶の栓は閉じたまま。

灯真は瓶に触れず、棚の手前の空白に指を置いた。

空白は、座面のない椅子に似ている。

座らないで支えてくれる。

支えられると、言葉の重さを置ける。


「……君の朝に」


庭が、わずかに深くなる。

深くなった場所へ、影が集まる。

影の表面に、白い椅子の脚が一瞬だけ現れ、すぐ消えた。

椅子はまだ必要ない。

座らずに、呼吸だけ合わせる夜。


胸ポケットの内側で、花びらが薄く震えた。

取り出すと、表面に陰文字が淡く残っている。

――き・み・の・あ・さ・に

影にかざすと、読みやすい。

光に出すと、ほとんど消える。

今日は、光の中でもかろうじて読めた。

読めることが、少し怖い。

怖さは、残っている証拠だ。

残っているあいだに、やるべきことがある。


灯真は花びらを黒い瓶に重ね、栓を少しだけ緩めた。

開けるのではない。

夜の呼吸が、瓶の口で息継ぎできる程度に。

“短く、長く、短く”。

拍子が庭に伝わる。

拍子の合間に、微かな声が差し込む。


――トウマ。


波の向こうから。

呼ばれ方が、幼い。

幼い声のあとに、低い声が続く。

ふたつの声が重なる場所に、朝の色が薄く滲む。


灯真は目を閉じて、その滲みを胸の裏側に移した。

痛みはない。

ただ、温度があった。

温度は、長く残る。


黒板の前に立ち、白で短く書く。

「準備」

その二文字が、庭の呼吸を一段深くした。

深くなった呼吸に合わせて、鉢の芽が小さく背を伸ばす。

伸びる音は土に吸われ、土の奥で遠い波に混ざる。


門の閂を降ろす前、灯真は一度だけ空を見た。

星は少なく、雲は薄い。

薄い雲の隙間に、朝の色がほんの少しだけ置かれていた。

置かれた色は、触れる前から懐かしい。

懐かしさは、来たことのない場所に対してだけ強くなる。

そこへ行く準備を、今夜はただ静かに整える。


――君の朝に。

心の中で繰り返し、鍵の場所を確かめる。

鍵は冷たい。

冷たいのに、持っていると手の温度が戻る。

戻った温度で、庭はもう一度だけ息をした。


灯真は門の閂を下ろし、棚の手前の空白に触れて小さく頷く。

空白は残す。

残すことで、そこに誰かが座れる。

座らない椅子のために、夜をひとつ長くしておく。


黒い瓶は静かだ。

静けさの奥で、波は拍子を崩さない。

“短く、長く、短く”。

その間に、灯真は眠りへ落ちていった。

土の匂いのする眠り。

目覚めの手前で、誰かが笑う音がした。

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