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夢拾いの庭  作者: テレン


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7/10

波の記憶

朝の光が、瓶の中にゆっくりと沈んでいく。

夜の欠片を閉じた黒い瓶は、昨夜よりも軽い。

手に取ると、瓶の底がわずかに湿っていた。

海の匂い。

それは現実の庭には存在しないはずの匂いだった。


灯真は黒板の前に立ち、昨日書いた「朝」の字をなぞる。

線は残っている。

けれど、字の中心――「月」の部分が少しだけ欠けている。

粉を指先で払うと、粉の下に塩の結晶が一粒残っていた。

舐めるまでもなく、それが「海」だと分かる。


「君の朝に」と言葉を置くたび、

庭のどこかで音が鳴る。

その音が今日は、海の波打ち際みたいに間を持っていた。

“短く、長く、短く”。

三つの点。


灯真は鉢の前にしゃがみ込んだ。

芽は昨日よりも青く、茎の内側に細い筋が走っている。

空色というより、海の底に光が沈むような青。

指で茎をなぞると、ひんやりとした感触が指に残る。


――「思い出す痛み」はまだ続いている。


胸の奥に、夜と朝の境がある。

その境のどちらかを触れるたび、温度が反転する。

冷たくなった心臓を、手の温もりで戻すような感覚。


門の外を、波のような足音が通り過ぎた。

新聞配達でもなく、子どもでもない。

もっと静かで、一定のリズム。

灯真は立ち上がり、門を開ける。


通りの先に、白い影があった。

ユラ。

今日は裸足で、手に小さな貝殻を持っている。

髪は湿っていて、肩に貼りついている。

まるで海から上がってきたようだった。


「また来たのか」

「呼ばれたから」

「呼んでない」

ユラは笑った。

「“君の朝に”って、言ったでしょ」


灯真は息を詰めた。

そうだ。昨夜、瓶に言葉を落とした。

“鍵”だと彼女が言った言葉が、思い出の形を開いたのだ。


ユラは貝殻を差し出す。

中には、小さな波紋のような模様が刻まれている。

「これ、あなたの声」

「……どういうこと?」

「夢の中で、あなたが海に残した声。

 波がそれを運んで、貝に閉じ込めたの」


灯真は貝を覗き込む。

耳に当てると、風の音がする。

それは風ではなく、確かに誰かの呼吸。

ゆっくり吸って、吐く。

そのたびに波が寄せる。


「聞こえる?」

ユラの声が遠くなった。

灯真は頷く。

「……聞こえる」

「それ、あなたが“誰かを呼んでいた”声。

 でも、呼ばれた人の名前が、まだ波に沈んでる」


「僕が誰を呼んでたの?」

「私」

ユラは目を細めた。

「でも、“ユラ”じゃなかった」


風が変わる。

庭に雨の前の湿った空気が流れ込む。

ユラの髪が頬に触れた。

湿った香り。

それは花でも土でもなく、潮の匂い。


「君の本当の名前は?」

ユラは笑わなかった。

「思い出したら、夢が終わる。

 でも、もうすぐ“君の朝”が来る。

 だから、どちらかを選ばなきゃ」


「どちらか?」

「思い出すか、守るか。

 どちらかひとつだけ」


灯真は貝を強く握った。

波の音が止まり、代わりに心臓の鼓動が耳に響く。

痛みが熱に変わる。

熱が言葉になる。


「僕は――」


言いかけた瞬間、庭の瓶が一斉に鳴った。

黒い瓶、白い瓶、橙の瓶。

全部が同じ拍子で震える。

“短く、長く、短く”。


ユラは目を閉じ、貝を受け取った。

その瞬間、瓶のひとつが割れた。

音はしなかった。

光だけが、静かに弾けた。


弾けた光が庭を満たす。

光の中で、灯真は自分の影を見た。

影の中に、もうひとりの影が立っている。

同じ姿勢で、同じ呼吸。

でも、顔が違う。

その影は、ユラと同じ瞳をしていた。


「……僕たちは、いつから知り合いだった?」

ユラは答えない。

代わりに、瓶の割れ口から指を滑り込ませた。

指先に光が絡み、音が戻る。

波の音。

遠くで誰かが呼んでいる。


「――トウマ」


その声は、ユラのものではなかった。

低くて、柔らかくて、懐かしい。

幼い日の空気の匂いを連れてくる声。


灯真の胸が強く打つ。

体の奥から、知らない記憶が零れた。


――砂浜。

――誰かの手。

――名前を呼ぶ声。

――波。


胸の痛みが、もはや痛みではなく、輪郭になった。


「誰……?」

灯真が言うと、ユラが顔を上げた。

瞳が、ほんの少しだけ濃くなる。


「その人は、わたしの“はじまり”」

「はじまり?」

「あなたが、最初に“拾った夢”」


ユラの言葉が庭を静かに震わせた。

鉢の芽が大きく揺れ、土が呼吸を始める。

黒板の上で、「朝」の字が勝手に光る。


ユラは貝を胸に当てた。

「この声が完全に思い出されたら、私は消える」

「じゃあ、どうすればいい」

「“守る”なら、瓶を閉じたままにして。

 “思い出す”なら、割って」


灯真は黒い瓶を見た。

海の音が中でまだ鳴っている。

“1”“2”、そして三つの点。

呼吸の間隔。

それは確かに、ユラのものだった。


風が止まり、庭が息を潜める。

瓶の栓の上に、細い光の糸が落ちる。

ユラの指がその糸に触れ、灯真の指も同時に触れた。

冷たいのに、熱い。

そこに、選択の痛みがあった。


「君の朝に」


灯真が囁いた。

その瞬間、黒い瓶の栓が自ら外れた。

光が溢れる。

波の音が戻る。

貝殻の中から、声が重なる。


――「おはよう、灯真」


光の中で、ユラが笑った。

笑いながら、彼女の輪郭が崩れていく。

崩れた先に、潮の匂いが残った。

その香りが、痛みをやさしく撫でる。


灯真は瓶を胸に抱いた。

光が静まり、海の音だけが残る。

その音はもう、痛くなかった。

ただ、懐かしかった。


黒板の上で、「朝」の字が完全に戻る。

粉の白が濃く、線がきれいに閉じていた。


――痛みは、思い出の形をしている。

――思い出は、誰かの朝になる。


灯真は目を閉じ、瓶を棚に戻した。

ユラのいた場所に、淡い水の跡が残っている。

それが消える前に、静かに呟く。


「……君の朝に」


風が、まるで返事のように吹き抜けた。

鉢の芽が揺れ、土の下で小さく音がした。

――コン。

新しい記憶が、根を下ろす音だった。

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