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夢拾いの庭  作者: テレン


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6/10

思い出す痛み

雨上がりの朝は、瓶の呼吸が深い。

棚のいちばん手前――空白の隣で、昨夜閉じた黒い瓶が低く鳴っていた。

夜の欠片を入れたまま半日じっと耐えた音。

灯真は手を伸ばしかけて、引っ込める。

触れたら、なにかが削れる。それが分かる。


黒板の前に立つ。

「朝」の二画目から書く。

線は残るが、起筆の位置を身体が忘れている。

書き終えて離れると、白がゆっくり沈んだ。

沈む白は、痛いほど静かだ。


鉢の芽は、昨日より確かに高い。

空色の筋が一本増え、茎の中心に細い鼓動。

影はまだ椅子の脚になりきらない。

座れば折れる。

座らずに、呼吸だけ合わせる。


門のベルが鳴いた。

郵便受けのような声で「おはよう」と言う老人――あの橙の瓶の人だ。

「眠れたよ」

紙袋を胸に抱いた手が、かすかに震えている。

「……それは、よかったです」

灯真の声が自分の耳をよぎる。

老人は棚を見回し、黒い瓶に目を止めた。

「その一本は?」

「まだ、朝になってない」

そう言った途端、瓶が短く鳴った。

老人は首を傾げ、「じゃあ、また来る」と笑って門を出た。

背中の影が敷石の「7」と「8」を跨ぎ、細長い線の上にやさしく音を置いていく。


昼。

空が浅く、光が庭を薄く洗った。

影は伸び、黒い鉢の輪郭がはっきりする。

灯真は影の縁に足を入れ、耳を澄ませた。

瓶の呼吸と土の湿り。

柑橘ではない、もっと尖った匂い――鉄。

胸の奥がひやりとする。

記憶のほうが先に身体を動かす。


黒い瓶の栓に手を添える。

開けない。

ただ、触れる。

触れたところから、皮膚の内側に冷たい光が染みてくる。

言葉の形にならない感触。

そのとき、影の向こうから声が落ちた。


「――灯真」


昼の声だ。

振り向くと、ユラがいた。

今日は白じゃない。

薄い灰の衣の裾が、影の水面を曖昧にする。

目の色は、芽の空色と同じ。


「痛いの?」

ユラが近づくと、黒い瓶がひとつ深く鳴った。

灯真は頷く。

「思い出しそうになると、胸の奥が冷えて、そこから熱くなる」

「それが“かたちになる前”の痛み」

「前?」

「うん。

 思い出す痛みは、なるべくゆっくりのほうが残りがいい」


ユラは栓に触れないまま、瓶の口に自分の呼吸をふっと吹きかけた。

ガラスが曇り、曇りの輪郭に淡い影が浮かぶ。

海。

見たことのない岸。

濡れた砂に、数字――「1」と「2」。

波が来て、消える。

また現れる。

同じ場所に。


灯真の指が、無意識にその数字をなぞる。

指先が濡れた気がして、手を見下ろす。

濡れていない。

濡れていないのに、指の腹が塩辛い気がする。

喉が渇き、胸が熱い。


「それ、あなたの“最初の朝”の気配だよ」

ユラが囁く。

「最初?」

「うん。

 “君の朝”のいちばん手前」


灯真は瓶から手を離した。

離した掌が、じん、と痺れる。

痺れの下で、言葉の骨がひとつ軋む。

軋む音は痛みに似て、痛みは風に似ている。

風は椅子の影を薄く広げる。


「座ってみる?」

ユラが問う。

灯真は影の四角を見て、首を振った。

「今座ると、きっと戻れない位置まで行く」

「戻らなくていい場所もある」

「でも、今はまだ」


ユラは頷き、代わりに灯真の手を取った。

掌と掌。

その温度が交じるところで、黒い瓶がもう一度鳴った。

鳴りは小さいが、深い。

深いところへ落ちる音だ。


「灯真、手、見て」

ユラの声が近い。

掌に、薄い陰文字が浮かんでいる。

き・み・の・あ・さ・に――

昨日の陰文字だ。

影にかざすと読め、光に出すと消える。

今日は光の中でも消えかけのまま残った。

残ると、痛む。

痛むと、形になる。


「思い出すって、痛いんだな」

灯真が言うと、ユラは笑った。

「痛みは、からだが“ここにあるよ”って教える方法だもの」

「じゃあ、この痛みは、君のせい?」

ユラは小さく首を傾げた。

「“せい”にしてもいいけど、できれば“おかげ”にしてほしい」

「強欲だね」

「うん。わたしは、あなたにとって強欲な夢でいたい」


風が一段強くなり、庭の瓶がいくつか同時に鳴る。

鳴りに重なって、黒板の粉が一つ、空中でほどけた。

ほどけた白がユラの髪にかかり、髪が一瞬、朝の色を帯びる。

灯真はそれを見た瞬間、肺がきつくなった。

過去のどこかに似ている。

思い出した途端、破れる。

だから、ぎりぎりで思い出さない。


「ねえ、灯真」

ユラが言う。

「この庭、あなたの前は、誰のだった?」

「……名前、出てこない」

「手順は?」

「手順だけ残ってる」

「じゃあ、名前は“ここ”にある」

ユラは灯真の胸に指を当てる。

「ここの痛みが、名前の形」


灯真は目を閉じた。

胸の奥で、灰の上を指でなぞる感覚。

灰の下から、ひとつ骨のような線が出てくる。

骨に付いた塩。

塩の味。

海。

波。

「1」「2」。

波。

「1」「2」。

……呼吸。

呼吸と足音が重なる。

呼吸が数を持つ。

数が朝になる。


「君は、どこでわたしを知った?」

灯真が問う。

ユラは笑う。

「“君の朝に”って、あなたが初めて言った夜」

「いつだった?」

「まだ、来てない」

「来てないのに、覚えてるの?」

「うん。わたしは“これから”を先に見る夢だから」


昼の影がゆっくり痩せる。

痩せるほどに、黒い瓶の中の夜が静かになる。

静かさは、痛みと同じ方向へ伸びる。


「開ける?」

ユラが言う。

灯真は首を横に振った。

「今はだめだ。

 開けたら、君が薄くなる」

「薄くなっても、ちゃんといるよ」

「“ちゃんと”が、怖い」

ユラは少し目を細めた。

「怖いって言えるうちは、平気」

「どうして」

「怖さは、残ってる証拠だから」


ユラは手を離し、黒い瓶の上に手をかざした。

栓は閉じたまま。

瓶の内側で、海の輪郭が一瞬だけ白く反転する。

「1」「2」。

数字の下に、小さな点が三つ。

点は呼吸の間隔だ。

短く、長く、短く。

――誰かの合図。

灯真の胸がうずく。

痛みが形に触れる。


「思い出したら、どうなる?」

灯真の問いに、ユラは肩をすくめた。

「痛みが“いたみ”じゃなくなる」

「どういうこと」

「“いたみ”は一度、“いた”と“み”に分かれる。

 “いた”は過去、“み”は今。

 分かれたままだと、ずっと痛い。

 合わさると、“居た”と“視”になって、ただの事実になる」


灯真は笑った。

「ことば、強いね」

「ことばに住んでるから」

ユラは黒板のほうを見た。

「“朝”の二画目、残ってる」

「一画目、書けなかった」

「今夜、書けるよ」

「どうして分かる」

「あなたの手が、もう“前”の使い方をやめたから」


午後が傾き、影がほどける。

ユラは光へ歩く。

灰の衣が白に戻る。

戻る前、振り返って言った。

「ねえ、灯真。

 “君の朝に”って、今、言ってみて」

灯真は胸の内で言葉を転がし、外へ出す。

「――君の朝に」

黒い瓶が、はっきり鳴った。

痛みが、少しだけぬるくなる。

ユラは微笑む。

「それ、あなたの鍵」

「鍵?」

「開ける鍵でもあるし、閉めておく鍵でもある」

「都合がいい」

「うん。わたしたち、都合のいいものに支えられて生きてる」


ユラが光にほどけると、庭の匂いがひとつ入れ替わった。

鉄の匂いが薄れ、パンの匂いが戻る。

戻り際、鉢の芽が自分の影を確かめるように、短く左右に揺れた。


夕刻。

老人の代わりに、若い男が来た。

夜勤明けの目の下の隈。

「眠りたいのに眠れない」と言う。

灯真は棚を見渡し、白い瓶を一本差し出した。

「数字は?」と問われ、木札を見た。

「三百五十円です」

口から出た数が、今日はきちんと庭に着地した。

男は会釈し、瓶を持って通りへ出る。

通りの光が細く、瓶のガラスに映る。

瓶の中に、三つの点が一瞬、並んだ。

短く、長く、短く。

男の足音が、それに合わせて遠ざかる。


夜。

黒板の前に立つ。

一画目から、書く。

粉が鳴り、線が残る。

残った白の端を、指で軽く押す。

押したところに、胸の痛みが移る。

移った痛みは浅い。

浅い痛みは、朝に似ている。


棚の手前――空白。

灯真はそこに、指で小さな円を描いた。

円はすぐに消える。

消えた場所に、冷たい鍵の形が残る。

鍵穴のない鍵。

鍵のない鍵穴。

それでも、開け閉めはできる。


黒い瓶を持ち上げる。

栓に口を寄せ、言葉を落とす。

「君の朝に」

栓の向こうで、海がふっと明るくなる。

波が寄せ、数字が現れ、消え、点が三つ。

短く、長く、短く。

胸の痛みが、その拍子に合う。

合ったところで、少しだけほどける。


「――おやすみ」

誰の声か分からない声で、灯真は言った。

瓶の中の夜が、一度だけ深く息をして、静かになった。

静けさの底で、確かに“いた”が“視”に変わる音がした。

音は小さく、確かで、痛みより少し温かかった。


灯真は瓶を棚へ戻し、門の閂を降ろす。

庭の中央に立ち、空を見上げる。

星は少なく、夜は薄い。

薄い夜ほど、痛みはよくほどける。

ほどけた先に、朝が置かれている。


胸の内で、言葉が静かに反芻された。

――君の朝に。

言うたび、鍵がひとつ、正しい場所へ戻る。

戻るたび、痛みは形をやめ、形だったものだけが残る。


鉢の芽が、眠る前の子どものように小さく伸びをした。

その伸びの音は、土の奥で――

ほんの少し、海に似ていた。

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