夜を拾う手
夕方の庭は、まだ昼の余韻を残していた。
光が瓶の列を半分だけ照らし、もう半分は影のまま。
影の中で、瓶のひとつが小さく震えている。
灯真はその瓶を持ち上げ、耳を澄ませた。
中で、誰かが「おやすみ」と言った気がした。
⸻
夜が降りてくると、音が増える。
瓶の鳴る音、土の呼吸、芽の微かなきしみ。
灯真は手袋をはめ、篭を肩にかけた。
風が強い。
花びらが、いつもより高いところから降りてくる。
空気の層を抜けるたびに、花びらは形を変える。
白から、橙へ。橙から、淡い青へ。
そして地面に届く頃には、ほとんど透明になる。
灯真はそのひとひらを掌で受け止めた。
冷たくない。
指先で軽く押すと、そこにかすかな鼓動があった。
拾いながら、思う。
「夢を拾う手」と「記憶を掬う手」は、どこで分かれるのだろう。
最近、拾った瓶の中に、自分の記憶の断片が混じっていることがある。
見覚えのない風景。
でも、それを見たときの温度だけは、確かに“自分のもの”だと分かる。
風がさらに強くなり、木の葉がざわめく。
花びらが舞い、篭の中に降り積もっていく。
灯真は瓶の栓を外しながら、ふと違和感に気づいた。
――瓶が、軽い。
いくつかの瓶が、夜の途中で中身を失っていた。
ラベルには「声」「橋」「影」などと書かれているが、
瓶を透かしても、何も見えない。
「……出ていった?」
そう呟くと、風が返事のように庭を通り抜けた。
篭の中の瓶が同時に鳴る。
重なる音の中で、ひときわ高く響いた一本を持ち上げる。
中には、見慣れない光。
橙でも、白でもない。
夜そのものの色。
光というより、欠片になった夜。
灯真は瓶を開けようとして、指を止めた。
夜を拾う手は、夜に溶けやすい。
それを知っているはずなのに、体が動いてしまう。
――コト。
栓が開いた瞬間、瓶の内側から冷たい風が吹いた。
庭の花びらがすべて空へ吸い上げられ、
一瞬、無音の夜ができた。
その無音の中で、誰かが言った。
「灯真」
耳ではなく、背中で聞こえた。
振り向くと、ユラがいた。
昼の影の中よりも、ずっと近くに。
息がかかる距離。
「瓶、開けたね」
ユラは笑っていない。
けれど声は穏やかだった。
「これは夜の夢だ。拾うべきじゃなかった」
「拾わないと、朝が途切れる気がした」
「途切れるのは“朝”じゃなくて、“あなた”の方だよ」
ユラは灯真の手に触れた。
指先が、夜に吸われるように冷たくなる。
触れたところから、皮膚の内側が少しずつ透けていく。
「夜の夢は、思い出す力を食べる。
拾えば拾うほど、あなたの“過去”が減っていく」
「……でも、それが仕事だろう?」
ユラは首を振った。
「“仕事”は朝を届けることであって、夜を集めることじゃない」
沈黙。
瓶の中の夜が、ふたたび動き出す。
その黒がユラの足元に触れ、彼女の影を濃くした。
影の輪郭が、椅子の形に変わっていく。
「もう座れないんだね」
灯真の声が、風に混じって小さく崩れる。
ユラは首をかしげた。
「座ることより、“座らせる”方が大事。
あなたがここで拾ってるのは、夢じゃなくて“誰かの余白”。
わたしは、それを思い出すための影にすぎない」
「じゃあ、君は……」
「私は“君の朝”になる前の夢。
あなたが最後に拾うべきひとひら」
灯真は言葉を失う。
彼女の言う「最後」という音が、胸の奥で鈍く響いた。
その響きが、瓶のガラスを震わせる。
瓶の中の夜が、少しずつ外へこぼれ始める。
黒が庭を這い、敷石の「7」と「8」のあいだを飲み込む。
空の星が、瓶の中へ落ちていく。
灯真は瓶を握り締めた。
割れそうなほどに。
「このままじゃ、君まで消える」
「いいの。
私は“思い出される”ためにここにいる。
それが、夢の行き先」
ユラは瓶の中を覗き込み、
ゆっくりと指を伸ばした。
彼女の指が光に触れた瞬間、瓶の中の夜がふっと柔らかくなる。
「見て、夜も生きてる」
灯真は息を呑む。
瓶の中で、黒が揺らめき、まるで生き物のように蠢く。
そこに、人の記憶のような影がいくつも映る。
見覚えのない街、知らない顔、でも、
その中のひとつ――白いワンピースの背中だけが、妙に懐かしい。
ユラはその影を指さす。
「ほら。
これが、あなたの“知らない記憶”」
「僕の?」
「うん。
あなたがまだ思い出せていない“最初の朝”。
その記憶が、私をここに連れてきたの」
灯真の指が瓶の外をなぞる。
夜の光が皮膚を通って、心臓の鼓動と重なる。
胸の奥で何かがはっきり形を取ろうとする。
だけど、まだ思い出せない。
ユラは灯真の胸に手を置いた。
「思い出すのは、次の夜。
でも、そのときまで、この瓶は閉じておいて」
「……閉じたら、もう君に会えなくなる」
ユラは微笑んだ。
「閉じても、呼べば開く。
“君の朝に”って言葉で」
灯真は瓶の栓をゆっくり戻した。
栓が締まる瞬間、庭の風が止まり、
ユラの姿が淡い光の粒に変わる。
粒が指の間を通り抜ける。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ確かに“そこにいた”という手応えだけを残して。
夜が静まり返る。
星のひとつが、瓶の栓の上で小さく光った。
灯真はその光を指でなぞる。
瓶の中では、黒がゆっくり呼吸をしている。
胸の内で、ユラの声が再び響いた。
――君の朝に。
灯真は目を閉じた。
胸の奥にあった“知らない記憶”が、ゆっくりとかたちを変え始めていた。
それはまだ“思い出”にはならない。
でも確かに、彼女の指先のぬくもりが残っていた。




