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夢拾いの庭  作者: テレン


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5/10

夜を拾う手

夕方の庭は、まだ昼の余韻を残していた。

光が瓶の列を半分だけ照らし、もう半分は影のまま。

影の中で、瓶のひとつが小さく震えている。

灯真はその瓶を持ち上げ、耳を澄ませた。


中で、誰かが「おやすみ」と言った気がした。



夜が降りてくると、音が増える。

瓶の鳴る音、土の呼吸、芽の微かなきしみ。

灯真は手袋をはめ、篭を肩にかけた。

風が強い。

花びらが、いつもより高いところから降りてくる。


空気の層を抜けるたびに、花びらは形を変える。

白から、橙へ。橙から、淡い青へ。

そして地面に届く頃には、ほとんど透明になる。


灯真はそのひとひらを掌で受け止めた。

冷たくない。

指先で軽く押すと、そこにかすかな鼓動があった。


拾いながら、思う。

「夢を拾う手」と「記憶を掬う手」は、どこで分かれるのだろう。

最近、拾った瓶の中に、自分の記憶の断片が混じっていることがある。

見覚えのない風景。

でも、それを見たときの温度だけは、確かに“自分のもの”だと分かる。


風がさらに強くなり、木の葉がざわめく。

花びらが舞い、篭の中に降り積もっていく。

灯真は瓶の栓を外しながら、ふと違和感に気づいた。


――瓶が、軽い。


いくつかの瓶が、夜の途中で中身を失っていた。

ラベルには「声」「橋」「影」などと書かれているが、

瓶を透かしても、何も見えない。


「……出ていった?」


そう呟くと、風が返事のように庭を通り抜けた。

篭の中の瓶が同時に鳴る。

重なる音の中で、ひときわ高く響いた一本を持ち上げる。


中には、見慣れない光。

橙でも、白でもない。

夜そのものの色。


光というより、欠片になった夜。


灯真は瓶を開けようとして、指を止めた。

夜を拾う手は、夜に溶けやすい。

それを知っているはずなのに、体が動いてしまう。


――コト。


栓が開いた瞬間、瓶の内側から冷たい風が吹いた。

庭の花びらがすべて空へ吸い上げられ、

一瞬、無音の夜ができた。


その無音の中で、誰かが言った。


「灯真」


耳ではなく、背中で聞こえた。

振り向くと、ユラがいた。

昼の影の中よりも、ずっと近くに。

息がかかる距離。


「瓶、開けたね」


ユラは笑っていない。

けれど声は穏やかだった。


「これは夜の夢だ。拾うべきじゃなかった」


「拾わないと、朝が途切れる気がした」


「途切れるのは“朝”じゃなくて、“あなた”の方だよ」


ユラは灯真の手に触れた。

指先が、夜に吸われるように冷たくなる。

触れたところから、皮膚の内側が少しずつ透けていく。


「夜の夢は、思い出す力を食べる。

 拾えば拾うほど、あなたの“過去”が減っていく」


「……でも、それが仕事だろう?」


ユラは首を振った。

「“仕事”は朝を届けることであって、夜を集めることじゃない」


沈黙。

瓶の中の夜が、ふたたび動き出す。

その黒がユラの足元に触れ、彼女の影を濃くした。

影の輪郭が、椅子の形に変わっていく。


「もう座れないんだね」


灯真の声が、風に混じって小さく崩れる。

ユラは首をかしげた。


「座ることより、“座らせる”方が大事。

 あなたがここで拾ってるのは、夢じゃなくて“誰かの余白”。

 わたしは、それを思い出すための影にすぎない」


「じゃあ、君は……」


「私は“君の朝”になる前の夢。

 あなたが最後に拾うべきひとひら」


灯真は言葉を失う。

彼女の言う「最後」という音が、胸の奥で鈍く響いた。

その響きが、瓶のガラスを震わせる。


瓶の中の夜が、少しずつ外へこぼれ始める。

黒が庭を這い、敷石の「7」と「8」のあいだを飲み込む。

空の星が、瓶の中へ落ちていく。


灯真は瓶を握り締めた。

割れそうなほどに。


「このままじゃ、君まで消える」


「いいの。

 私は“思い出される”ためにここにいる。

 それが、夢の行き先」


ユラは瓶の中を覗き込み、

ゆっくりと指を伸ばした。

彼女の指が光に触れた瞬間、瓶の中の夜がふっと柔らかくなる。


「見て、夜も生きてる」


灯真は息を呑む。

瓶の中で、黒が揺らめき、まるで生き物のように蠢く。

そこに、人の記憶のような影がいくつも映る。

見覚えのない街、知らない顔、でも、

その中のひとつ――白いワンピースの背中だけが、妙に懐かしい。


ユラはその影を指さす。


「ほら。

 これが、あなたの“知らない記憶”」


「僕の?」


「うん。

 あなたがまだ思い出せていない“最初の朝”。

 その記憶が、私をここに連れてきたの」


灯真の指が瓶の外をなぞる。

夜の光が皮膚を通って、心臓の鼓動と重なる。

胸の奥で何かがはっきり形を取ろうとする。

だけど、まだ思い出せない。


ユラは灯真の胸に手を置いた。

「思い出すのは、次の夜。

 でも、そのときまで、この瓶は閉じておいて」


「……閉じたら、もう君に会えなくなる」


ユラは微笑んだ。

「閉じても、呼べば開く。

 “君の朝に”って言葉で」


灯真は瓶の栓をゆっくり戻した。

栓が締まる瞬間、庭の風が止まり、

ユラの姿が淡い光の粒に変わる。


粒が指の間を通り抜ける。

冷たくもなく、温かくもない。

ただ確かに“そこにいた”という手応えだけを残して。


夜が静まり返る。

星のひとつが、瓶の栓の上で小さく光った。

灯真はその光を指でなぞる。

瓶の中では、黒がゆっくり呼吸をしている。


胸の内で、ユラの声が再び響いた。


――君の朝に。


灯真は目を閉じた。

胸の奥にあった“知らない記憶”が、ゆっくりとかたちを変え始めていた。

それはまだ“思い出”にはならない。

でも確かに、彼女の指先のぬくもりが残っていた。

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