消える文字
朝一番、黒板の白が薄かった。
昨夜のまま残しておいたはずの線が、夜露でにじんで、指の腹でなぞる前にもう消えていく。
チョークを握る。粉が軽く、折れやすい。
「朝」と書こうとして、最初の一画で止まった。
手首の内側が、ふっと空へ浮く。
書けないのではなく、書く前に形が別のほうへ流れてしまう。
棚のラベルも同じだった。
「海」「遠い声」「雨上がりの匂い」。並んだ瓶のうち、「海」だけが「うみ」の「み」を落として「う」に戻っている。
紙の上に確かにいたはずの文字が、夜のあいだに瓶の中に移ったのか、風に混じって庭のどこかへ歩いていったのか。
指で触れると、紙が笑うみたいにふわりと波打って、何も手に残らない。
黒い鉢の中の芽は、薄い光を抱えていた。
白い茎に、浅い空色がひと筋通っている。
ユラの瞳の色に似ている、と胸のどこかが勝手に言う。
土の表面に落ちた影が、今朝はいつもより濃い。
昼になれば、影は細く長く伸びるだろう。
――昼の影で会おう。
彼女の声が、土の湿りよりも奥から浮いてきては沈む。
門を開けると、通りを小さな靴音が駆けていく。
パンの匂い、湯気、柑橘。
名前を呼ぶはずの口が、呼び方を忘れていた。
“おはよう”より先に出るべき近所の名が、舌の先で空回りする。
手を上げると、少年は笑って、もう行ってしまった。
笑いの形だけが残り、そこに貼るべき音があとから追いかける。
棚の手前の空白に、指先で浅い円を描く。
円は光に弱い。描くそばから、輪郭が薄くなる。
薄くなる前に、指の腹に粉の記憶を移しておく。
粉の白は、花びらの白とよく似ている。
夜に落ちて、朝へ渡された色。
午前の仕事は、音の少ない日ほど捗る。
瓶を布で拭いて、ラベルの端を押さえ、篭の底を点検する。
指が覚えている手順に、頭はついていかない。
「忘れた」という言葉を選びたくない。
「手順が先に行く」と言えば、庭は頷いてくれる。
カラン、と門のベルが鳴った。
小さな女の子の手を引いた若い母親が立っていた。
「眠りが浅くて」と母親は笑う。笑い方に骨の形が見える。
灯真は棚の「雨上がりの匂い」を手に取りかけて、やめた。
手が別の一本へ伸びていく。
白い瓶――ラベルは空白。
栓を軽く傾けると、中で音がした。濡れていないのに、雫が落ちるみたいな音。
「こっちが、いいと思います」
自分で言って、自分の声を聞き直す。
母親は頷き、子どもは瓶を両手で抱えた。
「いくらでしたっけ?」
口が数字を出そうとして、空気を噛んだ。
棚の端の小さな木札――前任者が留めた料金表の角に目をやる。
「三五〇」の「五」が抜けて「三〇」になっている。
三か、三百か、三十か。
灯真は一瞬迷って、机の引き出しの中から茶色の小さな紙袋を出した。
「今日は三百で」
母親は少し驚いて笑い、受け取った。
「助かります」
門の外に出る前、子どもが瓶に頬を寄せた。
頬の丸さが光を集め、瓶の内側で小さな朝がひとつ増えた気がした。
静かになって、庭の色が落ち着く。
黒板の「朝」の一画が、さらに薄くなる。
書き足すのをやめた。
書こうとして消える線を追うより、消えない呼吸を残すほうが、今日はいい。
鉢の芽が、ひとつ背伸びをした。
昼。
影がきれいに伸びる。
瓶の列が指す細い影の先に、黒い鉢の影が置かれる。
影は水よりも静かで、風よりも重い。
その影の中に足を入れると、夜の密度が膝まで満ちる。
ユラが言ったとおりだ。昼の中に、夜をつくる。
影の中央に立つと、耳の高さで音が変わる。
庭の音が遠のき、瓶の呼吸だけが近くなる。
土の匂いが少し濃く、柑橘の甘さが遠くなり、代わりにガラスの冷たさが喉を滑る。
目を凝らす。
影の濃いところで、白い椅子の輪郭が一瞬だけ差し込み、すぐに抜ける。
もう一歩、影の深い方へ。
「――灯真」
呼ばれた。
振り向く前に、声の重さが肩に置かれる。
振り向くと、ユラがいた。
白い服の裾が、影の水面に揺れている。
輪郭は今日、はっきりしていた。
はっきりしているのに、触れようとすると、触れる直前に少しやわらかくなる。
「消えたね、いくつか」
ユラが指先で空気に文字を描く。
見えない線。
その見えない線の通ったあとだけ、昼の光が微かに折れる。
「黒板も、ラベルも」
灯真は頷く。
「料金の数字まで、一本消えた」
ユラは笑った。
「それ、ちょっと面白い」
「困るけど」
「困るけど、面白い。
困ることと面白いことは、ときどき同じ影を持つの」
ユラは影の縁に指を落とした。
影が浅く波打つ。
波紋の中心から、ひとつの文字が浮かんだ。
それは「ユ」の形をしていて、すぐにゆるく崩れた。
崩れた先で、別の文字の骨組みが一瞬だけ見えかけ、また沈む。
「文字はね、水に弱いけど、影に残るよ」
「影に?」
「うん。
光は形を見せるけど、影は形の跡を覚える。
跡のほうが、長く残る」
ユラは灯真の手を取って、影の地面にそっと押し当てた。
掌の熱が、影に沈む。
沈む熱に吸い寄せられて、地面の黒が少しだけ浅くなる。
掌を上げると、手のひらの上に黒が薄く残った。
黒は形を持っていない。
けれど、形になる前の手ごたえが、皮膚にある。
「ここに、言葉を書いて」
ユラの指が、灯真の掌に触れる。
指先でなぞられた場所に、ひらがなが並んだ。
――き
――み
――の
――あ
――さ
――に
声にしてはいけない気がして、灯真は唇を閉じた。
掌の上の陰文字は、昼の光では読めない。
影にかざすと、浮かんで来る。
光に出すと、消える。
「消える文字だ」
灯真が言うと、ユラは小さく頷いた。
「消えるから、残るの」
「どういう意味」
「読めないとき、人は触ろうとする。
触ると、形じゃなくて温度が残る。
温度は、なかなか忘れない」
ユラは灯真の手を両手で包んだ。
手の中で、言葉が小さく脈打つ。
影の中の鼓動は、光よりゆっくり。
ゆっくりだから、覚えやすい。
風が庭を横切り、二人の輪郭を薄く撫でた。
影がほんの少し痩せ、また元に戻る。
痩せた瞬間、ユラの髪に留まっていた花びらが、肩へ落ちた。
落ちた花びらは、影の上で止まり、しばらくしてからゆっくり沈んだ。
沈む前、表面に小さな点がひとつ光った。
灯真は、その点の形を知っている気がした。
知っているのに、すぐに言えない。
「君は、昼のあいだ、どこにいる」
「あなたの庭の、影の薄い方」
ユラは足元を見て、笑った。
「薄い影にも、座れるの。
ただ、すぐに立たないと溶けてしまう」
「溶けたら?」
「別の影に移るだけ」
ユラは肩をすくめた。
「影はつながってる。
昼の下に、目に見えない夜の道がずっと伸びてる」
灯真は黒い鉢の方に目をやる。
芽の影が少し伸び、椅子の脚のように地面に四角を落とした。
影の角は丸く、角でないところが角の役目を果たしている。
椅子がないのに、座れる気がした。
「座ってみる?」
ユラが尋ねたので、灯真はうなずいた。
影の四角に腰を下ろすと、背中が少しだけ支えられる。
支えられたところに、記憶の薄い面が触れる。
薄い面はやわらかい。
やわらかいものの上に、思い出は乗りやすい。
乗った重さで、やわらかさが微かに沈む。
沈んだ分だけ、今日の昼が深くなる。
「ねえ、灯真」
ユラが影の向こうから呼ぶ。
「昨夜、あなた、何を描こうとしてた?」
灯真は掌の陰文字を見た。
黒板の前に立った自分が、最初の一画で止まったところを思い出す。
「……朝」
「一画で止まった?」
頷くと、ユラは目を細めた。
「じゃあ、次は二画目から書けばいい」
「二画目から?」
「うん。
順番のない文字は、順番を変えると、残り方が変わる」
ユラは影にしゃがみ、指で見えない線を二度、三度なぞった。
なぞるたび、薄い風が起こり、庭の匂いがわずかに入れ替わる。
匂いの入れ替わり方が、なぜか心地よい。
入れ替わるたび、頭の中の空白が整う。
空白が整うと、何かがそこへ座れる。
「行くね」
ユラは立ち上がった。
「今度は、影じゃないところで会おう」
「どこ」
「瓶の中」
ユラは笑った。
「昼の瓶は、少しだけ夜になる」
白い服の裾が影から抜け、光にほどけた。
彼女の輪郭が明るいほうへ溶ける。
溶ける前、一瞬だけ、光の中にユラの名の最後の音が浮かんだ。
――ラ。
灯真が息を吸うと、その音は胸の奥に移り、皮膚の裏で小さく鳴った。
影から一歩出ると、庭の温度が戻った。
黒板の前に立つ。
チョークの欠片は、さっきより短い。
一画目を避けて、二画目から書き始める。
形は不格好だが、線は残った。
線が残るだけで、庭の呼吸が整う。
整った呼吸に合わせて、瓶の列が微かに鳴る。
午後、老人が来た。
先日、橙の瓶を抱いた腕と同じ形の影が門に差し込む。
「また、一本」
灯真は棚の前に立つ。
指が迷わず、空白の隣の白い瓶を取る。
ラベルには、今朝なくした「み」が戻っている。
老人は笑った。
「字が、戻ったね」
「ええ。昼の影で、少し」
灯真が言うと、老人は頷いた。
「影も使うと、庭は長持ちする」
会計の木札を見ると、「三五〇」の「五」が帰ってきていた。
木札に触れると、木が指を覚えているみたいにほんの少し温かい。
「三百五十円です」
言葉にした途端、庭のどこかで小さく音がして、黒い鉢の芽がわずかに揺れた。
ユラの影のほうを見たが、昼はもう傾いている。
影は細く、椅子の四角は曖昧になった。
曖昧な四角も、座れないわけではない。
座らずに、立ったまま呼吸を合わせることもできる。
夕方、ラベル書きの時間。
ペン先を紙に置く。
線が出る。
出た線の上に、別の線が重なる。
重なったところが濃く、その濃さを指の腹で押さえる。
押さえたところの紙が、脈を打った。
脈は庭の脈と一度だけ揃い、すぐに離れた。
離れた脈の隙間に、音のない音がひとつ落ちる。
胸ポケットの内側で、花びらが動いた。
取り出すと、薄く、軽く、温かい。
表面に、朝のような色の影がさす。
影の中に、霞んだ字が浮かんだ。
――ユ
もうひとつ、遅れて。
――ラ
二つの音が、花びらの両端で息をしている。
真ん中には何もない。
何もない場所が、言葉の居場所の形をしている。
灯真は花びらを瓶にそっと重ね、栓を半分だけ閉めた。
半分だけ閉めると、瓶の中に昼の影が少し残る。
影の密度の上に、文字は薄く、長く貼りつく。
読みたいときは、瓶を影に傾ける。
読めないときは、胸に戻す。
読めないまま残すことで、温度が育つ。
夜が降りてきて、庭全体が一本の線になった。
線は、歩幅に合う。
歩幅に合わせて、灯真は庭を一巡りする。
敷石の「7」と「8」のあいだの線――昨夜からの細い光が、かろうじて残っていた。
線の上を跨ぐと、思い出せない名前が一つ、形だけ戻った。
音はまだだ。
形だけ戻った名前は、しばらく形のまま庭の端に座っていた。
黒板の前に戻る。
白い粉で、短く書く。
「空白」
二文字が、今夜は最後まで残った。
残った二文字を、指の腹で軽く押す。
押すと、白が粉から光に変わる。
光はすぐに消え、消えた場所だけ、手のひらの温度が深くなる。
灯真は掌の陰文字を、影にかざして見た。
――君の朝に
読める。
読むと、文字はまた消える。
消えるたびに、胸の奥にこの言葉の形が深く写る。
写った場所が、今夜の終わりの目印になる。
鉢の芽が、布の擦れる音ほどの静かさで揺れた。
揺れが止まる前、土の中で小さな音がした。
――コン。
最初のときよりも少し深い音。
眠りは深く、目覚めは近い。
灯真は瓶の列をひとつずつ撫で、門の閂をゆっくり下ろした。
庭の中に、音のならない椅子がある。
座らずに立ち、呼吸だけ合わせる。
合わせた呼吸の隙間に、言えなかった言葉の居場所がひとつ増えた。
――また、昼の影で。
誰の声でもない声が、風の中でいった。
風は答えず、瓶が代わりに短く鳴いた。
鳴いた音は、夜の奥へゆっくり吸い込まれて、
明日の白に、薄い輪郭を置いていった。




