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夢拾いの庭  作者: テレン


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3/10

夢の苗を植える

朝、瓶の列の真ん中でひとつだけ音がした。

小さく、何度も呼吸するみたいに。

灯真は顔を近づける。

白い瓶の中で、光がしずかに脈を打っている。

昨日、ユラの名が浮かんだ瓶だった。


栓の内側に、薄い膜のような模様。

それは花の蕾に似ている。

夢が種になることは滅多にない。

滅多にないけれど、ないとは言い切れない。


棚の端の古い記録帳をめくると、前任者の文字がある。

「瓶に根が出た夜、植えよ」

それだけ。理由も手順もない。

けれど、灯真の手は自然に土を掬っていた。



庭の中央にある黒い鉢を選ぶ。

まだ一度も使ったことのない、夜明けの水を溜める鉢だ。

瓶の栓をそっと外す。

白い光が風に溶け、空気の形を変える。

その中から、一枚の花びらがふわりと落ちた。

濡れてもいないのに、土に触れた瞬間、小さな音がした。


――コン。


それは種が眠りにつく音だった。


灯真はしゃがみ、指で土を軽く押す。

その指先が震える。

夢を植えるたび、心のどこかが静かに削られていく。

代わりに、誰かの朝がそこに芽吹く。

そんな感覚が、指の温度の奥に残る。


「また会えるの?」

独り言が風に紛れた。


応える声はない。

けれど風の中に、誰かの息づかいが混ざった気がする。


――おはよう。


囁くように、またあの言葉が降りた。

顔を上げると、黒い鉢の上に白い影が立っていた。

ユラだった。

昨日より輪郭がはっきりしている。


「起きたんだね」


ユラは頷く。

足元の土が淡い光を帯びている。

光がまるで彼女の影から伸びているように見えた。


「夢を植えたの」


「うん、感じた」


ユラはしゃがみこみ、手のひらで土を撫でた。

指がすり抜け、土の中の光を掬う。


「夢はね、未来を探して根を張るの。

 だから、誰かが思い出すまで消えない」


灯真はその言葉を反芻した。

未来を探して根を張る。

つまり、まだ“生まれていない誰か”のために夢が存在する。


「その“誰か”は君?」


ユラは笑った。

「かもしれない。

 でも、“かもしれない”は、今の私の形なの」


光が彼女の頬に反射して、まぶたの端に薄い影を作った。

影の中に、ひとつの文字が浮かんだ。


――ユ。


灯真が目を凝らすと、文字はすぐに消えた。


「夢を拾うと、少しだけ記憶が減るんだ」

灯真が言った。

「今朝、パン屋の香りを嗅いで、

 いつも通りだと思ったのに、“いつも”がどんな味だったか出てこなかった」


ユラは小さく頷く。

「夢は、記憶の余白で育つから。

 余白がなくなると、夢は息ができなくなるの」


「余白……」


「思い出すことよりも、“残しておく”ことのほうが難しいんだよ」


ユラは土の上に指で小さな線を描いた。

曲がりながら伸びる線が、やがて花の茎のような形になった。


「ねえ、灯真。

 あなたの庭の空白、あれはとてもいい形をしてる」


「空白?」


「棚の一番手前。

 そこ、まだ置かないでね」


「どうして?」


「そこは、“わたしの朝”になる場所だから」


灯真は言葉を失う。

その言葉がまるで合図のように、庭の風が変わった。

土の匂いに、遠くの柑橘の香りが混ざる。

いつもより早い時間の風だ。


ユラは立ち上がり、光の中に半歩入った。

輪郭が一瞬透け、透けた部分が空気の揺らぎに溶ける。


「もう行くのか」


「ううん。行くんじゃなくて、戻るの。

 朝は、夢を思い出す前に消える。

 でも、消えた夢ほど強く残る」


「それじゃ、また夜に?」


「違う。

 ――次は、昼の影で会おう」


昼?

灯真は首をかしげた。

夢拾い人にとって、昼は“仕事の終わり”だ。

昼の光の中に夢を見ることなど、これまで一度もなかった。


「どうやって?」


ユラは微笑んだ。

「植えた夢が咲いたら、影ができる。

 影の中は夜と同じ。

 だから、昼の中に夜をつくっておいて」


言葉を終えると、ユラの姿はゆっくりと薄れていった。

残ったのは、土に沈む白い光。

その光の中心で、小さな芽が息をした。



昼。

庭の鉢の中に、白い芽が出ている。

朝露を吸って、透明に光っていた。

灯真はしゃがみ込み、指でそっと支える。

その茎の中に、どこか見覚えのある色が流れている。


橙でもなく、白でもなく、淡い空色。


ユラの瞳の色だった。


灯真はそのまま、指先で土をならした。

指に小さな痛みが走る。

見てみると、爪の隙間に細い線が入っている。

まるで、文字のように。


――ラ。


胸が一瞬、強く脈打った。


ユラの名の、最後の音。

灯真は指を見つめたまま動けなかった。

光がその指を透かして、線を淡く消していく。


庭の上に、風が通った。

風は夜と違って、少し乾いていた。

瓶の列が一斉に微かに鳴り、

黒板の粉が、ひと粒、風に舞い上がる。


灯真は息を吸い込み、

胸の奥でその粉がゆっくりと沈むのを感じた。


――君の朝に。


言葉にならない合図が、

再び、胸の内で小さく灯った。


鉢の中で、夢の苗がそっと揺れた。

風の方向を知っているように。

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