夢の苗を植える
朝、瓶の列の真ん中でひとつだけ音がした。
小さく、何度も呼吸するみたいに。
灯真は顔を近づける。
白い瓶の中で、光がしずかに脈を打っている。
昨日、ユラの名が浮かんだ瓶だった。
栓の内側に、薄い膜のような模様。
それは花の蕾に似ている。
夢が種になることは滅多にない。
滅多にないけれど、ないとは言い切れない。
棚の端の古い記録帳をめくると、前任者の文字がある。
「瓶に根が出た夜、植えよ」
それだけ。理由も手順もない。
けれど、灯真の手は自然に土を掬っていた。
⸻
庭の中央にある黒い鉢を選ぶ。
まだ一度も使ったことのない、夜明けの水を溜める鉢だ。
瓶の栓をそっと外す。
白い光が風に溶け、空気の形を変える。
その中から、一枚の花びらがふわりと落ちた。
濡れてもいないのに、土に触れた瞬間、小さな音がした。
――コン。
それは種が眠りにつく音だった。
灯真はしゃがみ、指で土を軽く押す。
その指先が震える。
夢を植えるたび、心のどこかが静かに削られていく。
代わりに、誰かの朝がそこに芽吹く。
そんな感覚が、指の温度の奥に残る。
「また会えるの?」
独り言が風に紛れた。
応える声はない。
けれど風の中に、誰かの息づかいが混ざった気がする。
――おはよう。
囁くように、またあの言葉が降りた。
顔を上げると、黒い鉢の上に白い影が立っていた。
ユラだった。
昨日より輪郭がはっきりしている。
「起きたんだね」
ユラは頷く。
足元の土が淡い光を帯びている。
光がまるで彼女の影から伸びているように見えた。
「夢を植えたの」
「うん、感じた」
ユラはしゃがみこみ、手のひらで土を撫でた。
指がすり抜け、土の中の光を掬う。
「夢はね、未来を探して根を張るの。
だから、誰かが思い出すまで消えない」
灯真はその言葉を反芻した。
未来を探して根を張る。
つまり、まだ“生まれていない誰か”のために夢が存在する。
「その“誰か”は君?」
ユラは笑った。
「かもしれない。
でも、“かもしれない”は、今の私の形なの」
光が彼女の頬に反射して、まぶたの端に薄い影を作った。
影の中に、ひとつの文字が浮かんだ。
――ユ。
灯真が目を凝らすと、文字はすぐに消えた。
「夢を拾うと、少しだけ記憶が減るんだ」
灯真が言った。
「今朝、パン屋の香りを嗅いで、
いつも通りだと思ったのに、“いつも”がどんな味だったか出てこなかった」
ユラは小さく頷く。
「夢は、記憶の余白で育つから。
余白がなくなると、夢は息ができなくなるの」
「余白……」
「思い出すことよりも、“残しておく”ことのほうが難しいんだよ」
ユラは土の上に指で小さな線を描いた。
曲がりながら伸びる線が、やがて花の茎のような形になった。
「ねえ、灯真。
あなたの庭の空白、あれはとてもいい形をしてる」
「空白?」
「棚の一番手前。
そこ、まだ置かないでね」
「どうして?」
「そこは、“わたしの朝”になる場所だから」
灯真は言葉を失う。
その言葉がまるで合図のように、庭の風が変わった。
土の匂いに、遠くの柑橘の香りが混ざる。
いつもより早い時間の風だ。
ユラは立ち上がり、光の中に半歩入った。
輪郭が一瞬透け、透けた部分が空気の揺らぎに溶ける。
「もう行くのか」
「ううん。行くんじゃなくて、戻るの。
朝は、夢を思い出す前に消える。
でも、消えた夢ほど強く残る」
「それじゃ、また夜に?」
「違う。
――次は、昼の影で会おう」
昼?
灯真は首をかしげた。
夢拾い人にとって、昼は“仕事の終わり”だ。
昼の光の中に夢を見ることなど、これまで一度もなかった。
「どうやって?」
ユラは微笑んだ。
「植えた夢が咲いたら、影ができる。
影の中は夜と同じ。
だから、昼の中に夜をつくっておいて」
言葉を終えると、ユラの姿はゆっくりと薄れていった。
残ったのは、土に沈む白い光。
その光の中心で、小さな芽が息をした。
⸻
昼。
庭の鉢の中に、白い芽が出ている。
朝露を吸って、透明に光っていた。
灯真はしゃがみ込み、指でそっと支える。
その茎の中に、どこか見覚えのある色が流れている。
橙でもなく、白でもなく、淡い空色。
ユラの瞳の色だった。
灯真はそのまま、指先で土をならした。
指に小さな痛みが走る。
見てみると、爪の隙間に細い線が入っている。
まるで、文字のように。
――ラ。
胸が一瞬、強く脈打った。
ユラの名の、最後の音。
灯真は指を見つめたまま動けなかった。
光がその指を透かして、線を淡く消していく。
庭の上に、風が通った。
風は夜と違って、少し乾いていた。
瓶の列が一斉に微かに鳴り、
黒板の粉が、ひと粒、風に舞い上がる。
灯真は息を吸い込み、
胸の奥でその粉がゆっくりと沈むのを感じた。
――君の朝に。
言葉にならない合図が、
再び、胸の内で小さく灯った。
鉢の中で、夢の苗がそっと揺れた。
風の方向を知っているように。




