君の朝に、渡す
朝は、静かに溜まっていく水みたいだった。
黒板の「朝」は崩れず、白の粉は指先の熱でやわらかく溶けた。
棚の手前――長く空けてきた空白は、もう空白のままではなかった。
そこに置かれた黒い瓶が、呼吸をしている。
“短く、長く、短く”。
拍子の合間に、誰かの笑いが微かに混じる。
昨日までは波の音だった。
今朝は、ただの息だ。
鉢の花は、一輪だけ咲いた。
空色の花弁の内側を走る金の線が、光に触れて言葉になる。
「おはよう」。
声にはならないのに、確かに朝の温度で胸を押した。
花の影は椅子の脚に似ている。
座れない椅子。
座らずに支えてくれる椅子。
そのそばに立って、灯真は深く息を吸う。
息を吐くと、庭の粉塵が一度だけ舞い、すぐに落ち着いた。
門の向こうから、小さな靴音が近づく。
初めて聞くリズム。
“短く、長く、短く”。
けれど、それは波ではない。
地面を選んで踏む、ためらいを含んだ歩き方。
灯真は門を半分だけ開いた。
朝の光が細長く差して、敷石の「7」と「8」の間に一本の線を置く。
その線の上で、足音が止まる。
「ここが、夢を売ってるところ?」
声は高くも低くもない。
眠りの端でつくられた、やわらかい声。
立っていたのは、十代の終わりくらいの少女だった。
手には紙袋。
紙袋の底に、たぶん夜の本。
目はよく眠れない人の目をしている。
眠れていないのに、眠りを怖がっている目。
「売っているというより、渡している」
灯真は言った。
「朝へ届くように、薄く包んで」
少女は頷き、庭の中へ一歩。
影の薄いところを選んで踏む。
瓶の列に視線が滑り、黒い瓶の前で止まった。
「その一本は……」
彼女が言いかけたところで、黒い瓶が短く鳴る。
呼吸が一度、深く沈んだ。
灯真は小さく首を振る。
「これは、まだ渡せない。
朝の名前を書いていないから」
「朝に名前って、あるの?」
「呼び方の数だけ、ある」
少女はそれ以上訊かず、棚の中央から白い瓶をひとつ選んだ。
ラベルには短く「目覚めの前」。
指先で瓶の肩を撫で、彼女は小さく笑う。
笑いに骨の影がない。
笑うことを、まだ身体が思い出していない笑い方だ。
「おいくらですか」
「三百五十円です」
木札の数字は、今朝も欠けなかった。
少女は財布からしわのない千円札を出し、受け取った釣りを丁寧に紙で包む。
包む手つきが、だれかに教わったままの正確さで、灯真はその癖に既視感を持った。
白い瓶を渡すと、彼女は胸に抱き、門のほうへ二歩だけ進んでから振り返る。
「ここ、朝は何時から開いてますか」
「庭が起きたら」
「庭が起きる……」
少女は黒板の「朝」を見た。
白の中の小さな点に気づく。
“短く、長く、短く”。
彼女の指先が空で同じ間をなぞった。
灯真が息を飲む。
指の節の選び方が、ユラに似ていた。
似ているのに、別の人の動き。
“似る”のではなく、“継ぐ”。
「また、来てもいいですか」
「もちろん」
「じゃあ――」
少女は言葉をため、胸の前で瓶を少しだけ上げた。
「君の朝に」
灯真は返す。
「君の朝に」
言葉が交わった瞬間、黒い瓶がはっきりと鳴った。
庭の空気が一度深く沈み、すぐに平らに戻る。
少女は会釈して、通りへ出た。
足音が“短く、長く、短く”の拍で遠ざかっていく。
その拍子と同じ速さで、灯真の胸の奥の痛みは淡くほどけた。
⸻
午前の庭は、仕事の音が少ない。
布を絞る音、ラベルの角を押さえる音、黒板消しが粉を抱き込む音。
音が少ないほど、呼吸はよく進む。
鉢の花びらが、陽に透けて薄くなった。
「おはよう」の金の線は、昼になると読めなくなる。
読めないものは、触って確かめる。
触ると、温度だけが残る。
温度は、長く残って、言葉の代わりをする。
黒い瓶は、棚の手前で静かだった。
静かさは“終わり”ではない。
“渡す前の深呼吸”。
栓に指を添え、開けない。
栓の向こうに、もう波はない。
呼吸だけがある。
それは、ユラのものだけではない。
灯真の、そして、まだ来ていない誰かの。
門のベルが鳴る。
二人連れの男女。
引っ越して来たばかりだという。
夜が浅いとき用に、と一本。
灯真は瓶を三つ立て、二人の目の動く速さを見て一本を選ぶ。
「雨上がり」「遠い声」「白い枕」。
彼らは「白い枕」を取った。
値段を言い、紙袋に包み、見送る。
通りには、雲が薄く流れている。
流れ方が海に似ている。
庭の土が、その動きを知っている。
昼の影は椅子の脚になる。
座らずに、背筋の角度だけを預ける。
預けると、言葉が落ちる場所が決まる。
灯真は影の縁に立ち、黒板の前でチョークを持った。
「朝」の字の右肩に、小さな点を一つ。
“短く、長く、短く”のうちの、最後の短い点だ。
点は粉で、粉はすぐに落ちる。
落ちる前に、胸の内側に写しておく。
写った点は、夜のための灯になる。
ふと、風が変わる。
庭の奥の、椅子のない座面がひとつ深く沈む。
沈むときの温度は、懐かしさの温度だ。
灯真は振り向く。
ユラがいた。
白でも灰でもない、淡い朝の色の衣。
輪郭は完全で、影を持ち、土に重さを与えている。
けれど、彼女はもう“夢”の密度ではなかった。
現に近い、けれど、現より少しだけ軽い。
軽さが、風の面影を連れてくる。
「おかえり」
灯真が言う。
ユラは笑った。
「ただいま」
声の重さが、昨日と違う。
“戻る”ではなく“通る”。
通る声。
通り過ぎても、温度だけ残る。
「どうやって?」
灯真が問うと、ユラは花を顎で示した。
「咲いたから。
朝が形になれば、私は“通れる”」
「通る先は?」
「誰かの胸の内側」
ユラは灯真の胸に指を置く。
「ここ。
もう、道ができてる」
ふたりで鉢のそばに立つ。
花びらの金の線は、昼の光に溶けて読めない。
それでも、声は聴こえる。
“おはよう”。
幾度でも。
季節が変わっても。
声は、言葉の前で生まれる。
生まれた場所は、忘れにくい。
「渡すんだね」
ユラが黒い瓶を見る。
灯真は頷く。
「今日は、渡す」
「誰に?」
「まだ、来ていない誰かに」
灯真は笑った。
「ここでは、それで足りる」
ユラは瓶の栓に触れず、瓶の肩を軽く二度叩いた。
コト、コト。
朝が、瓶の内側で背伸びをする。
“短く、長く、短く”。
最後の短い拍が、黒板の点と重なる。
「灯真」
ユラが近づく。
「ありがとう」
「何に?」
「拾ってくれて。
植えてくれて。
残してくれて。
そして、渡してくれることに」
灯真は首を振った。
「ありがとうは、こっちの台詞だ」
「じゃあ、半分ずつ」
ユラがいたずらみたいに言う。
言葉を半分ずつ持てば、重さは軽くなる。
軽くなった分だけ、長く残る。
「君は、これからどうする」
灯真の問に、ユラは庭を見渡す。
瓶、黒板、影、椅子のない座面。
花。
空白。
「私は“朝の道”になる。
あなたが渡す言葉に、少しだけ風を混ぜる」
「風?」
「覚えやすいように。
忘れやすいように」
ユラは笑う。
「朝は、覚えすぎても、忘れすぎても、うまくはじまらないから」
午後、雲が切れて陽が強くなった。
庭のガラスが光を散らし、瓶の列に白い粒が踊る。
ユラは影の縁から半歩下がり、光に指を通した。
指の骨がすこし透ける。
透ける場所は、弱くない。
弱く見えるだけで、実はいちばん根の近くにある。
「行く?」
灯真が問うと、ユラは頷いた。
「うん。
“君の朝に”って、もう一度言ってから」
灯真は黒い瓶を持ち、胸の高さで両手に支えた。
栓は閉じている。
閉じたまま、言葉を落とす。
「――君の朝に」
瓶の内側で、光がゆっくり立ち上がる。
波ではない。
息。
息が、形のない花粉みたいに瓶の口へ集まる。
栓を、ほんの少しだけ回す。
空気がわずかに入れ替わる。
入れ替わりの瞬間、庭の匂いが一度だけ変わった。
土と、小麦と、柑橘。
それから、知らない家の匂い。
これから瓶が運ばれていく先の匂い。
門のベルが鳴る。
朝より少し遅い、さっきの少女だ。
白い瓶を胸に抱え、息が整っている。
「ごめんなさい、もう一本……。
できれば、最初の朝が入ってるやつ」
灯真は微笑んだ。
「それなら、ここに」
黒い瓶を両手で包み、少女へ差し出す。
少女の指が触れた瞬間、瓶が小さく鳴る。
“短く、長く、短く”。
少女は目を閉じ、うなずいた。
「この拍子、知ってる」
「覚えていて」
「忘れない?」
「忘れても、大丈夫」
灯真は言う。
「温度が残るから」
会計を終え、少女は門へ向かった。
敷石の「7」と「8」の間の光の線をまたいで、振り返る。
言うべき言葉を探すみたいに唇が動き――
それでも、彼女は何も言わなかった。
代わりに、瓶を胸に強く抱いて、一度だけ会釈した。
光が揺れ、黒板の点がほんの少しだけ大きくなる。
彼女の背が通りの角で見えなくなるまで、庭は息を潜めていた。
見えなくなってから、ようやく、瓶の棚が短く鳴る。
「届いた」という音だった。
ユラが肩を落として笑った。
「いい渡し方」
「練習したから」
「だれに?」
「君に」
「ずるい」
「半分ずつ、だろ」
ふたりで、同じ場所を見て笑う。
笑いの重さは、朝の重さに似ている。
軽いと落とす。
重すぎると持てない。
ちょうどいい重さに、指を添える。
夕方。
影が長くなり、椅子の脚も長くなる。
長い脚は、座面をまだ持たない。
座面を持たない椅子は、背中だけ支える。
支えられた背中で、灯真は黒板の前に立つ。
白い粉で、短く書く。
「引継」
二文字の後、点をひとつ。
点は“短く、長く、短く”の最初の短い点。
点は、合図だ。
「引き継ぐの?」
ユラが問う。
灯真は頷く。
「いずれ。
でも、今夜じゃない」
「今夜じゃないほうが、いい」
ユラは鉢の花を撫でる。
「咲いたばかりは、誰かの手の温度をもう少し覚えていたいから」
夜が来る前に、一度風が強く吹いた。
庭の粉塵が光を抱え、瓶の肩で小さく踊る。
踊りはすぐ止まり、土の匂いが落ち着く。
灯真は棚の手前の空白を――もう空白ではない場所を、指で確かめた。
黒い瓶の隣に、細い空きがある。
その狭い空きが、息を吸う場所になる。
空きがある限り、言葉はいつでも置ける。
「灯真」
ユラが呼ぶ。
「ひとつ、頼みがある」
「何でも」
「黒板の“朝”、明日からは、君が書かなくてもいいようにしておいて」
「どうやって」
「書き方を、誰かの癖に渡す」
ユラは黒板消しを持ち上げ、粉の白を掌に移した。
掌で粉が光り、すぐに消える。
消えた場所の皮膚が温かい。
「癖は、いちばん長く残る。
名前より、手順より、ことばより」
灯真は頷いた。
「分かる。
僕も、前の人の癖で、ここまで来た」
「じゃあ、あとはあなたの癖を置いていく番」
ユラが笑う。
「“君の朝に”という癖を」
夜。
門の閂を降ろす前に、空を見た。
星は少ない。
雲は薄い。
薄い雲の向こうで、光がまだ眠らずに動いている。
動く光は、誰かの目覚めの合図だ。
合図は遠いのに、胸の奥でよく響く。
響く場所は、もう痛くない。
痛みは、形をやめた。
形だったものだけが、静かに残る。
黒板の前へ戻る。
白で、短く書く。
「了」
二画。
最後に、点をひとつ。
“短く、長く、短く”の、最後の短い点。
点は小さく、けれど濃い。
濃さは、明日の薄さを支える。
灯真は鉢の花に指を添え、囁く。
「おやすみ」
花は応えず、香りだけ置いて眠る。
香りは朝に強くなる。
強くなる前の静けさの中で、ユラが一歩下がる。
影に半分入り、光に半分残る。
「また来る?」
灯真が問う。
「ううん。いつも、いる」
ユラは胸を軽く叩く。
「ここに。
ここが、道だから」
灯真は笑い、同じ場所を軽く叩いた。
温度が合う。
合うと、世界が少し前へ出る。
門の閂を降ろす。
夜の庭は、瓶の数だけ静かだ。
黒い瓶の中で、呼吸が深くなり、やがて安定する。
“短く、長く、短く”。
その合間に、遠い足音がひとつ生まれる。
まだ見ぬ誰かが、光の細い朝を選んで歩いてくる足音。
灯真は目を閉じ、言葉を胸の内で転がした。
――君の朝に。
言うたび、鍵が正しい場所に戻る。
戻った鍵は、ドアを叩かない。
叩かなくても、開いている。
開いているから、渡せる。
渡せるから、残る。
残るものは、温度。
温度は、忘れにくい。
翌朝。
黒板の「朝」は、灯真が書かなくても、そこにあった。
粉の形が、知らない指の癖でわずかに傾いている。
門の向こうで、靴音。
“短く、長く、短く”。
昨日の少女ではない。
別の誰か。
知らない足。
知らない呼吸。
けれど、呼ばれ方は同じだ。
灯真は門を開け、細長い光を敷石に落とした。
棚の手前――空きの隣に、黒い瓶は静かに立っている。
彼は笑って、言った。
「――ようこそ、君の朝に」
庭が、静かに息をした。
世界が、もう一度、動き出した。




