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夢拾いの庭  作者: テレン


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10/10

君の朝に、渡す

朝は、静かに溜まっていく水みたいだった。

黒板の「朝」は崩れず、白の粉は指先の熱でやわらかく溶けた。

棚の手前――長く空けてきた空白は、もう空白のままではなかった。

そこに置かれた黒い瓶が、呼吸をしている。

“短く、長く、短く”。

拍子の合間に、誰かの笑いが微かに混じる。

昨日までは波の音だった。

今朝は、ただの息だ。


鉢の花は、一輪だけ咲いた。

空色の花弁の内側を走る金の線が、光に触れて言葉になる。

「おはよう」。

声にはならないのに、確かに朝の温度で胸を押した。

花の影は椅子の脚に似ている。

座れない椅子。

座らずに支えてくれる椅子。

そのそばに立って、灯真は深く息を吸う。

息を吐くと、庭の粉塵が一度だけ舞い、すぐに落ち着いた。


門の向こうから、小さな靴音が近づく。

初めて聞くリズム。

“短く、長く、短く”。

けれど、それは波ではない。

地面を選んで踏む、ためらいを含んだ歩き方。

灯真は門を半分だけ開いた。

朝の光が細長く差して、敷石の「7」と「8」の間に一本の線を置く。

その線の上で、足音が止まる。


「ここが、夢を売ってるところ?」


声は高くも低くもない。

眠りの端でつくられた、やわらかい声。

立っていたのは、十代の終わりくらいの少女だった。

手には紙袋。

紙袋の底に、たぶん夜の本。

目はよく眠れない人の目をしている。

眠れていないのに、眠りを怖がっている目。


「売っているというより、渡している」

灯真は言った。

「朝へ届くように、薄く包んで」


少女は頷き、庭の中へ一歩。

影の薄いところを選んで踏む。

瓶の列に視線が滑り、黒い瓶の前で止まった。


「その一本は……」

彼女が言いかけたところで、黒い瓶が短く鳴る。

呼吸が一度、深く沈んだ。

灯真は小さく首を振る。

「これは、まだ渡せない。

 朝の名前を書いていないから」

「朝に名前って、あるの?」

「呼び方の数だけ、ある」


少女はそれ以上訊かず、棚の中央から白い瓶をひとつ選んだ。

ラベルには短く「目覚めの前」。

指先で瓶の肩を撫で、彼女は小さく笑う。

笑いに骨の影がない。

笑うことを、まだ身体が思い出していない笑い方だ。


「おいくらですか」

「三百五十円です」

木札の数字は、今朝も欠けなかった。

少女は財布からしわのない千円札を出し、受け取った釣りを丁寧に紙で包む。

包む手つきが、だれかに教わったままの正確さで、灯真はその癖に既視感を持った。

白い瓶を渡すと、彼女は胸に抱き、門のほうへ二歩だけ進んでから振り返る。


「ここ、朝は何時から開いてますか」

「庭が起きたら」

「庭が起きる……」

少女は黒板の「朝」を見た。

白の中の小さな点に気づく。

“短く、長く、短く”。

彼女の指先が空で同じ間をなぞった。

灯真が息を飲む。

指の節の選び方が、ユラに似ていた。

似ているのに、別の人の動き。

“似る”のではなく、“継ぐ”。


「また、来てもいいですか」

「もちろん」

「じゃあ――」

少女は言葉をため、胸の前で瓶を少しだけ上げた。

「君の朝に」


灯真は返す。

「君の朝に」


言葉が交わった瞬間、黒い瓶がはっきりと鳴った。

庭の空気が一度深く沈み、すぐに平らに戻る。

少女は会釈して、通りへ出た。

足音が“短く、長く、短く”の拍で遠ざかっていく。

その拍子と同じ速さで、灯真の胸の奥の痛みは淡くほどけた。



午前の庭は、仕事の音が少ない。

布を絞る音、ラベルの角を押さえる音、黒板消しが粉を抱き込む音。

音が少ないほど、呼吸はよく進む。

鉢の花びらが、陽に透けて薄くなった。

「おはよう」の金の線は、昼になると読めなくなる。

読めないものは、触って確かめる。

触ると、温度だけが残る。

温度は、長く残って、言葉の代わりをする。


黒い瓶は、棚の手前で静かだった。

静かさは“終わり”ではない。

“渡す前の深呼吸”。

栓に指を添え、開けない。

栓の向こうに、もう波はない。

呼吸だけがある。

それは、ユラのものだけではない。

灯真の、そして、まだ来ていない誰かの。


門のベルが鳴る。

二人連れの男女。

引っ越して来たばかりだという。

夜が浅いとき用に、と一本。

灯真は瓶を三つ立て、二人の目の動く速さを見て一本を選ぶ。

「雨上がり」「遠い声」「白い枕」。

彼らは「白い枕」を取った。

値段を言い、紙袋に包み、見送る。

通りには、雲が薄く流れている。

流れ方が海に似ている。

庭の土が、その動きを知っている。


昼の影は椅子の脚になる。

座らずに、背筋の角度だけを預ける。

預けると、言葉が落ちる場所が決まる。

灯真は影の縁に立ち、黒板の前でチョークを持った。

「朝」の字の右肩に、小さな点を一つ。

“短く、長く、短く”のうちの、最後の短い点だ。

点は粉で、粉はすぐに落ちる。

落ちる前に、胸の内側に写しておく。

写った点は、夜のための灯になる。


ふと、風が変わる。

庭の奥の、椅子のない座面がひとつ深く沈む。

沈むときの温度は、懐かしさの温度だ。

灯真は振り向く。


ユラがいた。


白でも灰でもない、淡い朝の色の衣。

輪郭は完全で、影を持ち、土に重さを与えている。

けれど、彼女はもう“夢”の密度ではなかった。

うつつに近い、けれど、現より少しだけ軽い。

軽さが、風の面影を連れてくる。


「おかえり」

灯真が言う。

ユラは笑った。

「ただいま」


声の重さが、昨日と違う。

“戻る”ではなく“通る”。

通る声。

通り過ぎても、温度だけ残る。


「どうやって?」

灯真が問うと、ユラは花を顎で示した。

「咲いたから。

 朝が形になれば、私は“通れる”」

「通る先は?」

「誰かの胸の内側」

ユラは灯真の胸に指を置く。

「ここ。

 もう、道ができてる」


ふたりで鉢のそばに立つ。

花びらの金の線は、昼の光に溶けて読めない。

それでも、声は聴こえる。

“おはよう”。

幾度でも。

季節が変わっても。

声は、言葉の前で生まれる。

生まれた場所は、忘れにくい。


「渡すんだね」

ユラが黒い瓶を見る。

灯真は頷く。

「今日は、渡す」

「誰に?」

「まだ、来ていない誰かに」

灯真は笑った。

「ここでは、それで足りる」


ユラは瓶の栓に触れず、瓶の肩を軽く二度叩いた。

コト、コト。

朝が、瓶の内側で背伸びをする。

“短く、長く、短く”。

最後の短い拍が、黒板の点と重なる。


「灯真」

ユラが近づく。

「ありがとう」

「何に?」

「拾ってくれて。

 植えてくれて。

 残してくれて。

 そして、渡してくれることに」

灯真は首を振った。

「ありがとうは、こっちの台詞だ」

「じゃあ、半分ずつ」

ユラがいたずらみたいに言う。

言葉を半分ずつ持てば、重さは軽くなる。

軽くなった分だけ、長く残る。


「君は、これからどうする」

灯真の問に、ユラは庭を見渡す。

瓶、黒板、影、椅子のない座面。

花。

空白。

「私は“朝の道”になる。

 あなたが渡す言葉に、少しだけ風を混ぜる」

「風?」

「覚えやすいように。

 忘れやすいように」

ユラは笑う。

「朝は、覚えすぎても、忘れすぎても、うまくはじまらないから」


午後、雲が切れて陽が強くなった。

庭のガラスが光を散らし、瓶の列に白い粒が踊る。

ユラは影の縁から半歩下がり、光に指を通した。

指の骨がすこし透ける。

透ける場所は、弱くない。

弱く見えるだけで、実はいちばん根の近くにある。


「行く?」

灯真が問うと、ユラは頷いた。

「うん。

 “君の朝に”って、もう一度言ってから」


灯真は黒い瓶を持ち、胸の高さで両手に支えた。

栓は閉じている。

閉じたまま、言葉を落とす。


「――君の朝に」


瓶の内側で、光がゆっくり立ち上がる。

波ではない。

息。

息が、形のない花粉みたいに瓶の口へ集まる。

栓を、ほんの少しだけ回す。

空気がわずかに入れ替わる。

入れ替わりの瞬間、庭の匂いが一度だけ変わった。

土と、小麦と、柑橘。

それから、知らない家の匂い。

これから瓶が運ばれていく先の匂い。


門のベルが鳴る。

朝より少し遅い、さっきの少女だ。

白い瓶を胸に抱え、息が整っている。

「ごめんなさい、もう一本……。

 できれば、最初の朝が入ってるやつ」

灯真は微笑んだ。

「それなら、ここに」

黒い瓶を両手で包み、少女へ差し出す。

少女の指が触れた瞬間、瓶が小さく鳴る。

“短く、長く、短く”。

少女は目を閉じ、うなずいた。

「この拍子、知ってる」

「覚えていて」

「忘れない?」

「忘れても、大丈夫」

灯真は言う。

「温度が残るから」


会計を終え、少女は門へ向かった。

敷石の「7」と「8」の間の光の線をまたいで、振り返る。

言うべき言葉を探すみたいに唇が動き――

それでも、彼女は何も言わなかった。

代わりに、瓶を胸に強く抱いて、一度だけ会釈した。

光が揺れ、黒板の点がほんの少しだけ大きくなる。

彼女の背が通りの角で見えなくなるまで、庭は息を潜めていた。

見えなくなってから、ようやく、瓶の棚が短く鳴る。

「届いた」という音だった。


ユラが肩を落として笑った。

「いい渡し方」

「練習したから」

「だれに?」

「君に」

「ずるい」

「半分ずつ、だろ」

ふたりで、同じ場所を見て笑う。

笑いの重さは、朝の重さに似ている。

軽いと落とす。

重すぎると持てない。

ちょうどいい重さに、指を添える。


夕方。

影が長くなり、椅子の脚も長くなる。

長い脚は、座面をまだ持たない。

座面を持たない椅子は、背中だけ支える。

支えられた背中で、灯真は黒板の前に立つ。

白い粉で、短く書く。

「引継」

二文字の後、点をひとつ。

点は“短く、長く、短く”の最初の短い点。

点は、合図だ。


「引き継ぐの?」

ユラが問う。

灯真は頷く。

「いずれ。

 でも、今夜じゃない」

「今夜じゃないほうが、いい」

ユラは鉢の花を撫でる。

「咲いたばかりは、誰かの手の温度をもう少し覚えていたいから」


夜が来る前に、一度風が強く吹いた。

庭の粉塵が光を抱え、瓶の肩で小さく踊る。

踊りはすぐ止まり、土の匂いが落ち着く。

灯真は棚の手前の空白を――もう空白ではない場所を、指で確かめた。

黒い瓶の隣に、細い空きがある。

その狭い空きが、息を吸う場所になる。

空きがある限り、言葉はいつでも置ける。


「灯真」

ユラが呼ぶ。

「ひとつ、頼みがある」

「何でも」

「黒板の“朝”、明日からは、君が書かなくてもいいようにしておいて」

「どうやって」

「書き方を、誰かの癖に渡す」

ユラは黒板消しを持ち上げ、粉の白を掌に移した。

掌で粉が光り、すぐに消える。

消えた場所の皮膚が温かい。

「癖は、いちばん長く残る。

 名前より、手順より、ことばより」

灯真は頷いた。

「分かる。

 僕も、前の人の癖で、ここまで来た」

「じゃあ、あとはあなたの癖を置いていく番」

ユラが笑う。

「“君の朝に”という癖を」


夜。

門の閂を降ろす前に、空を見た。

星は少ない。

雲は薄い。

薄い雲の向こうで、光がまだ眠らずに動いている。

動く光は、誰かの目覚めの合図だ。

合図は遠いのに、胸の奥でよく響く。

響く場所は、もう痛くない。

痛みは、形をやめた。

形だったものだけが、静かに残る。


黒板の前へ戻る。

白で、短く書く。

「了」

二画。

最後に、点をひとつ。

“短く、長く、短く”の、最後の短い点。

点は小さく、けれど濃い。

濃さは、明日の薄さを支える。


灯真は鉢の花に指を添え、囁く。

「おやすみ」

花は応えず、香りだけ置いて眠る。

香りは朝に強くなる。

強くなる前の静けさの中で、ユラが一歩下がる。

影に半分入り、光に半分残る。

「また来る?」

灯真が問う。

「ううん。いつも、いる」

ユラは胸を軽く叩く。

「ここに。

 ここが、道だから」

灯真は笑い、同じ場所を軽く叩いた。

温度が合う。

合うと、世界が少し前へ出る。


門の閂を降ろす。

夜の庭は、瓶の数だけ静かだ。

黒い瓶の中で、呼吸が深くなり、やがて安定する。

“短く、長く、短く”。

その合間に、遠い足音がひとつ生まれる。

まだ見ぬ誰かが、光の細い朝を選んで歩いてくる足音。

灯真は目を閉じ、言葉を胸の内で転がした。


――君の朝に。


言うたび、鍵が正しい場所に戻る。

戻った鍵は、ドアを叩かない。

叩かなくても、開いている。

開いているから、渡せる。

渡せるから、残る。

残るものは、温度。

温度は、忘れにくい。


翌朝。


黒板の「朝」は、灯真が書かなくても、そこにあった。

粉の形が、知らない指の癖でわずかに傾いている。

門の向こうで、靴音。

“短く、長く、短く”。

昨日の少女ではない。

別の誰か。

知らない足。

知らない呼吸。

けれど、呼ばれ方は同じだ。


灯真は門を開け、細長い光を敷石に落とした。

棚の手前――空きの隣に、黒い瓶は静かに立っている。

彼は笑って、言った。


「――ようこそ、君の朝に」


庭が、静かに息をした。

世界が、もう一度、動き出した。

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