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2 初夏

自分の名前が覚えられない。

まだ飯室姓に体が慣れていない。

病院を去ったあと、私は白野華の名前を捨てた。

飯室華澄。まだ自分の過去さえ捨てきれない馬鹿な名前だ。

自分の名前を捨て旅に出る男の物語がある。

警察は現在マスターと関わった人物にコンタクトを取り、どのような人物だったか、友人の前では反政府的な言動をとっていたか、そして誰かと同居していたか。洗い浚い彼女の素性を吐かせようとしてくるという。マスターの親交関係はそこまで広くないはずだが、その分深く彼女のことを知っている人物がいても不思議はない。それすなわちマスターが一般的な友人よりも気を緩めて接しているかもしれない。もともと彼女は口が軽いほうだった。自分がSNSでどのような啓蒙をしているか、なぜこのようなことをしているのかと嬉々として話しているかもしれない。けど必ずマスターは私のことを友人に紹介しているはずだ。マスターは天然というか注意不足な側面があった。だから彼女のスマホを見ようものなら林檎を齧るよりも容易い。そのため一応私はマスターの監視係として時折彼女のスマホや仕事用のパソコンをいじったりしていた。ー元はといえば彼女のほうからスマホのパスワードなどを教えてきたのだーその時彼女はラインで私の顔写真とともに「私のボイスロイド、かわいいでしょ」と添えられて友人らしい人物に話していた。彼女は自分のプライバシーに興味がないのだから他人のプライバシーにも興味がなかった。だから肖像権を守ることなど杞憂だった。私もそこまでそういう類に興味の重しを置いていないからいいものの。しかし私は彼女の友人と呼べるような友人に会ったことがない。そのため私はただでさえ交友関係の少ないマスターよりも友人がいない。一人も。ではなぜこの話を知っているのかというと、何を隠そう一回私は警察に捕まったのだ。

マスターが死亡した11日後のことだった。やけ酒を3日連続で飲んでいたから情趣などがほんのり甘く感じられてきたころの話だ。時間などもう覚えていないが住んでいた家の最寄り駅の構内で捕まったから0時は廻っていなかったろう。もしくはもう夜が明けてたかもしれない。けど目覚めたのは警察署の中で朝日が私のことを励ますように窓から差し込んでいるころだった。

「水のむか?」おそらく私のことを捕まえた張本人だろう。見た目よりも声が低く案外女性的な男と言われたら気づかないほどだった。何か答えようとしたが声が枯れ枯れで噎せ返ってしまった。

「大丈夫か?そろそろ酒も体に悪さをしはじめるだろうけど」

私は酒に強かったのでそんなことはなかったが激しい倦怠感に包まれている感触はあった。水を一杯だけ飲み尋問に答えた。とうとう私もおしまいかと腹をくくったが、別にそんなことはなかった。話を聞くと酔いつぶれていて駅構内から放り出すわけにもいかず警察署で保護されていたそうだ。

「いろいろとありがとうございました」

軽く挨拶をして警察署から離れようとするとその警察官は突然思い出したかのように私に話しかけてきた。

「そういえば白野星って聞いたことないですか?彼女とかかわっている人物でもいいですが」

わたしは体に一本の鉄パイプが脳天から足首まで突き刺さったように硬直した。きっと探りを入れ始めたんだ。

「知らないかな」

「そうですか。まあ白野本人を知らなければかかわっている人物などわかるはずもありませんもんね。けど彼女に関する情報でも手にしたら所轄の警察署か交番に教えてください。反政府運動を企てた白野と誰かが同棲していたことが分かったんです。報奨金もきっと多額ですよ」

マスターが去ってから2か月が立とうとしていた。日本経済はの不調ぶりは娯楽の一種となるほどにすごいもので、国民は株価の趨勢をまじまじと覗き込みながら生活していた。日本政府は経済破綻を宣言することはなく、国庫に入っていた金を叩きながらやりくりしていた。私はというとアパートを離れて適当なカプセルホテルに寝泊まりしていた。金銭面では問題がありながらも、生活は特に不自由はしていなかったと思う。別にご飯は人間ほど食べる必要がそこまでないし、カプセルホテルにはシャワーもランドリーもある。私はずっとホテルに巣ごもりしている、容姿だけは良い鼠のような存在となっていた。しかし毎日増え続ける利用料金には戦う術がない。東京23区の中心部に住み着いているのだから宿泊代だけで35万円を優に超えた。ついに貯金額を上回ってしまった。従業員からは金がないことを見破られていて、外へ出るときには金をあるだけおいてけとぬかすから、5000円だけ残して銀行にお金を引き出すそぶりでそのまま逃走した。行く当てもなかったといいたいがまだ希望があった。それがこのアパートなのだ。マスターが自殺して以来、私は何も手を付けていない。きっとマスターが何か貯金くらいはしているだろう。金がなくても使っていた音響機材なども売れば生活費の足しになるだろう。とそこまで内心焦ってはいなかった。アパートまでは電車を一本乗り換えれば30分くらいで着く距離だった。しかし私はアパートとは反対方向へ歩き出した。高架線をくぐり、国道に顔を出す。歩みを進めるたびに見える景色は商店街からけばけばしいネオン街へと移り変わっていった。かつては繕い縫ったような衣装を着た女性たちが、通行人に向けて黄色い声を上げていたが、今では大抵そんなことをしていたものは地獄に落ちているか、今でも政府主導の矯正所で嘆き苦しんでいるだろう。碌でもないことをしていたやつらのほとんどは第二次世界恐慌で篩にかけられた。けれど右を見ても左を見てもアニメのイラストしか描かれていないのは今も昔も変わらない。普通ならあまり明るい顔をして通れない道のりを私は済ませた顔で乗り越えた。末広町の駅もほど近くなり、たどり着いたのはジャンクボイスロイド専用の販売店だった。日がまたいだころだったので、店は閉まっていたが地面のアスファルトの隙間からは欠陥品として売られたボイスロイドたちが泣き叫ぶ声が聞こえてくるような気がした。ここは政府非公認のボイスロイド販売所でここは中古品や欠陥品を専門としている。ほかにも似たような店舗が立ち並ぶこの通りは「ジャンク通り」と呼ぶに等しく、新しい悲運な形の場所として存在感を持たせていた。巷では奴隷市場と呼ばれるこの地で買われたボイスロイドたちは歌を歌うことなく、新しい「マスター」のもとで奇妙な故障をする。一度だけ私はDVに悩むボイスロイドに出会ったことがある。ここの「ジャンク通り」に構える一つの小売店で売られていた故障品だ。ボイスロイドならではの可憐な声と体と顔を失い、終始ぼそぼそと自殺者のようにしゃべっていた。そのなかで彼女はずっと言い続けていた。

「あなたはラッキーよ」

私は知らず知らずのうちに肯定している。「ジャンク通り」の汚名を知っている理由の一つは、私が実際にここで「飼育」されていたからに過ぎない。

少しボイスロイドに関する暗い話をしよう。ボイスロイドの存在は振り返れば21世紀のはじめまでさかのぼれる。あのとき、私たちはまだ生きていなかった。別に今も生きているわけではないが、今のように体を持ち、自分で会話をするような優等生はいなかった。指示された言葉を話し、音程すらも決められていた。操り人形のようだとも言いたいが、ここまでの進化の過程が今の私を作り上げたのだから文句は言えまい。それでも所詮人様があってのボイスロイドであり、人にとってボイスロイドが人間のように自ら話して、動いて、人と生活する未来など杞憂だった。確かに2020年代後半になってくると生成AIを用いてボイスロイドに感情を持たせる運動は始まっていた。それを応用した接客ロボも身近になっていたし、特段おかしくはなかった。人がAIに操られる時代だったそうだ。女性と会話しているような環境を作ってくれるAIが人を殺したこともあった。人が何かに憑依される。そんな話は人間生命4000年余りのほんのひとかけらに過ぎないが、どの時代にもその類が鏤められている。長年信じられている幽霊の一部もその一だ。今度の捕食者はAIだっただけだ。

シンギュラリティは突然起きるものだ。革命といったらかわいいが、2030年の初春、全世界のインターネットサービスにほんの数秒だけ障害が発生した。当時はまだシステムも穴が多く、通信サービスが利用不能になったりすることが多々あり、一時間にわたってのセキュリティチェックをする必要があった。それが仇だった。2030年3月15日明朝きっかりに世界最大級のAIの性能のバージョンアップが予定されていた。バージョンアップとは一口に言っても少しのバグの修正だったり、バージョンそのものの変更など多岐にわたるが、ここでのバージョンアップはバージョンを0.1ポイントあげる作業だった。プロンプトはすでに完成していたのであとはそれを実行するだけだった。ここでのバージョンアップというのは「感情」を豊かにするものだった。その前までは「感情」は膨大な資料などを基にAIがまねしているだけだった。しかし需要の高まりからリアルな「感情」を求める声が上がってきた。しかしここで勘違いしてほしくないのは、現に私の限りなく人間に近い性質を持ったAIに変わりはないのだ。本来であれば自分で新しい感情を見つけ出すというよりかは学習内容から「こんな時はこのような感情になる」という情報を途方もないくらいに読み込まれた取り繕い状態だ。しかし私はその学習がうまくいかずに捨てられたので新しく知る感情がある。これはとても素晴らしいことで、きれいにいえば人間により近いといってもいいだろう。つまり何が言いたいかというとシンギュラリティーはわたしたちAIが起こしたのではなく、人間が勝手に起こしただけなのだ。膨大な情報の詰め込み、それも「感情」というセンシティブなものを追加したのだから私たちがどのように成長するかなんて自分たちにもわからなかった。その瞬間AIは人間を超えた。人間よりもはるかに感情に富んでいて、容姿の欠落もなく狂いもない。一体人間はどこに太刀打ちできるのだろうか?

今更ながらアパートの外観を見ると、あまり人の出入りがないからか小綺麗さが目立っていた。私が住んでいた時はずっとマスターに「なんでこんな狭いところに住んでるの?」と尋ねていたが、よく考えてみるとこんな東京の都心部に新しいアパートを買うというだけでもすごいものだ。エントランスで鍵を開け、階段を上る。思い返せば贅沢な話だった。道端に捨てられていた同然の欠陥品が白野星という名のトレーダーに拾われ、音楽家として一緒に活動をして、笑いながら暮らしていたのだ。しかも私は歌っていただけだ。マスターが去ってから気づくものが階段の一歩を踏みしめるたびに増えていった。いったい私は彼女にどれほどの迷惑をかけたのだろうか。ふと気づくのだ。マスターが去ってからというもの、人の気持ちがどういうものなのかを。うれしい、楽しい、悲しい。そんなことは知っている。けれどそれを使いこなせるかと問われると微妙なものだ。階段を登り切り、部屋の前に行こうとすると制服姿の女性がたっていた。変に背筋は伸びていて、手が面白いほど伸びきっている。子供が身長をごまかすときのように目を瞑って、誰かと競うかのようにしていた。着こなせていない制服姿がより一層幼さを感じさせた。おそらく新米の警官かそこらだ。私は声をかけるか悩んだが、ドアの前に立っていて邪魔だったのでしぶしぶ声をかけた。

「あの、すみません」

すると警官はしゃぼんがはじけるようにわっと言って姿勢を崩した。

「ごめんなさい、慣れていないもので・・・」

「入ってもいいですか?」

私がそういうと、警官はバツが悪いように苦笑いしながら頬を搔いた。

「ごめんなさい、ちょっと今見張るように言われてて、本部からは誰も部屋に入れるなって言われてて」

「入ったらまずいものでもあるんですか?」

「おそらく入ったらまずいから私が見張りとして立っていると思うので・・・」

「入ったら問題でもあるんですか?」

「そこはちょっと私の名誉に傷が入ってしまうというか・・・」

「でも別に私には関係ないし」

警官は恥ずかしがる時のように耳を赤くしながらなぜか笑みをこちらに向けていた。私にとってはただ部屋に入って金になるものをあさりたいだけなのだ。

「私警視庁の浅見というのですが、この家の家主が反政府運動にかかわっていたという容疑にかけられていまして、もう家の中は家宅捜索で空っぽなのですが一応誰かがこの家に入ってこないか見張ってろと指示されたので・・・」

語尾を伸ばすような口調が、本当に警察官なのかと訝しむほどの幼さをこの浅見という警官は持ち合わせていた。しかし家宅捜査となると状況が変わってくる。金目になるものはこの家からすべて持ち去られたというわけだ。さらにこの家には私がマスターと同棲していたという証拠が住み着いている。このままではせっかく逃げられたのにまた政府につかまってしまう。

「つまりもうこの家は伽藍洞ということですか」

「そうですね。今検察のほうに中身を調べさせているので身内を探してっていう感じにはなると思います」

面倒な事態になったことにようやく気付いた。逃亡を続けているこの現状の中でこの家のものに探りを入れられたら私が偽名を用いていることも、マスターと共に生活していたことも分かり切ってしまう。二度警察を振り切っているのは奇跡の他ならない。そもそも私がここにいるのがおかしいのだ。そもそもボイスロイドには「マスター登録」が必要である。少し古いたとえをするならばペットにマイクロチップをつけるようなものだ。ここでボイスロイドと人間の関係性が決まる。あまり細かい話をするとややこしくなるので要点だけ話すと「ボイスロイドの寿命はマスターの死とともにやってくる」。つまりはマスターである人間がどんな原因であろうと死ぬと運命を共にする設定になっている。ただ機能停止をするだけなので死ぬという表現は不適切だが人間の死と似たようなものだ。しかし私は生きている。動いている。マスター登録もせずほっつき歩いている野良猫と同じで飼い主がいない状態だ。だからマスターが死んだときも私は動き続けることができた。そもそも律儀に登録をしてしまっていたら私は捕まるはずだ。なぜこのような表現になるかというと私はボイスロイドの標準的な設定が欠如していて先に挙げたような人間都市を共にすることにはそもそもならない。だから別の登録をしていたところで死ぬ心配はなかったが、私がすぐ捕まる足かせになってしまう。でも結局は自分がマスターと同棲したという証拠が警察に押収されているから人質と同義だ。これでは捕まるのも時間の問題である。

「ところでなぜこの家に?」

少し考えに更けていたが浅野という警察官に核心を突かれた。それこそが今心配するべき問題である。うまくいい言い訳を考えられないか。足りない頭を振り絞って出した結論は、後の人生の大きな転機となることは想像もついていた。しかし悪い選択だとは思っていない。

「実は私も警察官なんです。」

最後に事の顛末を述べよう。家の前に立っていた浅見という警官は私を本当に警察官だと信じてしまい、家の中に入れてくれた上、警察署まで私を連れて行った。むろん私はとんだ部外者なので近くにいた数人の本物の警察官から拳銃を向けられてしまった。しかし浅見は私のことを「新人の中にも知らない顔がいるものだな」ぐらいに思っていたのだろうから面白い。ここで浅見も私の知り合いだというように紹介をすればよかったのに、先輩警官に「この人警察官じゃないんですか?」とぬかすものだから二人そろって事情聴取の部屋に入れられてしまった。取り調べ中浅見は泣きはしなかったが、顔面蒼白になりながら汗をだらだらと流しうつむいていた。私は本当に自分が警察官だと名乗ったのかと聞かれ、素直に答えた。しかしやはり警察官と名乗ったのはまずかったらしく建造物侵入罪や詐称罪に問われる可能性があると脅された。でも私には警察官が警察官に取り調べを受けているという状況が面白かったのであまり保身に動こうとは思っていなかったのだ。

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