遠雷のなく頃に
慌ただしい日が続いている。今日の朝からではない。昨日も一昨日も、2週間ほど前から毎日死ね程忙しい。あの本が見つかってから常に忙しなく動き回っている。
まったく、こんなつもりで就職をしたつもりではなかった。政府関連の仕事も請け負う警備会社の事務。倒産の心配がなく安定した企業、福利厚生も厚い。まあ、東京基準でだが…。入社したときは家族も喜んでくれていた。実際入社してみると休みらしい休みはなく、聞いていた業務内容とも違う。今の仕事なんて、社長の娘の子守りだ。
「はあ。」
今日何度目のため息だろうか。誰かに聞かれたんじゃ大目玉だ。忙しいとはいっても、社内ではみな同じ。命を懸けた仕事をしていなまだましだましだ。文字通り命がけで働いている者からすれば、この程度で音を上げる私は、とてもじゃないが許せる存在ではないだろう。
「ピピピピピピ」
けたたましい音に背筋を伸ばす。社内用の連絡デバイスだ。表示は社長、また娘の送迎の連絡だろう。
「仕事中すまないね、ちょっと私の部屋まで来てくれ。」
社長室まで呼び出しとは珍しい。何か仕事で失敗でもしただろうか。いや、社長は一見おおらかな人格者だ。余計な仕事を頼みこむつもりだろう。
「今週末の市政大会のために資料集めをしていて…地下なんです。ちょっと手が離せないので、他の人とか…どうですかね。ほら、結構時間かかってしまいますし。」
これ以上仕事が増えれば私がパンクしてしまう。秘書課の誰かさんに頼めばいいじゃないか。
「金木君にしか頼めないんだ。すまないが、急いできてくれ。最優先だ。」
「急いでね」と念を押す社長には応えずデバイスを切る。他の仕事をしなくていい、ということなら行ってやろうか。まあ、あとで私がやることになるのだろうが…。仕方がない。今の仕事を一切放り出して向かってやる。
そもそもこの仕事だって、本来は私の仕事ではないのだ。未来予知の魔導書、その発表資料作り。
私、金木未久の勤めるのは、株式会社鷹木警備である。もっともここは魔境都市東京。仕事内容が単なる警備に収まるはずがない。要人警護から都内要所の警備、果ては魔獣の討伐や悪魔の殺害まで請け負う。社内で極秘の任務もあり、その詳細は私のような末端には知らされていない。
その極秘案件の一つで手に入れてきたのが、未来予知の魔導書である。一か月前、社長のわがまま娘が見つけてきたという例の魔導書は、発見されたときはただの白紙であった。それが魔素を流し込まれることで、ひとりでに文字が浮き上がってきた。はじめは何のことかわからない文字の羅列に過ぎなかったが、魔導書の構築術式の解析、改修により未来の事柄を指し示していることが判明した。
単なる未来予知を天気予報や、占いに使おうというのではない。「万死の門」の開門予測に使おうというのだ。三十年前に突如として天地に開いた巨大な穴「万死の門」。当時開いた二つの穴は現代では完全に閉じられている。しかし、それからの三十年間、最初と同じ大きさではないものの、穴は開き続けている。その穴は自然災害同様、いつ、どこで、開くか全く予想がつかない。
その予測を今回発見した未来予知の魔導書で可能にしようというのだ。社長は確か「未望の書」とか呼んでいた。名前はともかくこの「未望の書」の運用が実現すれば、魔獣討伐任務の成功率は大幅に上昇し、市民、隊員の安全性も格段に上がる。現市長の掲げる人類の勝利とやらに近づくわけだ。いったい何をもって勝利とするかは分からないが…。
週末には市政大会という名の市長主催の政治パーティ―で、「未望の書」を中心とした新たな東京市防衛事業計画の発表がある。私が先ほどしていたのはは発表資料の準備だ。本来は「未望の書」を運用可能にまでした天才学者もとい天才魔術師がすべき仕事だが、とにかくは奴は研究にしか興味がない。政治的使用やそのための発表など一切やりたくないそうだ。そこで素人の私にお鉢が回ってきた。本来の事務業務に加えて、社長の娘の子守り、事業発表の資料作り、そして…おっとこれは機密事項だ。先ほどの極秘案件というやつだ。極秘案件というより極秘任務と言った方が正確かもしれないが、この際どうでもいい。そんなわけでこの私は魔境都市で世にも珍しい過労死を遂げそうというわけだ。
「はあ」
またため息が出る。社長室の前まで来たが、やはりドアを開ける気にはならない。また仕事が増えるのだろうか、幸か不幸か社長の中で私の評価が最近上がっているようだ。東京の中では最も安全と言っていい場所で、良い給料をもらい、正当に評価されている。東京に生きるものとしては誰よりも恵まれている。それなのに仕事を辞めるといいう選択肢が常に頭の片隅にある。
「どんな仕事も三年は続けろ。なにも三年は無理をしろって話じゃない、嫌なことがあったら逃げてもいいんだ。三年間で逃げ場を探すんだ。自分に見合った場所で、自分の使命を果たす。それが人生ってやつだ。」
就職したときに父から言われた言葉だ。就職してから今年で三年目、逃げ場所はおろか、自分の使命というやつも分からない。こんなとき、父に相談したら何と言われるだろう。笑って許してくれるだろうか。
部屋の前で物思いに更けていると、ドアが内側から開いた。中から自分と同じくらいの身長の少年が出てきた。
「ああ、すみません。」
起伏のない声でそう言った彼は、表情もまた乏しい。名前は忘れたが所属はたしか諜報部だったはずだ。身長は私と同じ程度なので決して高くなく、顔立ちも体格も何ら特徴と言えるものはない。諜報部には的確な人材と言える。しかしいくら向いていそうとはいえ、このような年若い少年を働かせるのはどうなのだろうか。
「未久ちゃん来てたのか、待ってたよ。ほらほらそんなとこいないで、中に入りなよ。」
中から社長が呼んでいる。私は無理くり笑顔を作って部屋に入った。
「お待たせして申し訳ありません。」
私は恭しく頭を下げる。社長のお気に入りになっておいて損はない。いや、仕事は増えているか…。
「大丈夫だよ。ちょうど他の用事もあったからね。」
私は部屋から出てきた少年を思い出す。彼は私のように仕事に不満など持ったりしなそうだ。
「先ほどの少年ですか?」
「ああ、そうそう。用事は同じなんだが、陽太には早めに動いてもらおうと思ってね。」
あの少年は陽太というらしい。あの暗い表情からは想像できない名前だ。というか、同じ用事と言ったか?私がただ遅れてきた奴じゃないか。
「お手間を二度かけさせてしまい申し訳ありません。」
私は最敬礼をする。謝罪は早いに越したことは無い。
「いやいや、いいんだよ。本当に。」
社長は困ったように短く刈り込まれた頭を掻く。温和そうな顔を浮かべているが、鍛え抜かれた肉体はスーツを破らんばかりに盛り上がっている。初老の男性とはいえ、この筋肉に殴られれば、私の体は木っ端微塵にはじけ飛ぶだろう。この会社の実態は社長の恐怖政治によって成り立っているのである。なんてね。
「それでご用件は何でしょう。」
私は恐れ慄きながら訊ねる。
「そうだ、えーと。どこまでいえばいいのか…。唯の迎えのことなんだけどね。今から頼めないかな。」
唯とは鷹木の娘のことだ。その程度ならわざわざ呼び出す必要はないだろうに。
「構いませんが、それだけですか?」
私の言葉に鷹木は苦笑いから真剣な表情に変わった。
「察しが良くて助かるよ。唯用の礼装と対人装備を載せて、渋谷駅に向かってくれ。」
別に何かを察したわけではないのだが。言いようにとってくれたなら結構だ。
渋谷駅、久しぶりに聞く場所だ。利用者はほとんどおらず、浮浪者の住みかとなっている。戦闘用の礼装と装備をもって何をしようというのか。
「討伐任務ですか?私の仕事は事務なんですが。」
子守りや資料作りは私の仕事ではない。そう本来は…。
「装備は念のためだ。渋谷駅に現れるある人物を保護してもらいたい。金木君は唯のサポートだ。その人物を車でここまで届けてくれればいい。」
単なるお使いにしては、少々物々しい。よそから来る人物ということだろうか。しかし断るような危険性もこの段階では感じられない。
「承知しました。保護対象はどのような特徴ですか?」
私の質問に社長は再び表情をやわらげた。そして頭を掻きながら言った。
「それが分からないんだよ…」
私は驚きとあきれを表に出さなかった。この場には誰もいないが、私のこの時の表情管理は称賛にされるべきだろう。
「それでは保護のしようがありません。そもそも」
私の苦言を社長が手を出して制止する。
「もちろん判別方法はある。ガスマスクや礼装を身に着けていない人物だ。」
ここ東京では三十年前から全域にわたって、魔素が充満している。この魔素は魔術や魔法の行使に必須であり、現在の東京市民の生活インフラである。しかしこの魔素は空気に触れることで、瘴気すなわち毒ガスにもなる。東京で外に出るときはこの瘴気対策のために魔術礼装やガスマスクが必須となっている。何の対策もせず外に出るのは自殺行為だ。
「では保護対象の礼装も必要になりますね。警務課に連絡しておきます。」
「いや結構だ、礼装は必要ない。それとこの任務は極秘で頼むよ。警務課はもちろん唯以外には誰にも漏らさないでくれ。ああ、さっきの陽太と黒子には伝えてある。黒子がバックアップしてくれるから、任務の詳細は彼女に聞いてくれ。任務の開始は十四時きっかりだ。」
私は腕時計を見やる。就職祝いに父が買ってくれたものだ。時刻はすでに正午を回っていた。唯の学校に寄って行くにはぎりぎりの時間だ。急ぎというがこれほど急とは…物思いに更けている時間が悔やまれる。
「承知しました。至急向かいます。」
私は挨拶もそこそこに社長室を出る。社長も時間がないことは分かっていたのだろう、何ら咎められることは無かった。
それにしても、やはり私の業務内容ではないような気がするのだが…。それほどまでに人手不足なのだろうか。父親の言っていた三年にはあと一年ある。この一年で転職先の候補を見つけておくとにしよう。
「未久さん聞こえてますかー?」
甲高い声が脳内に直接響いてくる。オペレーターの黒子の通信魔術だ。
「聞こえている。とりあえず駐車場に向かっているとこ。」
「あってますー!唯さんの礼装も準備しておきました。そのまま車で唯さんのところに向かってください!」
彼女は音が飛び跳ねるようなしゃべり方をする。もっとも音として耳に聞こえているわけではないのだが。
「ありがとう。学校の方に唯が早退することを電話しておいて。」
「はいですー!」
まったく便利な魔術だが、心を読む能力はないので、こちらは口に出して話さなければならないのが難点だ。
「いったい何者なんだ?」
瘴気対策なしで屋外を出歩くことができるのは限られた人間だけだ。天使の加護を受けた者、悪魔に憑かれた者。このような人間は一般的には珍しいが、鷹木警備のような戦闘の必要がある組織では見ない存在ではない。新しい戦闘員だろうか。もしくは、唯のような奇跡という例外か。
「わからないですー!」
黒子の明るい声が脳裏に響いた。