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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水子供養の女

作者: 鞠坂小鞠

『では、次のニュースです。◯◯市泉田沼二丁目の交差点で三台が絡む……』


 ニュースキャスターの声が途中で途切れる。

 テレビのリモコンを手にした私は、小さく息を吐きながら、それを座卓の上へ放り投げた。このところ同じニュースばかり見ている気がする。すぐ近く、地元で起きた悲惨な交通事故の報道だ。


 最初こそ、食い入るようにテレビ画面を見つめてはネットで調べての繰り返しだった。

 だが、興奮によく似た関心も、時間の経過とともにやがては薄まっていく。殺人などといった事件ではない以上、捕まっていない犯人がいるわけでもない。後は延々と、被害者の情報がドラマよろしく流れ続けるだけだ。


 今日は初盆の法要が二件。午前と午後、時間にはゆとりを持って予定を入れたはずだからと思いつつ、目は時計ばかりを追ってしまう。

 時間にルーズな同業者も多いが、私はそれが嫌いだった。社会人として外で働いた期間が長かったことも影響しているだろうが、遅刻はするのもされるのも不愉快なのだ。


 昨日は葬儀の脇寺として呼ばれた。夏期間の数少ない休暇は、さらに少なくなった。

 収入の面ではありがたい限りだが、この暑い季節だ。疲れは心身ともに溜まっていく。抱える檀家は少なくとも、行う仕事が少ないわけでは決してない。家族もなく、ひとりきりで務めを果たさねばならない私のような者にとっては、特に。


 ……そろそろ嫁さん、ほしいかもなぁ。

 再度小さく溜息をつき、私は玄関の引き戸をガラリと引いた。



     *



「こちらで水子供養はなさってますか」


 それは、二件目の檀家宅から帰宅した直後のことだった。

 車を降りて玄関へ向かう途中、見知らぬ女に声をかけられたのだ。


 背後からかかった唐突な問いに、不躾にも女の姿をまじまじと眺めてしまう。肩は華奢で、腕もやたらと細い。まるで骨と皮だけでできあがっているみたいな身体だ。

 女性にしては背丈が高いと思う。黒のワンピースに身を包んでおり、この炎天下の中でと思えば同情を覚えた。

 ノースリーブ状の肩は剥き出しで、生い茂る緑の隙間を縫って差し込んでくる陽光にじりじりと照らされ、焼けたみたいに赤く染まって見えた。よく見ると、葬儀や法要の際に女性がよく身に着ける黒のフォーマルドレスとは微妙に異なっていた。


 敷地をぐるり囲むように木々が茂るこの場所では、女の声はいささかか細い。

 盛大な蝉の鳴き声にすぐさま掻き消されてしまうだろうと思い、微かに動いた唇を目にして思わず耳をそばだてたが、思いのほかよく通る声だった。結局、聞き返すこともなくすべての音を拾った私は、またその手の相談かと心の中で溜息を落とした。


 古くは全国に広く名を馳せたと言われる港町、そのちょうど中央部――いわゆる寺町に位置するのが当院だ。

 辿った歴史の関係上、ひとつの敷地内に複数の寺院が集まって建っている。ひときわ目を惹く大きな本堂を持つ寺が〝本寺(ほんでら)〟であり、私が住職を務める寺は、本寺を囲むように左右に建つ五つの寺のうちのひとつだ。脇寺(わきでら)と呼ばれることもあるが、今ではそういう呼び方をする年配者も少なくなった。


 本寺の名が刻まれた正門があり、そこをくぐった敷地の内部に脇寺が建っている。中には一般の住居も住民もある。

 この地で生まれ育った私としては特にそのことに違和感はないが、人によっては不可思議な印象を持つこともあるかもしれない。


 普通なら、真っ先に本寺へ足を運ぶと思う。脇寺の本堂は総じて小さく、また生い茂る木々に屋根の大半を隠されてしまっており、正門から入った辺りからは目視しにくいのだ。

 だが、女はまっすぐに、門から入ってすぐ右手に建つこの寺へ――私がいるほうへ足を運んできた。


 顔には見覚えがない。檀家の誰かというわけではなさそうだ。この時代、寺に足を運んだことがないという若い檀家も多いから、絶対にとは言えないが。

 タウンページでも眺めてきたのだろうか。うちの寺は〝あ〟から始まる名称だから、タウンページを見て一番上に名前が記載されていたから連絡した、という相談者は案外少なくない。普段、寺社との縁がないという場合はなおさら。

 だが、それなら電話で先に連絡してくるはずだ。ならば。


 ちょうど初盆の法要から戻ったばかりの私は、当然ながら袈裟姿だ。

 それを目にしたからこそ、まっすぐ私のもとへ足を運んできたのかもしれなかった。それこそ僧侶なら誰でも良かったのかもという、尖った見方もできる。


 この寺では、供養というものは行わない。言葉遊びじみて聞こえるかもしれないが、すでに仏となった故人に対してなにかを施すなどもってのほかという考えなのだ。まるで今もこの世に留まっているかのように故人を扱うという行為自体が、我が宗派ではあり得ない。

 だが如何せん、他の宗派では頻繁に用いられる言葉だ。それゆえ、檀家の人間ですら、たまにその言葉をぽろりと零すことがある。


 父の代の頃はそれなりに厳しかったらしいから、ある程度年嵩の檀家には理解が見られる。だが、私の代になってからはさほど口うるさくはしていなかった。下手に厳しく説教などすれば、こちらこそが切り捨てられる可能性が高いからだ。

 寺離れという言葉が方々から聞こえるようになって久しい昨今、この田舎にあっても、時代の流れには逆らえない。特にうちのような檀家の少ない寺は、良好なイメージを持ってもらうことが最重要課題だ。


 ここで行える法要は、供養とは異なる。

 仏となったお子さんを思いながら、経を上げるだけ。


 二件の法要を終えて早々に来客の相手をしたからか、自分でもはっきりそうと分かるくらい粗雑な説明をしてしまった。

 それでなくても、この一週間はなにかと多忙で、睡眠時間を碌に確保できていない。疲れが滲んだ私のぞんざいな態度は、もはや悪印象を及ぼすレベルなのではと、話し終えてからようやく冷や汗が背を伝った。


 だが、女は気にする素振りを見せず、あっさりと了承した。


「どんな形でも構いません」


 建物の中にいる分、さっき聞いた声よりも遥かに聞き取りやすかったはずなのに、どうしてか今度は外で忙しなく騒ぐ蝉の声のほうが大きく聞こえた。

 目尻の黒子(ほくろ)が、女の微笑みに合わせて微かに動くさまだけ、はっきりと見えた。






 読経の間、背後に正座している女の気配は薄かった。

 まるで蜉蝣だ。初めて顔を突き合わせたときから薄々感じていたが、今にも空気に混じって消えてしまいそうな儚さがある。子を喪ったという話だから、醸し出されるほの暗さの理由については想像に難くないのだが。


 女の肌色は白かった。

 外では陽射しがぶつかり赤く見えていた肌も、本堂の中に入ってしまえば、やはりどこまでも白い。体調が悪いのかと訝しくなるほどに……いや、白いというよりは。


 不意に、その肌の色味がなにに似ているのかに思い至る。


 それが読経の終わりとほぼ同時であったため、音が途切れるタイミングは決して不自然ではなかった。妙な息苦しさを感じつつ、確かな安堵も覚える。

 ありがとうございました、と静かに呟き、女は本堂を後にしようとした。それに合わせて立ち上がろうとした瞬間、女がふらりとふらついた。


 足でも痺れたかと反射的に腕を取って支えた私にしがみついた女の、手入れの行き届いた美しい爪が、思いのほか深く私の手首に食い込む。ぴり、とした痛みが走った。


「……すみません」


 そう口にした女が、口元をにぃと歪ませたように見えた。

 ……不気味にもほどがある。柄にもなく背筋が冷えた。いえ、と返事をしつつも、顔については見ないふりを決め込んだ。


 ふらふらと帰りゆく女の後ろ姿は、来たとき同様、本当に蜉蝣じみていた。



     *



 ――……で、……。


 音がする。否、声が。

 徐々に大きくなってくる。迫る。自分に近づいてきていると分かる。


 ――……でよ。


 このような職務に就いている以上、これが現実とは私は考えない。

 これは夢だ。あの日、水子供養をなどと唐突に訪問してきた女の肌が――白すぎる皮膚が、死んだ人間のそれによく似ていたからだ。だから連日、こんな夢を見る羽目になっている。


 唐突に、女の顔が暗闇に浮かび上がった。

 布団に横たわった私の視線の先……真上に。


 ぼうっと白く浮かんだ顔は、暗闇の中において、異常なほど不気味さが際立っている。

 亡霊。信じてもいない存在を示す言葉が、瞬時に脳裏を過ぎった。ひ、と反射的に声が漏れる。恐怖のせいではない。純粋な驚きによるものだ。そうだと信じたかった。


 布団の中にしまい込んだ手首に、女の指が伸びてくる。法要を営んだ日、倒れかけた女を支えるために伸ばした腕。あの日手首に食い込んだ爪の痕から、ぶわりと血が噴き出して見えた気がして、ぞっと背筋が凍りついた。

 悲鳴は出ない。掠れた呼吸がひゅうひゅうと喉を出てくるだけで、それは悲鳴よりもよほど情けない音となって私の鼓膜を揺らす。迫る女の指は、やはり死人と同じ色をしていた。


「産んでよ」


 ようやくはっきり聞こえた。だが、女の口は動いていない。その声は女の腹の辺りから聞こえてくる……これでは、まるで。

 女がゆっくりと自分の腹部を見下ろし、そっとそこを撫でつける。普通なら母性を感じてもおかしくないだろうその仕種が、私にはなぜか、女が腹の中のそれの機嫌でも取っているかのように見えた。


 手首が痛い。

 そこからなにか、別のものが生えてきそうな。身体ごと、精神ごと、私ごと、なにもかも別のなにかに置き換えられてしまいそうな。


 唐突に、女が口を開いた。

 恍惚とした表情が場違いだと思った。そして、そんな自分の反応こそが場違いだとも。


「あなたがいい。だってあなた、あの人によく似てるんだもの」


 よく見ると、女の顔は赤黒い液体でぐちゃぐちゃだった。それが女の体内から溢れ出た血液だと思い至った瞬間、野太い悲鳴が喉を突いて出た。

 それを合図に、女の身体が布団の中に入り込んでくる。夢だと分かっていても、それを自分で終わらせることなどできるわけもない。


 いつしか私は服を身に着けていなかった。つい今さっきまで、確かにまとっていたはずなのに。

 血まみれなのは顔だけではなかった。女は嬉しそうに微笑みながら、口端からぼたぼたと赤黒いそれを零し、私の口に押し込める。


 また微笑む、目尻の黒子、瞼に焼きつく、唇が血に濡れる、ぬるり、熱い、どろりと、溶ける、女は、私の、腰の上、馬乗りに、なって、足を、絡めて、何度も、口づける、口移しを、繰り返す、どろり、ごぽり、身体の、芯が、燃える、熱い、最後には、身体ごと、溶ける、ような、まるで、業火、それで、女は、私に、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も


 ――ごぽり。


「ぁ、う、ぐ……っ」


 くぐもったような自分の声が鼓膜を叩き、やっと意識が浮上した。



     *



 毎晩、夢を見る。それも同じ夢を。

 水子供養をと訪れた黒いワンピース姿の女が私に細指を伸ばし、その腹から声が聞こえ、最後に女が口を開く。


『あなたがいい』


 血まみれの顔と黒く淀んだ目が、視界いっぱいに映り込む。

 そして零れた血を口移しされ、無理やり飲み込まされ、なすがまま足を絡め取られ、地獄のような情事が始まる。その最後、中途半端な快楽と恐怖に塗り潰された情けない私の悲鳴が、その場と現実を貫くのだ。


 睡眠不足ではもう済まされない。憔悴に等しかった。

 手首の痛みはなぜか、あれから数日が経ったというのにどんどん強まってくる気すらする。血痕どころか、すでに傷のひとつも残っていないのに。


 気を紛らわしたくてつけたテレビでは、例の自動車事故の報道が続いていた。

 ……こっちはこっちで、もう何日経ったと思っている。知らず辟易の溜息が零れた。


 画面には見覚えのある風景が映っている。ここから車で二十分ほどで辿り着ける場所にある自然公園、その近くの交差点で事故は起きたという。三台の車が絡んだ、凄惨な玉突き事故。

 そういえばそうだった。当初は食い入るように確認した事故の詳細など、ここ数日の忙しさと悪夢のせいで、すっかり忘れてしまっていた。


 深夜の悲劇、犠牲者は二名――夫婦。女のほうは妊娠中だったという。

 こんなに近くで。久々に、その痛ましい事故について思考が巡った。まさか檀家の誰かではと思い、次に、同級生やその兄弟姉妹が巻き込まれてはいないかと思った。普通なら事故を知って真っ先に考え至るだろうことばかり、今頃になってから脳裏をぐりぐりと抉る。


 軽い眩暈を覚えたとき、不意に背後から声がかかった。


「ああ、またこのニュース。最近こればっかりで……本当に怖いわ。すぐ近くでこんな大きな事故があったなんてまだ思えないのよね」

「……そうだっけ」

「なに言ってるの。あなただって何日も前からちゃんと見てたじゃない」


 振り返ると、台所から居間に戻ったらしき妻の姿があった。

 妻は私の顔を覗き込み、途端に心配そうに眉根を寄せた。目尻の黒子が小さく動く。


「ねぇあなた、大丈夫? 顔色が」

「あ? あぁ。このところ寝苦しくて、なかなか寝つけなくてな」


 妻の声が、夢の女のものと――あの女と重なる。

 本人に説明するのも億劫で、早々に会話を打ち切って自室で休もうとした、そのときだった。


「あのね、大事な話があるの。あなた具合悪そうだし、後で伝えようかと思ったんだけど……やっぱり今いい?」


 ためらいがちに口を開いた妻に、ゆっくりと視線を向ける。

 言い出しておいて、妻はなかなか続きを切り出そうとしない。良くない話なのだろうか。早く内容を口にするよう、沈黙を返して促した。


 頭痛が、する。喉が、渇く。

 横になりたい、だが眠ることはできない。またあの夢を見てしまう。それでもこの眩暈をなんとかしない限り、私に安息は訪れない。それしか考えられなかった。


 ……それはそれとして、この女は誰だったか。


 なぜか妻だと勝手に思い込んでいたが、私は結婚などしていない。

 半年ほど前まで通いで手伝いをしてくれていた、総代の家の娘さんだったか。いや、違う。それはもっと年嵩の……待て、どうしたんだ、うまく、思い出せない。


『あなただって何日も前からちゃんと見てたじゃない』


 どういう意味だ。

 いつからここにいるんだ、この寺には私しかいないのに。


 両親はすでに亡く、兄弟姉妹もいない。母は小学生のときに亡くなった。三十に差しかかってすぐの頃、今度は父の訃報を聞き、駆けつけ、勤めていた職場を辞めてそのままここを継いだのだ。

 当初は、状況を心配してくれた檀家の女性陣が、ときおり交代で手伝いに通ってくれた。確かに通ってくれていたが、この女は明らかに彼女たちとは違う。


 おかしい。頭が、痛い。

 ぼやけきった私の脳内など露ほども知らないはずの妻――否、女は、どこか遠慮がちに、だが嬉しそうに言葉を続けた。


「やっとまた授かれたの。なんだか近頃身体が怠い気がしてて、もしかしてって思って、おととい病院に行ったの。それで分かったのよ。母子手帳の手続きが済むまで内緒にしておこうかとも思ったんだけどね」


 授かれた? また?

 なにを?


「え、……あ?」


 女が笑むと、目尻の黒子が微かに動いた。

 黒子……あの黒子には見覚えがある。だがこの女自体にはさっぱり見覚えがない。黒いワンピースの、水子供養の、死んだ人間と同じ色の肌をした女、では、ない。


 お前は、誰だ。

 そう問うつもりだった。しかし、口をついて出た言葉はそれではなかった。むしろ最も言うべきでなかったひと言が、緩んだ口端をするりと滑り落ちる。


「そうか……おめでとう。良かったな」


 どうして自分は笑っているのか。なにが『おめでとう』なのか。

 お前なんて知らない、お前の子なんてそれこそ知らない。そう言わなければ、今にも自分が自分以外のなにかに置き換わってしまいそうだった。それが恐ろしくて、だからこうやって阻止するために口を開いているのに、零れ出る言葉は意図とは完全に異なるものばかりだ。


『あなたがいい。だってあなた、あの人によく似てるんだもの』


 ぎん、とひときわ強く頭の奥が軋んだ。

 微笑む女の顔が、目尻の黒子の辺りから徐々に塗り変わっていく。別人のものに……あの日の水子供養の女のそれに。


 目の前の女は、最初からあの女だったのか。

 それとも、身代わりとなる誰かを塗り潰している最中なのか。

 そして、いつから私を標的に定めていたのか。


 ニュースの事故を思い出す。

 三台の玉突き事故。犠牲になった夫婦。妊娠中だったという女。


 テレビの映像はなぜか、亡くなったその女の顔写真が表示されたシーンでぴたりと止まってしまっていた。

 目の前の女の顔を、穴が空くほどに見つめる。いつの間にか女は、固まったテレビに映る顔写真と完全に同じ顔をしていた。


 ――見るべきでは、なかった。


 代替品を探していた、そういうことなのか。そしてふらふらと彷徨って訪れたのがこの場所で、水子供養をという大義名分のもと……駄目だ、これ以上はもう、頭が割れる。思考が、裂ける。

 問いの答えはひとつも見出せない。見出せないまま、私とてすぐにも別人になるのだろう。この女の夫に、この女が夢の中で『よく似ている』と評していた見も知らぬ男に、存在ごと置き換えられる。そう思った。思わされていた。


「あなた」


 爪痕の残る手首から、不意に痛みが消えた。

 記憶がぐにゃりと歪み、霞む。霞んで別のものになって、……ああ、確かにこの女は私の妻だ。


 妻、なのだ。


「ああ。今度は気をつけないとな。車の運転は特に」


 やっと記憶が一致する。愛しい愛しい、僕の、妻の、顔。

 柔らかな頬にゆっくり指を伸ばすと、妻はにこりと目尻の黒子を揺らして笑った。




〈了〉

お読みいただきありがとうございました。

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