4-8
私達は周囲の気配に気をつけながら、大樹に向かって駆けていた。
フェラインの言っていたことに間違いはないらしい。
大量の天使の血臭は天使を遠ざける。
なるほど、確かに先程から天使が私達を襲ってくる気配はない。
とはいえ、安心は出来ない。
フェラインはこうもいっていた。
一時間は天使も寄ってこない、と。
それはつまり、天使の血の臭いは、一時間しかもたないということだろう。
フェラインと分かれてから、既に五十分は経過している。
大樹は、予想以上に遠くにあった。
距離的には近いのだが、その大樹の生える大岩にたどり着くには、螺旋状に配置された浮き岩を経由して進まなければいけないのだ。
ならば飛んでいけばいい、とシオンは言ったが、私はそれを却下した。
もちろん理由はある。
まず第一に、異次元世界の法則は未知数。空を飛ぶことで発生するリスクを予想することすら出来ない。何も支障がなければ問題ないが、もし仮にそれで命を落とすような事態になったら洒落では済まない。
第二に、空は天使の領域だ。いくら血臭を纏っているからと言って、安心して飛ぶことは控えなければならない。
最後に……これが一番重要なことだが、飛行魔術は、ひどく難しくて、精神をすり減らす。
飛ぶだけ、と侮ってはいけない。
飛行というのは、見た目以上に難しいものなのだ。
まず、一定の浮力を得るだけでも常に繊細な魔力の制御が必要になるし、進退はもちろん、身体のバランスを保たせるのにだって魔力の操作は必須になる。
いわば、常に左右の目で違うものの動きを捉え、両手で別々の作業をし、足はダンスの動きをしているようなものだ。
空を縦横無尽に駆け回って戦う、なんて魔術師はおとぎ話の中にしかいない。おじいちゃんですら、そんなことは出来ないのだ。
結果として、走って大樹に向かうのが最も安全な選択ということ。
そもそも、私は飛行魔術なんて使えないし。
「……イェスは、連中は何者だと思います?」
唐突に、シオンが口を開いた。
「何者か、か……」
シオンから見た『連中』とは、恐らく王宮――ひいては王族に反旗を翻す存在なのだろう。
そして今尋ねてきたのは、その枠組みの中での話。
王族に逆らう中で、一体どのような目的を持った、どのような派閥の者なのか、ということだろうね。
……さて、どう答えたらいいのかな。
「シオンはどう思っているの?」
「……僕には、全く理解できません。相手が何を考えているのか。王族とはマギの頂点に君臨する方々です。その血は尊く、この世界の民を導いて下さる。ならば王族に刃向かうと言うことは、この世界を否定する行為。なぜそのようなことをするのか……」
なんて一方的な見方なんだろう。
別にシオンが王族万歳なのに文句はない。そういうのは個人の自由だと思う。
でもそれが、さも万人に通じる理であるかのように語るのは、聞いてて少し気分が悪くなる。
思想の押しつけ。それは、単なるエゴなのに……。
純真潔白で信心深い人間のエゴほど性質の悪いものは無い。
「聞くけれど、なら王族のした凄いことを一つ挙げてみて?」
「それはもちろん、魔術による統治でしょう。魔術という神秘を人に授け、それによって魔術師による秩序を築きあげたことです」
言うと思った。
これだから、魔術至上主義者は……。
嫌になるよ。本当に。
魔術による統治。魔術師による秩序。なんていい響きだろう。
けどいいのは響きだけだ。
その実態は、酷い。
シオンは名家とかの出なんだろうね。そういう、この世界の汚いところを、余りにも知らなさすぎる。
あるいは、単に目を向けようとしていないだけなのか……。
――少し、意地悪がしたくなった。
「でも、知ってる? 地方じゃ、魔術師が貧困層の人達を奴隷――ううん、犬や馬みたいに扱ってるんだよ? 作物を作らせたら、その八割は魔術師が奪ってくからね。逆らおうにも、貧民ごときじゃ魔術師には敵わない。だから、おとなしく従うしかない。ひどいものだよ? 魔術師に食糧を奪われて痩せこけた人の姿って」
魔術師と、魔術の使えない人間の格差はあまりにも酷い。
都市部ならまだしも、行政の行きとどかない地方では、今私の言ったような事態が常識的に行われている。
それに都市部でだって、一般人はかなり下等な扱いを受けている。
一般人の平均収入は、どれだけ働いても魔術師の収入の一割程度にしかならないのだという。
一般人の生活は、慢性的な苦しさを伴うものなのだ。それが、この世界の常識。
魔術師の統治なんて……搾取の間違いでしょ。
それを突き付けてみると、シオンはそれを一笑した。
「まさか。そんな魔術師がいたらすぐに処分されます」
「……」
ああ、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど……シオンはもう救いようのない大馬鹿だ。
魔術師は聖人かなにかだと思っているのだろうか。
笑わせてくれる。
そんなわけがない。
むしろ魔術師なんて、その多くが醜悪な人種に他ならない。魔術という力を盾に弱者を絞るしか能のない人でなしばかりなのだ。
「それに例えいたとしても、だったら皆が魔術を学べばよいでしょう?」
あ、これはもう駄目だ。
お姫様、本格的に目が腐ってるとしか思えない。
この馬鹿は、完璧に終わってる。
この世界のこと、何にも分かっちゃいないよ。
「魔術を学ぶには、それなりの金が必要なんだよ。一般人にとってその金は、とてもじゃないけれど支払える額じゃない」
こんな無能にどれほどの価値もあるものか。
「ならば独学で――」
その言い分に、
「人は誰しも天才じゃないんだよ」
冗談じゃなく、頭に来た。
さっきから聞いていれば、魔術魔術魔術、何でも魔術で解決できるとでも?
「人はね、生まれてきた瞬間に、もう才能とか、地位とか、決まっちゃうんだよ」
そんなことも知らないなんて、なんて幸せなんだろう。
私はそれを、身を持って知っている。
私が生まれた町は、人の住む場所として機能していなかった。だから、私は、私達は捨てられた。養ってなんて、もらえなかった。
そうして、死んで行くんだ。病気で、飢餓で。苦しみながら、悲しみながら。
私がこうして生きているのは単に、才能があったからに他ならない。魔術という才能。だからこそ、おじいちゃんに拾ってもらえた。
それでなかったら今頃、私も死んでいた。
「才能なんてのはね、一握りの人間にしか与えられない理不尽なものなんだよ」
努力は報われる、なんて綺麗事を言う人間がいる。
けれどそれは、嘘だ。
努力の大前提として必要になるのが、才能。
それは、永久不変の不文律。
「才能のない人間は独学で魔術を習得することなんて、とてもじゃないけれど出来ない。だからそういう人間は、野垂れ死ぬしかないんだよ」
そう。
私の、弟のように。
大人から食べ物を奪おうとして、けれど非力なせいで逆に嬲り殺された、あの子のように。
「分かるかな? 今シオンが言ったことってさ……才能のある人間が、無能な人間を度外視して言う、傲慢だよ」
だから嫌いなんだ。古い魔術師は。
血統書付きを気取って、けどその実は劣等に他ならない。
「……イェスの言うことは不可解です。確かに、貴方の言う通りならば一般人の生活水準の改善にこれからは力を入れていくべきでしょう。それはいい。けれど、それで貴方は何が言いたいのですか? それではまるで魔術師を、魔術を軽んじるような……」
一般人の生活基準の改善?
今のマギでそれが可能だとでも思っているのだろうか。
「魔術を軽んじるとしたら、なに?」
言うと、明らかにシオンの目の色が変わった。
「貴方は魔術師をやめるべきだ。魔術に誇りを持たない者など、魔術師には相応しくない。姫のお傍からも退いてもらう」
誇り、誇りか。
「その誇りってなに?」
「決まっているでしょう。魔術によって、この世界を素晴らしいものに変えていくことです」
……分かってない。
なにも分かっていない。
魔術によって?
無理だよ。
自分がどれほど愚かなことを口にしているのか、分かってないのかな?
魔術は、暴力だ。
どれほど神聖化させたところで、暴力は暴力以上のものにはならない。
暴力で世界を素晴らしく?
腹がよじれそうなくらいに可笑しいね。
それは、素晴らしいだろう。
魔術師が絶対的な力を持つ、一般人には自由の権利すらない奴隷世界の出来上がりだ。
魔術師の命令に逆らった一般人は皆殺し。
魔術師の反感を買った一般人は公開処刑。
魔術師の奴隷じゃない一般人は害虫以下。
全く、なんて素晴らしい世界だろう。
「魔術がこの世界の全てだとでも思ってる?」
「当然です。魔術なくして、このマギという世界はありえません」
その答えに、
「そう……分かったよ」
もう何も言う気がなくなった。
魔術が全て。
それはなんて……虚しい世界だろう。
魔術なんて所詮、武器の一つでしかないのに。
それが全てだと言いきってしまうこの世界は……狂ってる。
†
なんなんだ、一体。
イェスはあれきり、黙り込んでいる。
魔術の素晴らしさを理解していないような、あの口ぶり。
まったくもって意味が分からない。
魔術師の中に、愚かな連中がいるというのは、認めよう。
魔術師だって人だ。間違いを犯すものは現れてくる。
けれどそれは粛正すればいいことではないのか。
魔術による統治は絶対だ。マギは、そうやって今まで平穏を保ってきた。
なのに、どうしてその魔術を疑うことができようか?
ありえない。
この世界に生きる全ての人間に祝福をもたらすもの。それこそが魔術なのに。
イェスはどこかで致命的な勘違いをしているとしか思えない。
哀れだ、と思う。
魔術を扱う身でありながら、その価値を見失っているなんて。
姫は、なぜこのような者を側に置こうと思ったのか。
帰ったら、進言しなくてはならない。
イェスの先程の言動について。
恐らくそれで姫も、イェスを遠ざけてくださるだろう。
姫は王族、誰よりも魔術について深く理解している存在。そんな御方が、イェスのような者を許容するはずがない。
……まったく。
何故、なのだろう。
何故こんな魔術の尊さを解さない愚か者が、黒の魔術などを扱えるのだろう。
不愉快だ。
これではまるで、魔術を信じぬ彼女を、他ならぬ魔術が祝福しているようではないか。
――馬鹿な。
自分のその思考に嫌気が差す。
イェスが魔術の才能を得たのは、何かの間違いだったのだろう。
魔術を信じぬ者に魔術の祝福などあるわけがない。
魔術師とは、魔術を信じ、魔術に生きる者のこと。
その条理に反するならば、イェスは既に魔術師ではない。どれほど優秀だろうとも、だ。
本当に……不愉快だ。
なぜ姫はこのような者を必要などとおっしゃったのか。
なぜ魔術の才がこのような者へ与えられたのか。
シオン君をとことん突き落とすお話でした。
実はこの話ではイェスも少し過剰な思考を入れました。
「なんかシオンだけじゃなくてイェスも、ちょっとなぁ……」みたいに感じていただけたら作者大成功です。
つまりは二人とも子供なわけで、やっぱり子供って自分が一番正しい、みたいな考えが少しくらいはありますよね?
その辺り表現したかったです。
歴代、もっとも未熟な主人公とサブ主人公ですしねえ。