7-1
それは、突然の出来事だった。
ついさっきまで麻述と電話をしていた私は、今頃マギで戦っているであろう嶋搗達のことを考えながら、とくになにかする気にもなれず、ぼんやりと空を見上げていた。
その空が――微かに、揺れた。
「え……?」
それは、一体どういうことなのか。
目の錯覚?
いや、違う。
これでも私は、自分の目に自信を持っている。
その私が目の錯覚だなんて……そもそも、仮に目の錯覚だとしても……ならば、今私が見ている光景をどう説明するのだろう?
空の色が、青から、多色……鈍い虹色へと変わっていく。
シャボン玉の表面のような、と言えばいいだろうか。
まるで現実味のない光景だった。
もしかしたら自分は夢を見ているのではないか。そう疑って、頬をつねる。
痛い……。
っていうことは……夢じゃない?
こんな状況が?
近くに会ったリモコンを手にとって、テレビの電源をつける。そしてニュースにチャンネルを回した。
ニュースでは、この現象に対する速報が流れていた。
現在、私の住む町を中心にかなり大きな範囲で、空が虹色に変色すると言う異常事態が起きているらしい。
そしてその原因は不明。
けれど……実のところ私は、その空の色がどんなものなのかを、知っていた。
不気味に揺らめく空を見上げる。
生唾を飲み込んだ。
それは……《門》と同じ。
異次元世界に通じる《門》が開いた時と、全く同じ現象なのだ。
規模は桁違いだが、間違いない。
どういうことなのか。
様々な疑問が、頭の中をぐるぐると巡る。
とにかく分かるのは……これが少なくとも、間違いなく不吉なことの前兆であるということ。
そう。
だってこの空気を、私はよく知っているのだ。
命懸けの戦いをする前の、空気。
まるで肌を焦がすような、高密度のプレッシャーが私の身体を覆っていた。
背筋に浮かぶ冷や汗がおさまらない。
――刹那。
虹色の空から、何かが飛び出した。
私が見つけただけでも、五つ。
おそらくは一〇メートル大の黒い何かが、空から街に落ちた。
そのうちの一つが……私のいるマンションからそう遠くないところに落ちた。
落下地点にあった小さな家が、その物体の落下による衝撃で大きく破壊される。
見てくれは、黒い岩の塊。
それが次の瞬間……開いた。
まるで花の蕾が開くように、岩が開き、黒い岩がみるみる姿を変えていく。
そして現れたのは、硬質な外殻をもった、巨大なサソリから尻尾を取ったような生き物。
言うまでもないことだが、アースの生き物ではない。
……異次元世界の、生き物?
そんなものが、どうしてこんなところに……!?
いや、その答えはもう私は出している。
つまりあの空は本当に《門》と同じものであり、その先はどこか異次元世界に繋がっている。そこから、あの生き物はやってきたのだ。
けれど、まずどうしてあんなものが空に……。
――いや。
今は、それはいい。
落ちつけ。
どんな有り得ない事態でも、どんな緊迫した状況でも、冷静に広い視野を持って行動しなくてはいけない。
私は嶋搗にそう教わって、実際にそうして生き残ってきたのだ。
だから、心を鎮めろ。
自己暗示のように言い聞かせ、そうするうちに、思考がクリアになっていく。
今の私に必要な情報は何か?
この現象の原因解明?
――否。
この状況に驚愕すること?
――否。
黙ってこれからどうなるかを見守ること?
――否。
ならば、どうするのか。
決まっていた。
視線の先では、落ちて来た巨大な生き物が、暴れ回っている。
一戸建ての家や小さなアパートなどが、その生き物の手についているハンマーのような無骨な鋏で薙ぎ払われる。
周囲では人々が恐れ、叫び、混乱しながら逃げ惑っていた。
それだけで、どれほどの人が死んだのだろう。
考えたくもないが、しかし考えざるを得ない。
こんな時だからこそ、現実から目を逸らしてはならない。
多くの人が死んだ。
これから、その数は増えていくだろう。
今も空の虹色は消えていない。
ならばまだまだあんな生き物が現れるのかもしれない。
だとすれば、被害はネズミ算式に増えていくばかり。
それを見過ごせるほど、私は人でなしではない。
私は家を飛び出した。
†
人の濁流が、街中に出来ていた。
理解の範疇を越えた害悪から逃れようと、誰もが必死に脚を動かし、目的地もなく走っていく。
誰かの絶叫。
誰かの泣き声。
誰かの悲鳴。
それすらも呑みこんで、濁流はどこかへと向かう。
それをかき分けて、私はある場所に向かっていた。
その場所に向かうのが、とりあえずは今私に出来る最善だと思うから。
肩が何度もぶつかる。
そんなの気にも留めずに、私は進んだ。
と――不意に、見知った顔が目の前に現れた。
「大和!」
「天利さん!?」
同級生の大和銀河だ。
私の声に、大和がこちらに近づいてくる。
「天利さん、無事ですか!?」
「ええ。そっちは?」
「僕も、一応は……」
大和は焦燥感や不安や恐怖といった、およそ思いつく限りの暗い感情を顔に張りつけていた。
その肩を叩く。
「このくらいでびびっててどうすんのよ。男でしょうが」
「……嶋搗君のレベルを僕に求めないでくださいよ」
む。
確かに今のは私がいけなかったわね。
嶋搗を男の基準に考えていた。
うん、それはいくらなんでも無茶苦茶だろう。あいつはいろいろ別格だ。
「それでも、少しは胸を張って見せなさい。気分でまで負けたら、潰れるわよ」
「……天利さんは、強いですね」
「まさか」
苦笑をこぼす。
「ただ、少し人よりこういう状況に慣れているだけよ」
「……なるほど」
大和は納得したように頷いた。
「まあ、今はそれよりも、早く逃げましょう、天利さん」
「逃げるって、どこに?」
「それは……」
大和が言葉に詰まる。
やっぱり大和も考えなしに人の流れに乗っていただけ、か。
「まったく、仕方がないわね。行くわよ」
軽く溜息をついてから、大和の手を掴んで、引っ張る。
「うわっ、天利さん!?」
手を掴まれたことが恥ずかしいのか、大和が顔を赤くする。
「なに恥ずかしがってるのよ、こんな時に」
それだけの余裕はあるってことかしらね?
だったら大和は意外と大物かもしれない。
「私に行くあてがあるわ。全力で脚を動かしなさい!」
そのまま、二人で全力で駆け抜ける。
遠くからはパトカーや救急車のサイレンが聞こえてきているが、多分そういった機関はここまでの混乱の中ではあまり機能できないだろう。
つまり、そっちへの期待は無駄ということだ。
ならばやはり、自分自身で切り開くしかない。
目的地にもうもう少しでつく。
そんな時のことだった。
――グァアアアアアアアアアアアアアアア!
気味の悪い叫び声と共に、何かが建物の陰から飛び出してきた。
人の姿。
けれどそれは、絶対に人ではなかった。
なぜなら人の目は三つないし、皮膚は毒々しい緑色でないし、手脚はあれほど細長くない。
あの巨大サソリもどきとは別にも生き物が来ていたの……?
背後で大和が咽喉を引き攣らせる。
「あ、天利さ――」
「少し下がっていなさい!」
明かにこちらに敵意を持つそれの懐に潜り込む。
そして、身体を回転する勢いをのせて、踵を思いきり脇腹に叩き込んだ。
その身体は、まるでゴムの塊のような、嫌な感触がした。
それが道路に転がる。
私は近くに生えていた街路樹の枝を一本へし折ると、その鋭い折れ口を逆手に構え、それの咽喉に突き立てた。
鈍い感触と共に、それが身体を、まるで陸に打ち上げられた魚のように大きく跳ねさせる。
しかしその動きが徐々に弱まり……そして完全に止まる。
よし。
「行くわよ」
「え……あ……」
「呆けてないで!」
「は、はいっ!」
私の怒声に大和が慌てて硬直していた身体を動かす。
そして、私達はようやくそこにたどり着いた。
第八国立異次元世界総合研究所。
異界研だ。
ここならば、半端な場所よりも、よほど安全に違いない。
なによりも……ここには武器がある。
超展開!
……ごめん、最近物語のペース配分がおかしい。
まあ最初からクライマックス、ということで。