1945〜1955.「必ず逢いに行く」
──1955年8月25日
イズリントンのクラーケンウェル、ジュエリー店の軒先に立つポストの前で一人初老の女性が佇んでいた。道路を行く車の排煙とエンジン音が沈黙をたびたび遮って雑踏と共に街を都会と嘯いて彩る。女性は手にした封筒を一瞥した後、思い詰めた様に瞠目する。
そしてとうとう、意を決したような表情で彼女は手にした封筒をその六角形のポストに放り込んだ。目的を果たしたからか、彼女はすぐに踵を廻らせて、そそくさと歩き去ってしまう。
「これでよかったのですね、旦那様……」
彼女は少し高い秋の空に向かい、誰に言うでもなくポツリとそう呟くのだった。
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──1945年10月25日
その日も郵便配達員はいつもの様に2度ベルを鳴らした。イズリントン、クラーケンウェル。その一角に立ち並ぶ同一企画の住宅街の一軒にそれは届けられた。封筒を最初に手に取ったのは給仕の女性だった。彼女はその宛名を一瞥して不審に思ったが、それは同時に瑣末なことでもあった為、後で主人に報告すればよいと、まずは目先の仕事に集中するのだった。
この館の主人は一人の老人だ。彼はもう何年も前から天涯孤独だと聞く。彼女がここに雇われてから数年は経つがそれ以前から彼は一人で身の回りのことを全てこなしていたようだ。それが、腰を痛めてから世話を焼く人がいないからと彼女が雇われたのだ。彼女は慣れた手つきで朝食を拵えて老人が身支度を整え終わる前にテーブルを整える。本来なら彼女が身支度も手伝えば良いのだが、いかんせん彼がそれを嫌がるので致し方ない。
ようやく、主人が朝食の席につき二人っきりの朝餉が始まる。老人は味に文句を言ったことはないが、一度も称賛したこともなかった。彼女も口数が多い方ではないので、二人の朝食は長い沈黙でもあった。
「そういえば……」
不意に彼女が珍しく切り出した。老人はそれを物珍しげに眉を上げて、ほぼ眇めとなった双眸で彼女を一瞥する。彼女はエプロンの中から一枚の封筒を取り出し
「今朝、こんなものが……」
そう言って封筒を老人に差し出した。彼はその封筒を眺めながら、テンプルの曲がった装飾の老眼鏡をかける。そして、彼は宛名をまじまじと眺めていると、その指と視線が固まる。
「私は10年来こちらでお給仕させて頂いておりますが、そんなお名前の方がこちらにいらっしゃったでしょうか……?奥様のお名前でもありませんし……」
彼女は宛名について老人にそう尋ねる。しかし、老人は硬直したまま、どこか懐かし気な表情でその掠れた女性の名前を呆然と眺めているのだ。
「あの、旦那様?」
彼女は訝し気に老人に呼びかけるが、彼は惚けて返答をしない。彼は椅子の横にかけていた杖を使って徐に立ち上がると、朝食に殆ど手をつけることなく、食卓を去ってしまった。女性は急いで彼の跡を追い
「旦那様!いかがなさいましたか?お食事がお気に召しませんでした?」
彼女は老人にそう尋ねる。老人は立ち止まると首を横に振って
「少し、一人にさせてくれ」
老人は喉を震わせて嗄れた声でそう言うと、覚束ない足取りでそそくさと、自分の部屋に帰っていくのだった。
そして、家々の煙突が、鶏肉を炙り夕食の支度を始める、夕火の刻。彼女が給仕の仕事の殆どを終えて夕食の仕込みに入った頃、彼女は老人の部屋まで呼び出された。
彼女が彼の部屋を訪れると、老人は二つの封筒を彼女に差し出した。一つは、今朝届いたもので、もう一つは紙幣が詰まったものだった。
「旦那様、これは……?」
給仕は不思議そうに尋ねる。老人は2度ほどすわぶきを繰り返して
「Ms.ジェーン。これは少し先、私が死んだ後の話だ」
そう切り出した老人の目は座っていて、彼女は何か深刻な話なのではないかと身構える。
「もし、私が死んだら、その手紙の宛名の女性を探してその手紙を届けてやって欲しいんだ」
老人はそう言うのだ。そして、紙幣の詰まった封筒を一瞥して
「それは、貴方へのものだ。依頼料として受け取って欲しい」
「言っている意味がよくわかりません。お給金ならもう充分頂いております。それに、その手紙の宛名の人物を探すというのは今からでも探偵に頼めばよろしいのでは……?」
老人に彼女はそう提案する。しかし、老人は黄昏の空を眼鏡に写し窓の外を眺めて
「私に、彼女を探す資格はないんだ。私はね、本当にダメな人間なんだ。仕事に目が眩んで本当に大切なものを老いさらばえるこの時まで何もかも気づけなかった。いや気付けないふりをしていたんだ……だから彼女を追い出したんだ……」
眇めに濁った老人の目には涙が浮かんでいた。
「そんなことは、ありません。旦那様は一代で財を成された素晴らしいお方です。私が保証いたします」
彼女はそう取り繕うが、老人の涙は止まらず嗚咽混じりの慟哭へと変貌していった。結局は彼女はこの依頼をよくわからないまま受けるという口約束がその部屋で交わされた。
そして、10年ほどの月日が流れた1955年8月20日。老人は一人自室で息を引き取った。老衰によるものだった。天涯孤独だった彼の葬儀はひどく寂しいもので、それが富の代償に失ったものであるのだと、不躾とは思いつつも彼女は感じてしまった。
彼の葬儀が済んだ二日後の22日。彼女の家の前に黒服の男が現れた。彼は遺言執行人を名乗り、彼は老人の遺言の中に自分の財産の半分を給仕のMs.ジェーン、即ち彼女に分配すると書かれていたというのだ。
また、遺言には続きがあり、件の手紙のことをくれぐれも頼むと念を推して綴られていた。この時彼女は10年前の手紙のことを思い出した。今の今まですっかりと失念していたのだ。それは老人の金庫の中に大切に保管されていて、彼女はその封筒を執行人から受け取ると
「あのこのお金で、彼のお墓を移すということは可能でしょうか?」
彼女はそう執行人に尋ねるのだった。
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「スコットランドヤードに顔が効くってのは先生唯一の取り柄かもしれませんね」
軽口を叩くのは男装の少女Ms.ワトスンだ。彼女にそう言われてホームズはバツが悪そうに煙草を吹かせる。
「まぁ、前の住所が分かってたからな、警察使えば簡単に足がつくわな」
ホームズは動画棚をいじりながら煙とともにそう吐き捨てる。
「それにしても、ひどい人ですね。そのご主人」
Ms.ワトスンは不機嫌にそう溢した。ホームズは忙しいそうな口ぶりで「何が?」と尋ねる。その手には噴霧器とアイロンが握られている。
「だってそうでしょう?勘当した娘さん宛の手紙を自分が死ぬまで送るななんて……そうとう意地の悪い人じゃないとしませんよ!」
彼女はぶっきらぼうにそう吐き捨て、紅茶を少し啜った。
「まぁ、それはそうかもしれないが、その旦那には旦那で思うところがあったんじゃないか?」
「例えば?」
ホームズの言葉にMs.ワトスンは訝しげに首を傾げる。
「そうさな、例えば……この手紙を探してもう一度帰ってきてくれる。かもしれないとか?」
ホームズはそう答えると、手に持った噴霧器で刺激臭を放つ液体を綿棒に塗り付ける。
「ちょっと、臭っ!何ですかそれ……⁉︎」
ワトスンは鼻をへしゃげて換気をするべく急いで窓を開ける。
「トルエン」
「そんなもの、紅茶を飲んでる横で撒かないでください!っていうか、何やってるんですか?」
怒りを滲ませながらも、ホームズが何をしているの気になりワトスンは不思議そうに尋ねる。ホームズは何をか言わんやと綿棒を封筒にすでに貼られた切手に近づけて塗りつける。すると、切手が綺麗に剥がれていく。
「柄を滲ませないのには少しコツがいるんだ」
ホームズは自慢げにそう話す。
「で、何をしているんですか?」
彼女は不機嫌そうに同じ質問を繰り返す。
「これら封筒に貼られていた切手を新しい封筒に貼り直す」
ホームズの言葉にワトスンは呆れたような口ぶりで
「えぇ……なんでそんな面倒くさいことをわざわざ……?」
ホームズは剥がし終えた切手を丁寧に並べていきながら
「この手紙がどんな道を辿ってここまで辿り着いたかは皆目見当もつかない。しかし、今ここにあるこの手紙がこの手紙の今であって、この手紙が辿った結果だ」
ホームズは一番中に仕舞われていた小さな紙切れ一瞥した後、今度はそれを梱包していた封筒や切手を見やり続ける
「そして、これらはその過程の証明だ。そして、これらは往々にして結果とはほとんど結実しない」
ホームズの言葉にワトスンは首を傾げる。
「例えば、この手紙を梱包していた封筒が一枚少なかったら、この手紙があと5年早くここに届けられていたら、何か変わると思うか……?多分何も変わらない。言ってしまえば、この封筒や切手は無駄にかけた年月の証明な訳で、要するに結果の上からすれば無駄の証明だ」
「じゃあ、なんでそんな無駄をわざわざ残すような真似を……」
「無駄だから残すんだよ。俺の知り合いの数学者の話しだが、そいつはとにかく頭が切れるくせしてどんなに簡単な数式でも必ず限界まで分解した方程式を几帳面に紙と鉛筆で書き綴る。そいつなら簡単に暗算できるような式でもだ。俺は尋ねた『なんでわざわざ簡単な式に方程式まで崩して解くんだ?確実性を確かめるためか?』ってそいつはなんて答えたと思う?」
ホームズの問いに紅茶を啜りながら「さぁ?」とワトスンは答えた。
「『暗算で解くのなら計算機を使うだろうし、そもそも暗算で解くのなら僕は数学者などをやってはいない。僕は数字が法則に従って変化するその過程を、因果を楽しんでいるんだ』だとさ……要するにだ、この手紙が宛名の元に届くという結果があったとして、そこに至るまでの過程は全て無駄というのは合理的だが、つまらない。つまらないのはそれだけで面白いことには勝らないんだ」
ホームズは鼻高々にそう弁を振るうが、彼の話す内容の9割は空虚で繕われたものだ。
「要するに、ただの気紛れってことでしょう?」
ワトスンの言葉にホームズはバツが悪そうな顔を見せる。
「それにしても、何で娘さん勘当なんてされたんですかね?」
ワトスンのふとした疑問にホームズは指を止める。そして僅かに間を置き
「もしかしたら、その送り主が原因かもな……」
そう答えるのだった。
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──1955年9月19日
デュラーの朝露がポストを錆びつかせ、郵便配達の青年の二輪車が、泥濘の土を跳ねて回る早朝の話。青年は不意に南の丘に広がる墓所を見やる。なにやら墓が一基移動されてくるらしい。こんな田舎に物好きなことだ、青年はそう思っていた。
今朝は最後の一軒、初老の婦人の住む家の前で立ち止まると、彼女の家のポストの位置を確認する。いかんせん彼女の家に何かを投函するのは初めてのことだ。この不思議な手紙のことは気になるが詮索無用、そう思い朝刊と共にその封筒をポストに挿し込むと。青年はそのまま走り去ろうとした。
すると途端、戸が開く音がして青年は慌てて二輪車と共に藪の中に転がり込んだ。少しして、初老の婦人が出てきた。彼女はポストを開けると、物珍し気に目を見開き、届いた封筒をしばらく見つめていた。そして、封を切って中身に目を通していくうちに、彼女の目には徐々に涙が浮かび出していた。
「本当に、貴方の言った通りちゃんと届きましたよ」
彼女は嬉しいような、悲しいようなそんな表情を浮かべ、後生大事に封筒と手紙を抱き抱える。
青年が後で聞いた話だ。彼女の恋人は黒髪の東洋人だったらしく、戦時、枢軸国だったその国の人間を差別する世論にひどく苦しめられたようだが、彼はめげることなくひたすらに彼女を愛したという。
そんな彼は常々言っていたそうだ。自分は彼女に「必ず逢いにいく」と綴った文を飛ばしたが、文より先に自分が来てしまったのだと。
そう思い出し、婦人はひとり口元を緩める。そして、ほんの僅かな涙を一筋溢しながら、彼女は空を仰いだ。
彼女が見上げた、晩夏の朝焼けはヘルメスの飛び立ったあの日にも似て、きっと、とても綺麗なものだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
多分初めて恋愛ものを書いたのでどんなオチにすればいいのかよくわからないまま突っ走ってしまいました……