1940〜1945.「No.9が鳴り止まない」
──1940年4月8日
バレンツ海に面したマーゲル島の南部の港町であるホニングボーグは4月の節気にして未だ北風は冬の気配を孕んでいた。滔々と弛む白い煙が、並び立つ民家の煙突から上っていく様子は冬の滞在を感じるには十分すぎる景観だ。
工場の排煙が棚びいて曇り空の鈍色に合流する様を海岸から傍目に男は意味もなく黄昏ていた。あと2時間で仕事に、この鈍色の空に向かわねばならない。北風に煙草の火を燻らせ、男は彼方に見やる工場の排煙にも似た煙を吐き出す。ラクスエルブの空は無風ならいいのだが、男はそう思い、浜辺を後にしようとすると、不意に砂浜に転がる瓶が男の目に入った。
それに男が関心を寄せた理由について述べるのなら、ただの気紛れ。しかし、気まぐれや数奇な偶然も知らぬ世に重なれば寓意を孕んだ奇跡になることも事実で、兎角彼はその数奇な偶然の先触れに指をかけていたのだ。
男が瓶を手に取ると、中には二枚の紙とコインが入っているようだった。男はそのメッセージボトルを自分の愛車に持ち帰る。彼はボトルを助手席に置いて封を切り、まずはコインを取り出す。
「BO……RIVER?」
ボリバル金貨、ベネズエラの通貨だったか。見たところイミテーションということも無さそうだ。続いて男は瓶の中にある二枚の紙、といっても一方は封筒だがとりあえず男は封筒ではない方の紙切れを取り出した。紙面には何やら文字が綴ってあるのだが、子供が書いたのだろうか、汚くて読めやしない。辛うじてアルファベットであることはわかるがこれが何語かまでは彼には判らなかった。だが、その文字の上に別の筆跡で別の文が綴られていて、これは辛うじて読めた。拙い英語だ。内容はというと……
──初めまして、この手紙を受け取った親切なあなたが、この拙い文を最後まで読んでもらえる事を切に願う。
下の文字はスペイン語をまだ習ってそう日が経っていない少女が綴ったものだ。だから、笑わないであげて欲しい、そして出来れば彼女のお願いを叶えてあげて欲しい。
お願いと言うのは、このボトルの中に同封してある封筒──
不意に男は手紙から目を逸らし、助手席の瓶に残った封筒を一瞥した。
──その手紙を本来の宛先人の元へ送ってやって欲しい。それがこの手紙をかいた少女の願いだ。私たちの国は地政が安定していない、外国に郵送する手段など私たちにはなく、こうして瓶に詰めて海流に祈るくらいしかできない。米国、或いは直接英国に流れつけばいいのだが……
同封した金貨は運賃だと思って欲しい。これを読んでいる貴方の国で、その金貨がいかほどの価値になるかは知る由もないが、きっと切手代にしても余裕でお釣りが来るだろう。少なくとも私の国ではそうだ。貴方がこの金貨をどう扱おうが私はどうも思わない。ただ何度も書くが、この娘の願いを叶えてあげて欲しい──
辿々しい英文を読み終え、男はようやく本題の封筒に手を伸ばす。きちんと封のされた封筒には香港の消印の押された切手がしっかりと貼ってあって、宛先はイギリスのイズリントンのようだ。
男は僅かに考える。スペイン語にボリバル金貨、この手紙を書いた人間がベネズエラの人間なのはほぼ間違いないのだろう。しかし、このメッセージボトルに同封されていたもう一つの手紙に貼られた切手に刻まれた消印は香港のものだ。どういう経緯でこのベネズエラの少女の元にこの手紙が巡ってきたのだろうか……しかしともあれ
「運賃は貰っちまったわけだしなぁ……」
男は手持ち無沙汰に胸ポケットから葉巻を取り出してそれに火をつける事なく咥えて、再び封筒を見やる。
「とりあえず郵便局か」
そう言って男は徐にアクセルを踏んだ。寂れた海岸線を抜けて林道を入って、しばらく荒涼としたツンドラの草原をひたすら走る。マーゲルは最北の島として名高いがその実、海岸線に小さな村が数個点在するだけの小さな島だ。故に郵便局も一つしかない。男は車通りの無い道を直走り、数分で郵便局にたどり着くとベルを鳴らしながらその扉を開いた。
「封筒と切手が欲しいんだが」
郵便局員にそう告げて男はありふれた封筒に獅子紋の切手を買ってそれを貼り付けて、メッセージボトルに入れられていた封筒をさらにその封筒の中に包み込む。
「なぁ、今日の消印はまだ間に合うか?」
男は郵便局員にそう尋ねる。
「いえ、今日は航空便の回収がもう来ましたので……」
郵便局員は辿々しくそう答える。
「あぁ、なら問題ねぇや」
男はそう言い、先程から火をつけず咥えたままだった煙草にようやくライターを当て、そう答えるのだった。
マーゲルは島のほとんどがツンドラの荒野で、畑も起こせない不毛な土地ばかりで利用価値のないが、男にしてみれば好都合だった。硬質で、広い土地、多少の凹凸はこちらで舗装やら整備してまえばいい、するとどうだ、天然の滑走路の出来上がりだ。黄昏の近づく仄暗い空の下、
男は車を滑走路の隅に停めると、その少し先に停めてあるトラックまで歩み寄る。トラックの中には一人の女性が雑誌を拡げて手持ち無沙汰にしており、男は窓ガラスを叩き彼女を尋ねる。
「今日は早いのね」
窓越しに彼女はそう言い、徐々にウィンドを開いて、男に手にしたリコリス飴を差し出す。
「荷物は?」
男はそれを一つ受け取って彼女に尋ねる。彼女は顎で彼の後方を指し示した。男は彼女の示した方角、自分で作り上げた滑走路に停めてある複葉機を見やる。そして、その機体に放り込まれていた麻袋を確認するなり、その機体に乗り込んだ。
彼は小慣れた手つきで配電盤を指で操り、ジャイロや高度計の具合を確かめるように二度三度と、プロペラを駆動させる。
「んじゃ、言ってくる」
男の言葉に車の中で男を見守っていた女性に男がサムアップしそう告げると、彼女は崩れた敬礼で応答してみせた。これが通例のようだ。
重い顫動音の後に、エンジンが落ち着きを取り戻してその脚を前方に駆動させ始める。徐々にスピードをあげ、フィヨルドを吹き抜ける北風と共に、鉄の鳥は数トンはあろうその体躯をふわりと空中に舞いあげてみせた。
プロペラの顫動音が、風を切る音とせめぎ合い、耳の感覚を麻痺させる。上り詰めるほど空は北風を浴びせかけ、ゴーグルは雲の湿気で曇るが、それもそこより高く抜けるとどうだ。そこには、晴も、曇りも、雨も嵐もない、途方もない藍が広がるのみだ。
男は知っていた。この国は美しい。この国を訪れた異邦人は口を揃えてそう言う。だが、男は知っていた。この国の美しさの本質は空の上にこそあるということを。雄大で荒漠とした大地を霜を巻き上げ舞う風が、黄昏の紅を帯びてフィヨルドの谷間を踊る。それらがいく筋も連なりこの国に夜が近い事を知らせるのだ。
──
────
1940年4月9日
暮れなずむ北海の夕焼けの中を一筋の飛行機雲を連れ立って、男は飛んでいた。もうじき黄昏が終わり、飴色のそらを縹が追いやる。男はこれより夜間飛行に臨まんとしていた。
「ファールスン、ファールスン聞こえるか。こちらマーゲルのサンテックス。北海の天候は良好。依然、ダンディーへ向かう」
男は計器板の横にある無線電話を取り、抑揚なく何度かそう繰り返す。すると
「──ファールスン、了解。お前がサンテックスなら今の景観を小洒落た仏語で行ってみろ」
無線からはノイズの混じった声でそう帰ってきた。
「ダメだな、蛙の言葉はわかんねぇ。そういえば、話は変わるがお前、聞いた話じゃオスロの出なんだって?」
男は無線越しの相手にそう尋ねる。
「──無線で私語は慎め……そうだが、それがどうした?」
無線越しの声は訝し気に尋ね返す。
「いやちょっとね、ボリバル金貨って知ってるか?」
「──ベネズエラの通貨だろう?」
「いやね、ここにボリバル金貨が一枚あるんだが、これ何クローネになるかと思ってな」
男は胸ポケットにしまっていた金貨を取り出す。金貨は夕焼けに当てられ艶やかに輝いてみせた。
「──俺はが先行してたのは考古学だったからな。経済学でもなければ南米史でもない。仮に金貨が本物だとして、肝心なのは金の含有量と金貨そのものの希少性だろうな、まぁ、専門家に見せてみればわかるだろう……」
無線の声は面倒臭そうにそう答えた。男は満足そうに金貨をまじまじ眺め終えると、金貨にキスして懐に戻す。
「──それよりも、もうすぐ国境だ。ダンディーのチャンネルは知ってるだろう?」
「馬鹿にすんなよ、何年この仕事やってると思ってんだ」
無線相手と他愛もない言葉をかわしていた時しもあれ、雲の隙間に黒光りする何かを男は目視した。
「……⁉︎」
それが、自分と同類であってそうでないと男は本能的に即座に察知できた。男はそれからすぐに距離を取ろうと、雲の中に姿を消し、しばらく雲の中に潜んでいた。
「──どうした?」
無線からそう尋ねる声が聞こえた。しかし、男は沈黙を保ったままだ。やがて雲を抜け、男はすかさず背後を確認する。背後には雲が並び聳えるばかりだ。
「──ダンディー便、応答せよ。大丈夫か?」
無線は先程よりも深刻気な声色で鳴り響く。
「何でもない、見間違いだっ──」
男が安堵の吐息を溢すが、刹那彼はとらえてしまった。北東の地平の先に僅かに登る陽の光、まだ朝焼けと呼ぶには些か早い、魁星の黎明の照らあげる黒い影、自分の機体のものとは異なる、もう一つの影を彼は視認してしまった。彼が後方を確認すると、そこにはこちらより一回り小さい小型の低翼機が迫っていた。彼は目のいい方ではなかったが、黒光りするその機体の尾翼に刻まれた黒い鉤十字が嫌でも目についた。
「ちくしょう!百舌鳥だ!!」
「──ドイツ機だと⁉︎そこはまだノルウェーの領空だぞ!どういうことだ……」
「そりゃらこっちが聞きぇよ!」
男は叫ぶがその声は荒ぶり殆ど潰れてしまっていた。ドイツ機は男の機体をはっきりと捉えてそして
「野郎、撃ってきやがったぞ!」
火薬の炸裂する音をプロペラの音に忍ばせて機銃が火を吹いている。男は旋回するが、当然のようにドイツ機も彼の後を追う。
「──ダンディー便、どうやらドイツ軍がこのスカンディナヴィアに進軍しているという情報が入った」
「てことはこいつはその斥候って具合か、ふざけやがって!小鳥が番犬を追いかけ回すなんざ気に食わねぇ、こいつだって型は古いが、いっかしの戦闘機だ!機銃だって、榴弾だって……」
「──そんなもの、使わないから搭載しているわけないだろう!」
男の言葉に、無線越しの声はそう吐き捨てる。
「しかし、弾積んでないこともあってか、機体性能は向こうのがいいはずだが、一向に追いつかれねぇな」
「──だが、流れ弾にはくれぐれも注意せよ。今、軍に応援を要請している。もう少しだけ辛抱してくれ」
そうは言うが、武器を搭載していない機体で逃げ回るのには流石に限界がある。応援を待つ間に蜂の巣にされるのは目に見えていた。
「なぁ向こうの機体、満載状態なら何時間くらい飛べんだ?」
「──ドイツ機に造詣がある訳ではないが精々2、3時間といったところじゃないか?」
「んだよ、こっちと大差ないじゃねぇか……」
男は文字通り雲の中に雲隠れして、相手の燃料切れを待つ作戦を思いついたのだが、どうやら夢想に終わりそうだ。
すると男は徐に舷灯のスイッチを切ると、それについでコクピットの灯りを全て落としてしまう。舷灯の消えたブルドッグは黒光りのみを放ち、雲間に溶けていき、すぐに姿を眩ましてしまう。ヴュルガーはすぐに後を追うが、一面灰色の雲の世界で舷灯もつけていない鉛色の機体を識別するのは至難だった。これでヴュルガーがはすっかり男の機体を見失い、男は圧倒的不利な狂瀾を既倒に廻らすことに成功したのだ。
「──!──!」
無線は何かを必死に叫んでいるが、ノイズがひどくて聞き取れやしない。男はそういうことにしておくことにした。
男の周りにはただ漠然とした孤独と闇が広がるばかりだ。古くから海上の夜間飛行は孤独との戦いだ。灯りひとつない、黒い海と、星すらない黒い空に挟まれて、計測器が狂っていないことをひたすら祈る。それは古来より夜という未知に対する克服であり、孤独と無象の間に心理が横たわるように、天の地の狭間には我々の哲学では想定し得ない妙諦が往々にして潜んでいるものだ。夜の真ん中にあるパイロットにとって機体は揺籠であり、棺桶でもある。このえもいえぬ感覚はどこか幻想的で、しかし破滅的な感覚に近いもので、だからこそ港街の灯りや漁火を目にするたび、飛行機乗りは夜という別世界から度々連れ戻される。尤も、まだそんな漆黒の世界に陥る様な時間ではない。海上を見れば疎らな船の灯りが目につく。孤独とは己が推し量るものであるのと同様に、その孤独を愛すのも、己が度量次第であった。
意を決したような表情を浮かべて突然男は再び舷灯を灯らせる。雲の隙間からそれをとらえたヴュルガーは獲物を見つけた様に男の機体に急接近してきた。
男はすぐさま急降下を始め、それに釣られてヴュルガーも彼を追いすかさず急降下する。重力が内臓を押し上げる。皮膚が圧迫される。背後から機銃の嵐が迫る。それでも男はひたすらに眼前の闇から目を逸らしはしなかった。刹那、男はすかさずハンドルを力強く握り、急上昇を始める。ヴュルガーはそれを見て彼を追うべく急上昇を試みるが……
男の背後でけたたましい轟音が響いた。まるで波濤を極限まで大きくしたようなその音は、ヴュルガーが海面に打ち付けられた音だった。
男は長年の慣れと勘で暗黒の中、機体と海面との距離を正確に把握して、ヴュルガーにドッグファイトを誘発させたのだ。そして、男の機体の舷灯をターゲットとして追い回していたヴュルガーは墜落する直前まで海面までの距離を理解できていなかったのだろう。
「どうだ見たか、小鳥が!」
男は盛大に笑ってやろうとしたが、突如腹部に激痛が走るのを感じた。腹部に手を伸ばすと、コクピットのランプに照らされて、その手には黒々と血がこびりついていた。手だけではない、血は上着を徐々に塗り潰しだすほどに溢れてきた。どうやら跳弾が命中していたようだ。
「くそ、痛え……」
男はすかさず無線を取り
「こちらダンディー便、ドイツ機はどうにかした。だが腹を撃たれちまった、不時着する。救助を頼む、座標は……」
男は計器板に目を落として絶句した。計器はどれも見たことのない数値や、このあたりではあり得ない経緯度を示していたのだ。
「どうなってんだ⁉︎さっきのドッグファイトでイカれちまったのか⁉︎」
男は再び無線を手に取り応答を願う。しかし、無線の向こうから聞こえるのはノイズだけ。男は途端に背筋に寒気が走るのを感じた。先程まで心強く運命を共にしていた機体と空が、ゆりかごと羽毛布団から、棺桶と墓場に変わって行くのがわかった。
「くそ、こんなんだったら俺が死んだら葬式では第九をかけてくれなんて頼むんじゃなかったな……」
男はそうぼやきながらすぐに不時着の体勢を整えるべく操縦桿を握るが、操縦桿すら彼の言いなりにはならず、機体はひたすらに上昇を続けている。やむなく相棒に別れを告げる為にパラシュートの支度を整えている時、突然闇が開けた。いや、正確には入道雲を抜けたというのが正しいのだが、それでも入道雲を抜けたその先で男は垣間見たのだ。
天と地の狭間を、雲が怒濤となって連なり黎明が宵を弔う野辺送りの葬列を男は目の当たりにした。男は悟った。これが、これこそが妙諦。
この高揚感、喪失感、恐怖、感動、それら全てが眼前に広がる青に帰結する。かつて哲学者たちが愛した知とはすなわちこれであり、それこそが自分の見る最後の景色であると、男は悟った。
男は僅かに血の滴る口元を綻ばせる。この仕事をしていて死を覚悟していなかった訳ではない。そして今眼前に広がるそれが今際の際に目にする光景であるというなら尚更……
「悪くない……」
男はそう口ずさむと、後は自分が無窮の青に混ざっていくのを感じるのみだった。
──
────
──1945年10月1日
視界に広がる無限の白に男は言葉を失った。こんなことになるなんて……飛行プランは確かに正常だった。モナコ、ローマと地中海沿いを経由しティレニアの海を渡ってチュニスに降り立ち、トリポリに停泊して飛び立つまでよかったんだ。スロッタを過ぎた辺りで突然の砂嵐に攫われて機体は損壊、気がついた時には男は砂漠の真ん中に放り出されていた。
幸いパラシュートが作動したことで事なきを得たが、事なき以外を全て失ってしまったという方が正しいのかも知れない。男は当たりを見渡すが、自分の機体は見当たらない。あの機体には通信用の無線だって搭載されている。それになにより水だ。機体には非常用の水と食料がわ僅かだが積んである。ついさっきまで身軽に空を駆っていた飛行機乗りもこの荒漠とした砂海においては小さな漂流者だ。
漂流者の男は十六方無尽に続く砂の大地を歩くより他になかった。立ち止まればすなわち諦めとなり、諦めとはこの状況下においては死を意味する。わかりきったことだからこそ、彼はがむしゃらに足を動かした。10、いや12程か彼が砂丘を越えると、蜃気楼に揺れる地平よりより少し近くに、黒く輝く柱の様なものを彼は視認した。
漂流者の男はすぐさまは走り出した。こんな何もない砂漠に、何かを見つけた。それはすなわち自分が探し求めていたもの。自分の機体である。男はそう確信した。だからこそ、それに近づくにつれて、男の目から光が徐々に失われ、確実に視認できるほどの距離になって男は声を失い、目前に来て力を失い膝から崩れ落ちる。
それは確かに飛行機がまるで十字架の様に地面に突き刺さっていた。しかし、男の乗っていたものではなく、今より以前、少なくとも2、3年以上前に墜落したと思われるものだった。
俯瞰で見れば黒々と輝いた希望の塔が、近づけば赤錆まみれの廃材だった。確かに珍しい話ではないのかもしれない。しかし、今のそれは男に自死すら決意させかねないほどに重大な問題だった。
ガタン、不意に飛行機が音を立てる。鉄板が倒れる音が響き、機体の影から一人の青年が現れた。えもいえぬ不思議な雰囲気を纏った青年だ。漂流者の男は驚いた様子で青年を見つめていた、青年も彼の存在に気づいて二人の目線がぶつかり合う。僅かな沈黙が生まれ風が舞いあげた白砂が錆びた鉄板を打ち付ける音ののち男が切り出した。
「あ、あんたも墜落したのか……⁉︎」
男は初めにそう尋ねた。だが、これは彼の気が動転していたからであり、本当は彼も気づいていた、この飛行機は間違いなく墜落して時間が経っている。だからパイロットがこの近くいるはずがないと
「──違う」
青年は抑揚のない声でそう答えた。
「フランス語がわかるのか……よかった、なら近くのキャラバンか何かの人間か?だったら助けてほしい」
男は言葉が通じる相手に出会えた安堵感で男は緊張が解けたのか、肩の力を抜きながら男はそう話した。すると、青年は首を傾げ
「なるほど、この言語はフランス語というのか。この広大な大地において特定の地域ごとに文化圏が形成され、異なる言語が生まれる。至極当然と言えば当然だが、難儀なものだ……」
青年の言葉に男は訝しむ、何やら話が噛み合っていないようだ。そして男は気づく、彼は言葉を放つ時、一度も口を開かないのだ。それだけではない、この砂漠の炎天下の中彼は与圧服にも似た装いに身を包んでいたのだ。
「あんた、一体……」
男は青年の正体を訝しむ男だが、途端に立ちくらみが彼を襲う。蹌踉めく男に、青年は「大丈夫か?」と駆け寄ってくる。喉が渇いた。男は錆びた飛行機を見やる。もしかしたら水が残っているかもしれない、男はそう思い
「なぁ、あの飛行機水は残ってないのか……⁉︎」
男は青年にそう迫る。
「水か、確かに見た──」
その言葉を聞くや否や男はその鉄の十字架に向かって走り出した。そして、荷台の位置までよじ登ると、その底を確認する。コクピットはひどく狭いので非常用の装備は荷台に積むのが殆どだからだ。そして彼は念願の水を見つけた。しかし……
「そ、そんな……」
男は再び絶望した。水は鉄錆で赤く濁っていたのだ。男は確信した。この水を飲めば死ぬ。飲まなくても死ぬことに変わりはないが、この死中においても、少なくとも男にこの赤く水を飲む度胸はなかった。
虚しくも男は飛行機ら降りていく。その途中、コクピットのあたりで男の脚が何かを蹴った。不審に思い男は飛び降りると、地面に突き刺さったコクピットの中を覗き込んだ。途端に男の顔が青ざめる。中には彼の先駆者であろうパイロットの干からびた亡骸がそのまま残されていたのだ。男は思わず飛び上がって飛行機から逃げ出す。するとそれを見た青年が
「あまり動かない方がいい。人間は動けば汗をかく。そして人間は水が体内から無くなりすぎると死んでしまうのだろう?」
説得するような口調で淡々と男の目をしっかり見て
「日向にいても汗をかく。ここに来て休んだほうがいい。それこそが長生きのコツだ」
そういいながら飛行機の影になった自分の隣の地面をポンポンと叩くのだ。男はまだ青年が何者かわからず彼を訝しんでいた。
「お前は何なんだ!ここで何をしていた!」
男は今頭の中で抱える最も大きな疑問をそう投げかけた。すると彼は少し考える素振りを見せ
「誰か、という問いについては答えられない。というより私が私以外の誰かに私について形容し得る言葉が存在しない」
青年は淡々と切り出し、そして
「二つ目の問いについては答えよう。星を待っていた」
青年は臆面もなくそう答えるのだった。
──
────
あれからどれだけの時間が過ぎただろうか、真上にあったはずの太陽が気が付けば西の空に堕ちようとしていた。その間、漂流者の男は自分の汗を舐めながら青年の忠告通り、影の中で動かずじっと待っていた。影で休もうと寄ってきた蜥蜴を捕まえて男は少しだけ血を啜った。その間、彼と同じく隣に座っていた青年とは一切言葉を交わさなかった。いや、交わせなかったという方が正しいのかもしれない。
命の瀬戸際の焦燥感の中、おしゃべりできるほど男の肝はでかくはなかった。もうじき日が沈む。日が沈めば夜が来る。夜が来れば確かに涼しくはなるだろうが……この装備では砂漠の寒暖差で余計に体力を奪われるのは明白だ。青年はというと、依然何を考えてるのかわからない表情でじっと空を眺めている。
あぁ、あの時早合点して飛び降りず、危険でも飛行機と一緒に墜落していれば……いや、結果論か。そとそも飛行機と一緒に墜落していれば、それこそこの飛行機の二の舞を……
不意に男は思い立つ。そしてすぐさま飛行機のコクピットに向かうと、パイロットの亡骸に目もくれず彼の足元に設置されている無線に手を伸ばす。もしかしたら無線機は生きているかもしれない。そう考えたのだ。彼は夕焼けで辛うじてボタンやダイヤルが視覚できるからできないかの薄闇の中、それでも現役パイロットのスキルもあってか、おぼつきながらも無線機を弄っていく。しかし……無線器を使う電気を賄う方法を失念していた。
「ダメか……」
男が万事休すと項垂れていると、不意にコクピットの遺体のポケットから一枚のコインが転がり落ちた。男はそれを拾いあげると、BOLIVERと刻まれた金貨の様だ。男が視線を上げると、その尾翼に書かれた剣と獅子の紋章が目についた。ノルウェー軍の機体だ。しかし、ここはサハラの砂漠……ノルウェー軍の機体が何故こんな所に……それもなんでベネズエラの金貨を持っているんだ?男が訝しんでいると、青年が男の背後まで近づいてきた。
「それ、持っていくのか?」
青年は少し寂しげな声でそう尋ねる。初めて青年のほうから話しかけてきた。男はふと思ったが、そこではない
「それってこの金貨のことか?」
男が尋ね返すと青年は頷いた。
「なんだ、お前も欲しいのか?別に欲しけりゃやるよ、でもお前だって無用の長物だろうよ?なんせ俺たちはここでくたばる運命みたいだ」
「運命?」
男の言葉に青年は首を傾げる。
「なんだよ、だってそうだろ?俺たちは砂漠のど真ん中にほぼ丸腰で放り出されたんだ。奇跡でも起きない限り生きて帰れやしねぇよ」
自暴自棄に男は吐き捨てる。青年は少し考え込むように俯いて
「お前が生きて帰れば奇跡になるのか?」
そう尋ねた。男は呆れた様に鼻で笑いながら「そうだな」と返した。
「了承した。だが一つ頼まれてくれ」
そう言って青年は一枚の封筒を男に手渡す。
「なんだこれ……」
男は思わずそう溢した。日も完全に傾き、肉眼では文字も捉えられないほどの暗闇の中男はポケットのライターで火を起こしてそれを観察する。それは砂埃にまみれてひどく草臥れた封筒で辛うじて読める宛先はイギリスになっていた。
「それを届けてやってほしい」
青年は男にそう言い渡した。
「お前の手紙か?」
と男は尋ねる。青年は首を横に振る。
「彼の運んでいた手紙で唯一彼のそばに落ちていたものだ。その手紙以外は何処かに落ちたか、はたまた墜落した時に焼けたか……とにかく、その手紙を届けるべきところへ届けて欲しい」
青年はそう答えた。
「だから……届けるも何も、俺たちはこの砂漠から生きて帰れないって──」
男がいい終える前に突然、空が光を放つ。それは昼間散々照りつけてきた太陽などとは比にならないほどのま眩い輝きを放ち夜闇の空を燦然と照らしていた。
「な、なんだ……⁉︎」
「奇跡」
男が二の句も継げないでいると青年はそう呟く
「お前は言った。お前が生きて帰ることができたならそれは奇跡だと。ならばここより、奇跡を起こすとしよう」
青年はそう言いながら躊躇いなくその発光体に歩み寄ろうとする。
「ま、待て。お前、それが何か知ってるのか⁉︎」
男のその声には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。無理もない、人間はえてして自身の想像よりスケールの大きなものを恐れるものだ。そのスケールこそが、人間の限界であるともいえる。
男の言葉に答えることなく、青年は足を止めない。
「何なんだ、一体何がどうなって……」
「星を待った」
たじろぐ男を他所に青年は一人思い返すように呟いた
「何年も、何年も、あの飛行機がここに落ちてくるよりずっと前より。私はここにいて星を待っていた。そして今日、星が来た」
刹那、眩い閃光が砂丘を塗りつぶし。男の視界ごと、彼を白い闇の中に誘っていき、ここで男の記憶は途切れている。
「お前、本当になんなんだ?」
朧げな記憶だが、あの白い闇の中で二、三言、あの青年と言葉を交わした気がする。
「何なんだという問いには答えられない、ただ一つ言えるのは私はお前ではないということだ」
「そんぐらい俺だってわかるよ、それで俺は死んだのか?」
「まさか、お前はこれから近くのキャラバンのテント前で目が覚める。ここでの会話は忘れてしまうだろうが、瑣末なことだ」
「最後までよくわからんが、結局は助けてくれたってことだよな?礼は言っとくぜ、ありがとな」
男は憔悴しきっていた先ほどとは異なり落ち着き払ってそう言った。
「礼には及ばない。手紙のこと、頼んだぞ」
「そりゃいいが、何であんたこの手紙にそんなに拘るんだ?あんたには何も関係ないもんだろう?」
男の問いに青年は少し難しい顔を浮かべ
「そんなもの決まっている。手紙は届かないと意味がないからだ。言葉が綴られただけでは記号のままだが、誰かに読まれて初めてその価値を本質を見出す」
「そしてなにより」と青年は続ける
「それを送った人間、届ける人間、送られる人間、そしてその手紙自身も本懐を果たすことを望んでいるからだ」
青年はそう答えた。それに納得してか、男は何度も決意するように頷くと、青年に手を差し出す。青年もそれを取ると互いに握手を交わした。
彼の手の感触が徐々に肌のそれではなく、どことなく木や土に近しいものに変わっていく。視界が白から灰へ、灰から黒へと変化していく。何かがあった、誰かがいた、そのはずなのだが思考が纏まらず、うまく思い出せない。露の匂いがする、露、水、水の匂いがする、喉を通る、胃と肺へ流れ込んで──
「──げぼっ!!」
言葉にならない嗚咽を撒き散らして男は目を覚ました。肺な痛く痒い、咽せた時のあの感覚だ。一体何が起きたのか、男は周囲を見渡すと、簡易なベッドの上で彼は多数の人間に囲まれていた。彼らは彼の知らない言語を用いて何かを話し合っているようで、その中でも一人の少女が
「あなた、私の言葉わかる?」
と話しかけてきた。男は戸惑いながらも頷くと、彼女は安堵の表情を浮かべる。
「よかった、フランス人だったね」
「ここは?」
少女に男は尋ねた。
「私たちのキャラバンよ、因みにここは私たちのキャンピングカーの中」
少女は答えると、男の横に構える窓のカーテンに手を伸ばし一気に開く。外には確かにいくつものトレーラーやテントが構えていた。
「俺は、一体……」
「あなた、二日前の早朝あたしたちの野営地の前で倒れてたのよ。ひどい高熱と脱水症だったから、面倒見てあげたってわけ」
彼女は最後に「因みにわたしが見つけたのよ!」と付け足し、彼女の説明に男は「そうか……」とだけ答えた。
「それにしても、なんであんな砂漠の真ん中で行き倒れてたの?」
少女に問いかけられたことで、彼は辿々しくも、これまで起こったことを整理しながら語り出した。スロッタ近郊で竜巻に接触して飛行機から放り出されたこと、ほぼ丸腰でサハラ砂漠に放り出されたこと、飛行機を探して彷徨っていると、自分のものでは違う機体を見つけたこと、そこで……誰かと会って……何かがあったこと……男は記憶を振り絞る。確かにあの飛行機の袂で誰かと何かを交わした、そして何かと遭遇した。本来なら一生忘れられない様な、そんな事に……しかし、記憶は都合よくそこを、そこだけを黒く塗りつぶしているようで、うまく思い出せないのだ。
「ちょっと!その飛行機の残骸って、コクピットにまだ遺体が残ってるっていうやつ⁉︎」
少女は目を見開きそう尋ねる。男は戸惑いながらも頷いた。
「嘘でしょ、たしかあの飛行機ここから100km以上距離あるわよ⁉︎」
少女は男の言葉を周囲の人間にも伝えると彼らも同じ様に驚いた顔をした。そして、口々に何かいい始める。
「あなたを拾った地点から、そこまで少なくとも180kmはあるんですって……本当に本当なの?」
少女は訝しみながらそう尋ねる。彼女のいうことが本当なら脱水症状下で見た幻覚と思われても仕方ないだろう……
男はこの件は自分の幻覚だったということでいいかと、小さくため息を吐き、徐にポケットをまさぐる。すると、慣れないものが入っている事に気づいた。男が取り出したそれは一枚の金貨と封筒だった。
男は何かを悟った様に、口元を綻ばせると少女を呼び寄せ彼女の手に金貨を手渡した。
「これ金貨⁉︎ 」
「君が俺を見つけてくれたんだったろ?だったらそのお礼だ、受け取っておいてくれ」
少女は金貨を受け取ると目を輝かせて走り去っていった。誰もいなくなった車内で人知れずラジオが流れるばかりで、男は目を閉じてあの光景を思い浮かべる。夢だったのか……?とてもそうは思えない。砂漠に聳え立つ飛行機の残骸、青い空と白い砂漠の真ん中にただ凛然と聳える鉄の卒都婆……夢であるはずが、忘れられるはずがないのだ。高揚と胎動する脈拍にタクトを委ねる様に、ひたすらに、ラジオから流れてくる交響曲第9番が鳴り止まないのだ。