1921〜1930.「偶然の潮騒に揺蕩って」
──1921年10月5日
香港、九龍。建物も道も鉛色のこの街は空さえ鈍く曇り切っていた。英国統治下にあって植民地として屈辱的な思いを滲ませていたが、その実、彼らの栄華のお零れにあずかれたのもまた事実である。
貨物船の荷物を荷台に詰め込み男は車のエンジンをかけた。人々の雑踏が犇きあうこの道を羅便臣道と呼び、香港が清から英国に譲渡された際に初めて作られた道路である。
この大通りをひたすら南に突き進めば尖沙咀。港町だけあって九龍で最も栄えているといっても過言ではない。この街には英国人や中國人だけではなく、貿易や商談で訪れた様々な人種がわんさかと溢れかえっている。今日の荷は確か、金華の豚肉に、英国宛の郵便、それと綿だったか、絹だったか……まぁ中身は重いか軽いかくらいでしか判断しない男にしてみればそんなことは瑣末な問題だった。
尖沙咀駅の時計台が正午を告げる鐘をけたたましく鳴らして街に響かせる。もうそんな時間かと男はいつもより少し飛ばし気味にアクセルを踏み込む。油麻地に隣接する香港港口の貨物庫までたどり着くと、荷台に乗せてあった荷物を全て降ろし、さらに今日詰め込むものに関しては自分の足で停泊する貨物船や帆船に貨物として詰め込まなければならない。そして日銭を貰う。単純だが力と体力のいる沖仲仕の仕事だ。港は昼時だと言うのに屈強な男たちの声で溢れかえっている。いや、昼時だからこそ仕事が押して苛立っているのかもしれない。男もさっさと仕事を済ませるべく、荷物を確認する。豚肉とやはり綿だったか、これらは今日の荷ではない。肉は冷凍倉庫に、綿の方は繊維を扱う倉庫にそれぞれ届け、あとは倉庫の方で管理してもらう。印さえ貰えればこちらの仕事は終わりだ。残る手紙だが、これは今日のものだ。男は腰を据えて木箱を持ち上げる。
いかんせんこの紙の山の重い事、紙に染み付いているのがインクだけなのか訝しみたくなるほどだ。男がゆっくりとあたりを気にしながら進んでいると、不覚にも死角になっていた前方からきたロシア人の荷車とぶつかり、木箱を落としてしまう。すると木箱の杭が外れて、いくつかの手紙を外に舞い落としてしまう。
「気をつけろ!」
ロシア人の男はそう悪態を吐き捨てると、そそくさと荷車を押して走り去ってしまった。ここでは誰しもが忙しなく自分の都合で手一杯なのだ。
男は言い返しかけたが、それを抑えて落とした木箱からこぼれた手紙を拾い集める。一枚でも拾い損ねたら大変である。男は見る限り全ての手紙を拾い集めると、開いた隙間からそれらの手紙を木箱に戻すと、後ろポケットに忍ばせていた小型の金槌で杭を叩き直し、何事もなかったかの様に木箱を封じてしまう。風が吹いていたわけでもあるまいし、恐らく全て拾えたことだろう。男は漠然とした自信でそう確信すると、英国行きの貨物船に向かって再び走り出すのだった。
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──1921年10月6日
手紙、それも香港切手の貼られた英国宛のもの。碧眼にはそうとしか見えなかった。いや、瞳の色で見てくれが変わる手紙があるとするなら是非お目にかかりたいものだが、とりもなおさずロシア人の船乗りは奇妙な事に、このロシア行きの貨物船の中にあって英国行きの手紙が紛れ込んでいるのを発見したのだ。
「どうします?」
若い船乗りが先輩に辿々しく尋ねる。
「英国行きの船に連絡を取ってみる、こちらの手違いの可能性も捨てきれない。一応この手紙は金庫で保管しておこう」
ベテランの船乗りはリスクを避けるためそう答え、彼の提案によって手紙は本来滅多に使われない金庫の中にポツリと押し込められることとなったのだった。
そして貨物船は、南シナ海を横断するもののほぼ北極海航路を辿りっていた。英国の郵政に確認したところ、香港の消印の押された手紙の数が確かに足りないとのことで、ムルマンスクに使いを寄越すので、そこまで運んで欲しいというのだ。船は航路を進み、カラ海に差し掛かった頃である。船は文字通り大きな障壁に衝突していた。流氷である。北極海航路は開拓されたとはいえ未だ危険な航路、流氷の少ない夏場であればまだしも、冬の近づきつつある時宜にあって、こうした立ち往生をくらう船が少なくなかった。しかも今回は巨大な叢氷に船が乗り上げてしまったのだ。船体の底には穴が空き、少しずつ水が入り込んでくる。幸いにも分厚い氷河がタイミル半島の北端まで陸続きに続いていた上、その近くを捕鯨船が通っていたこともあり、この事故での死者はゼロであったが、その貨物は悉く極寒の海に沈んでしまったのだ。
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1930年5月20日
チチリヴィチェ・デ・ラ・コスタの海岸で少女は鉄の塊を拾った。この浜には海流のせいかあらゆるものが流れてくる。大人たちの中にはそれらを売ってお金にする人たちもいる。私もこれを売ればお金になるかな、少女は胸を躍らせていた。
街の男たちはみんな石油っていう黒い水を掘りに行ってから帰ってこない。世界中が恐慌の中にある中、この国は平然こそ繕ってはいるが、それも見てくれだけだ。事実、この街はもう死んだ。ここより栄えることは最早ないだろう。この国自体、石油なしでは生きてゆけない程に、緩慢な自死の道を歩んでいるのだから……おじいちゃんはそう言っていた。少女にはその意味がわからなかった。だが、大人たちが悲しい目をしているのだけはわかった。
誰かが悲しいのは嫌だ、自分も悲しくなるから。だから、もしこれがお宝だったら、みんなで山分けするんだ。そうしたら出て行ったお父さんもお母さんも帰ってくるかな?みんな、お金がないって、そう言って出ていくんだ。だからこれがお宝だったらいいな。少女は鉄の箱を後生大事に抱えて寂れた街の、路地裏にある錆びた扉を叩いた。扉の向こうから返事は聞こえないが、少女は躊躇う事なくその重く錆びついた扉を開く。扉の向こうは様々なガラクタの櫛比する狭い小部屋で、その奥には老人がカウンターに腰掛けていた。
「おじいちゃん、これ見て」
少女はあどけなくそう言う。おじいちゃんと呼ばれた老人は曇ったメガネを擦りながら少女に歩み寄る。
「なんだい、どうしたんだいこれは?」
老人もまた、孫娘に話しかけるように、優しく少女にそう尋ねた。
「海で拾ったの」
海という言葉を聞いて老人は細めていた目を見開き
「こら!あれほど浜には近づいてはいかんと言ったろう!先日打ち上げられた魚雷に躓いてナーシャが吹き飛ばされたのを知らんわけじゃないだろう!」
そう嗄れた声で彼女を叱咤する。それを聞いて彼女はみるみる涙目になっていく。
「でも、お宝あったらみんなに元気出ると思って……」
辿々しく答える少女に老人は彼女の頭を撫でながら
「お前は優しい娘だ。最早この街に残された唯一の、皆んなの宝だ。だからこそ、もう決して浜には行っては行けないよ。もしお前に何かあったら私たちは……この街は本当にどうにかなってしまう……」
老人は震慄きながら彼女にそう懇願する。おじいちゃんを、悲しませてしまった。少女はもっと悲しくなった。老人は俯く少女から仕方なくその鉄の箱を受け取ると、それをまじまじと凝視する。
「こりゃ金庫じゃな。錆び付いとるが作られてからそう時間も経ってない。大凡、どこぞの難破船の荷物じゃろうな」
「お宝……?」
老人の言葉に少女は首を傾げ尋ねる。
「さぁ……?まぁ、開けてみるか」
老人は慣れた手つきでダイヤルを捏ねるが、手応えの悪さにすぐに難色を示した。
「こりゃ駄目だ。ダイヤルがダメになっとる」
老人は僅かに考え込むが、すぐに立ち上がると店の奥へと姿を消した。すると、1分も経たずして店の奥からけたたましい金属の摩擦音が鳴り響く。音は数分間続き、それが鳴り止む頃には少女の耳はぐわんぐわんとおかしくなり、未だにあの音が耳にこびりついていた。
老人は手や顔に金属の粉と汗を滲ませながら店の奥から戻ってきた。その手には件の金庫が抱えられていた。
「開いたぞ」
そうとだけ言って老人は少女の目の前に金庫を差し出す。
「お宝入ってた?」
目を輝かせて少女は尋ねる。
「まだ中は覗いとらん、お前が見つけたもんだ。お前が最初に見ればいい」
老人の言葉に少女は嬉しそうに頷いて、その錆びたノブに手をかけた。鈍い金属音を僅かに軋ませて、金庫の扉がようやく開いた。流石に金庫を称するだけのことはあって中には水が入り込んでおらず、中身は無事で、その中身に少女は手を伸ばす。
少女が金庫から取り出したのは一枚の封筒だった。老人と少女は訝しむ面持ちでその封筒を覗き込んだ。
「おじいちゃん、これなに?」
不思議そうに少女は尋ねる。
「あぁ、手紙じゃな」
老人は躊躇う事なく、その封を切り中身に目を通す。その文字と番地を一瞥して老人は再び封筒に手紙を戻した。
「なんて書いてあったの?」
少女の無垢な質問に老人は僅かに口ごもり
「さぁ、さっぱり読めんな」
とだけ答えた。
「おじいちゃんでも読めないんだ。なら私が見ても意味ないや」
そういうと少女は辺りを見渡し、そして
「ねぇおじいちゃん、紙とペン持ってない?」
そう尋ねた。老人は僅かに戸惑いの表情を浮かべたがすぐに笑顔を繕って「すぐ持ってこよう」とだけ告げると再び店の奥に消えていった。それを見送って、今度は少女も店の外にそそくさと駆け出してしまう。
店内は錆の匂いと廃材の櫛比する陋屋はがらんどうを極め、やがて少し先の波の音すら耳に入るほどの静寂に塗りつぶされていく。
その静謐を破ったのは少女だった。彼女は再び、今度は勢いよく店の扉を開くと満足気な表情と浮かべて入ってきた。今度はその手に空のマーマーレード瓶を大事そうに抱えていた。
「紙とペン、持ってきたけども何に使うんだい?」
老人が店の奥から再び現れてそう尋ねるが、彼女の手に抱えた空き瓶を見て凡その見当はついてしまった。
少女は老人からペンと紙を受け取ると、その紙に何かをしたため始める。
「何を書いているんだい?」
老人の問いかけに少女は
「前に街に来た白人さんが言ってたの、手紙を出すときにはお金がいるけど、こうやって瓶に詰めて海に流せば、誰かが拾ってくれるって」
と答えた。
「手紙を出したいのかい?一体誰に……?」
老人は更に訝しみ問いかける。その問いに少女は
「わかんない。でも、この手紙が読めて、この手紙を本当に届けるべき人に届けることが出来る人。そんな人に届くといいな」
少女はそう答えた。その答えを聞いて老人は目を見開き、彼女をえもいえぬ表情で見やる。少女は依然として唸りながらまだほとんど習いたての文字を必死に紙に綴っている。その姿はどこか凛然として、無垢故の無知すら恐れない輝きが見てとれた。
「書けた!」
老人が無意識に少女に見惚れている内に彼女は紙に言葉を綴り終えていた。
「見せておくれ」
そう言って少女から紙を受け取ると、老人は少女の書いた文に目を通す。しばらくして老人は
「よく書けているね。えらいぞ」
とだけ少女に言って彼女の頭を撫でる。そして
「どれ、私も少しだけ書いておこうかな」
そう言って老人が綴り出したのは少女の知るスペイン語とは違うものだった。やがて老人は書き終え筆を下ろすと、一度開けた封筒に糊を貼り、空き瓶の中に封筒と、二人の書いた手紙、そしてボリバル金貨を一枚同封した。
「どうしてお金を入れるの?」
海へと続く細い路地裏を行きながら、少女は老人にそう尋ねた。ただでさえ貧しいこの町でその金貨の価値をこの老人が知らぬはずもあるまい、少女は訝しんだ。
「海の神様に運んでもらうからね、その運賃さ」
「海の神様……そっか、そうだよね!」
老人の説明に納得したのか、彼女は何度も何度も頷いていた。カリブの海は鈍色の空の下黒く煌めく宵闇の褥のようで、この広大な寂寥を前にしては誰しもが皆、億劫を憶えてしまう。波は寄せては返してを繰り返し、ここから来た事、いずれここへ帰る事の全てを饒舌な沈黙で語りかけてくるのだ。
「さぁ、流しておいで。変なものが埋まったり落ちたりしていないか、くれぐれも注意して」
老人に肩を叩かれて、少女は海に向かって歩き出す。強い波が飛沫をあげて砂浜の白を白で塗りつぶす。少女は瓶を大きく振りかぶってその広大な溟渤に投げ込んだ。少女の膂力ではそこまで遠くまで飛びはしないが、潮はしかとに受け取ったと言わんばかりにその便を波に乗せてどんどん遠くへと流していく。
「偶然の潮騒に揺蕩って、この娘の元まで流れ着いたんだ。きっと届くさ」
既に見えなくなったメッセージボトルを見送りながら人知れず老人はそう呟くのだった。