1921.「お人好しは私もか」
──1921年9月29日
雲一つない快晴の玄界灘を海鳥の群れに紛れてドバトが一羽、潮騒を羽音でかき消しながら飛んでいた。
鳩の名をヘルメスと言い、先日男に託された書簡を背負った伝書鳩である。旅の無事を祈ってつけられたヘルメスという名だが、本人はもっぱら不服であった。何故なら彼女は雌であり、ヘルメスは男神の名だ。いかに鳩といえど、レディに対して男性の名前をつけるなど、耐え難い痴態だ。
尤も、彼女の気持ちが男に伝わるはずもなければ、今更男を詰るつもりもない。旅立つにあたって、祝いの席を設けてくれたのだから些細な事は水に流した。何せ彼女は鳥頭なのだから。それでも、空も飛べぬ犬ですら三日飼えばその恩を三年忘れぬと言うのだ、我々空を飛べる高等種である鳩が、一宿一飯の恩を忘れるはずもない。この背に背負った書簡、件の娘の元に送ることすら吝かではない。
ヘルメスはそう意気込んではいたが、水面に浮かんだ船舶に泊まり一休みするうちにそれら一切をすっかり記憶の隅に追いやっていた。いくら神話の名を借りようとも、彼女は神などではなく鳩であり、どこまでいってもやはり鳥だったのだ。
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──1921年10月2日
金華の街の、専らこのあたりの朝は家畜の声とトラックの地響きから始まる。今日も獣と人の喧騒に彩られていて、雑居ビルの並び立つ精一杯の見栄で拵えたこの都市エリアの裏手にもようやく陽の光が差し込んできた。
とある廃屋崩れの荒屋の三階、窓から吹き込む風にカーテンが踊って、部屋に風に連れられ明かりが舞い込んでくる。光は寂れた褥台で毛布に包まる女性の顔を照らし、彼女は重い瞼を気怠げに擦りながら隈のできた顔を覆い、開きっぱなしの窓の風に靡くカーテンを勢いよく締め直し、再びベッドに戻るなり寝息を立て始める。
か彼女が微睡の中に足を踏み入れてしばらくして、バサバサとけたたましい羽音が窓から入ってくる。加えて先ほど閉めたカーテンがまた開いた様で光の筋が再び彼女の顔に差し掛かる。光が瞼奥に幾度も眩くちらつき、その上羽音がいつまで経っても喧しい。
彼女は再び飛び起きると、階下に響く大きさでズカズカと足音を踏み鳴らし、今度は勢いよくカーテンを開き
「うっさい!!今何時だと思ってんの⁉︎」
と、騒音の主にそう叫んだ。因みに今は朝の七時半である。音の主は一羽の鳩であった。不思議なことに、鳩は彼女の怒鳴り声に反目することもなければ驚愕し、飛び去ることもなく、そこいらの梢にでも留まるように窓枠に足をつけた。
「おめぇがうるせぇぞ!」
階下の住人である男が声を荒げて窓を乗り出してそう叫んできた。その声にさらに
「喧しい!大家が自分の家で叫んで何が悪い!!」
と暴論を凄まじい形相で捲し立てる。その剣幕に気圧され男は二の句も継げず、おずおずと窓の中に消えていった。そんな寸劇の間も鳩はそれらに一切苛まれることなく、ただ凛としてそこに止まっていた。
「なんだい、この太々しい鳩は……」
彼女が鳩を睥睨していると、脚の環が目に入る。目を凝らしてみればそこにはLondonの文字。そして、彼女はこの脚環に見覚えがあった。何を隠そう、この脚環は彼女がこの鳩に装着したものだったのだ。
どういうことか、順を追って話そう。ここは浙江省、金華の町外れにある雑居ビル。ビルとは名ばかりの木造四階建のそれは彼女の祖父が遺したもので、彼女はそこの大家と一階の萬屋の商いで生計を立てていた。
萬屋の女店主である彼女は軋む階段を気怠げな足取りで一階の萬屋のカウンター前まで降りて行く。鳩はというと依然、彼女の腕の上にいたが、火腿を吊り下げる竿を見るやいなやその棒めがけて突然飛び立つ。そんな鳩を傍目にもせず彼女はガラス張りの引き戸の螺子錠を回してを戸を開くと、些か早い冬の訪れを伝える鼻をつく乾風と家畜の臭いが舞い込んでくる。いつものことだ。
彼女は辟易とした表情を浮かべて暖簾を上げると、そそくさと店の中に戻ってしまう。カウンターの椅子に腰掛け、足元の火炉の炭に着火剤とマッチ棒を放り込む。徐々に燻る炭を確認するとその上に水の入った水壶を乗せて、まるで一仕事終えたかの様に大きく息を吐く。不意に彼女が手にした筆を立ててクルリと旗の様に一回振ると、それを見てか竿に止まっていた鳩が彼女の目の前に飛び降りてくる。
この鳩は元々彼女の売り物だった鳩だ。いや、実際は彼女の伝書鳩だったのだが、数ヶ月前に日本の商人がこの街を訪れた際にこの鳩を倫敦の鳩だと僭称して売りつけたのだ。日本人は珍しいもの、特に欧州の品に目がない。実際にロンドンのエンゲージ・キャリヤー、実際に戦時に活躍した伝書鳩が店に転がり込んだこともあった。しかし、それは何年も前の話であり、既に肉として売ってしまった。その時の脚環をたまたま残していたのだが、まさかそれを嵌めただけで騙されるとは思いもしなかった。吝い話に聞こえるかもしれないが、商いとは往々にしてそういうもので、特に外国客などには売れればとりあえずは勝ちなのである。
彼女が徐に机の下から一枚の饼干を取り出す。軽く握るだけで粉々に砕けるほど湿気てしまったそれを半分だけ砕いてカウンターの卓上にそっと落とした。鳩がそれを啄むのを眺めながら彼女は鳩の背にある筒に気づき、彼女の顔が僅かに強張る。大戦が終結して数年経つが、まだその残滓はあちこちで燻っている。何処ぞの軍隊の司令書か何かであれば厄介なことに巻き込まれるのではないか、そう考えたのだ。しかし、日本の商人に売った伝書鳩がそんなものを運んでいるとはとてもではないが、考えづらい。彼女は留まった指を再び動かし、その筒を開く。中には一枚の紙切れが入っており、打字机で起こしたみたいに手本の様な筆記体で、一言綴られていた。
「はんっ、なんだいただの恋文かい。くだらないねぇ……」
女店主は冷やかすようにそう吐き捨て、忌みものを扱う様に指でその紙切れを摘んでヒラヒラと振り回す。差し詰め何処ぞのボンボンが興じて、伝書鳩の真似事をしようとしたのだろう。宛先は倫敦のイズリントンの番地が綴られている。
「馬鹿だねぇ……」
彼女は呆れ果てたようにそう言いやる。恋文を伝書鳩で運ぼうだなんて、小説の見過ぎじゃないか?伝書鳩の利用距離は基本的に200㎞前後、よくて1000㎞といったところだ。そもそもこの鳩が日本から来たということはその3、4倍の距離を飛んだ訳で、それは驚愕すべきことだが、ロンドンともなれば、その距離はさらに2倍、3倍となる。まぁ尤も、この鳩は浙江の私の家の鳩だったわけで、何をどう転んだって倫敦になんて飛びやしないんだがね。仮にロンドンの鳩だったとしても土台無理だって話さ……
彼女は失笑気味にその紙切れをストーブに投げ入れる。すると、突然細く強い風が店の中を貫いて、その風がストーブの熱に当てられた、投げ入れた手紙は舞い上がると、書卓の上に丁寧に着地する。彼女は再びそれを捨てようと手紙に手を伸ばすが、今度は鳩がその手紙の上に足を乗せて動こうとしない。まるでそれ以上手を伸ばせば啄くぞと言わんばかりの、形相で彼女を睨む。いや、鳩顔なので表情は変わらないが、凄みは伝わってくる。彼女はその鳥目に気圧され女店主は僅かにたじろぐが、すぐに威勢を取り戻し鳩に向かってメンチを切る。しばらく互いに膠着状態が続いたが、ついに女店主が折れた。
「わかった、わかった、私の負けだ。ったく、何が楽しくて朝っぱらから鳩と喧嘩してんだか……」
彼女はそう言いやり一旦店の奥に消えると、すぐに何かを持って帰ってきた。それは小さな鏝で、彼女はそれを炭ストーブの中に突っ込むと、今度はカウンターに置かれていた電話の受話器をあげてダイヤルを回す。
「もしもし。あぁ、私だ。久しぶりだね、そっちはどうだい?」
幾度めかの呼び鈴の後、彼女は受話器の向こうの相手に気さくにそう語りかける。
「──あぁ、こっちはぼちぼちさ。それでね、今日はちょっと聞きたいことがあってね……」
そう言うと、彼女はストーブに突っ込んだ鏝を傍目に一瞥する。
「──あぁ、倫敦に手紙を送りたいんだが、切手はいくら貼ればいいかね?」
頃合いか、と彼女は徐に鏝をストーブから引き抜くとそれを丸まり癖のついたその手紙に当てて引き延ばし始める。
「──恋人?そんなもん私に何処でこさえろってんだい?そんな冗談言う暇があったら、都会に住んでるあんたが作ってからにしな?」
そう電話相手を揶揄いながら、彼女は使い終わった鏝をストーブの隅っこに立てかける。
「あぁ、じゃあ身体には気を付けて、愛しているよ我が愛弟」
と、締めて受話器を戻す。鳩はというと、依然ビスケットを啄んでいる。彼女は先程ストーブにかけていた水壶を手に取ると、中のお茶を湯呑みに注ぎ込む。若干温いそれを口に含み鳩の啄んでいるものと同じ残りのビスケットを僅かに砕き口に運ぶが、余りにも不味かったのか、すぐにそれを地面に吐き捨てる。その後、僅かに間を置いて、何を思い立ってか立ち上がると、再び店の奥に消えて行く。しばらくして戻ってきた彼女の手には封筒と筆が握られていた。
「私の所為でどっかの誰かさんの恋路が断たれるってのは相応に寝覚がわるいからね」
自分に言い聞かせるように彼女はひとり口ずさむと、手紙に綴られた番地を封筒に写していく。そして、その封筒に手紙を詰め込むと、封をして、切手を張っていく。折角だから香港で手に入れた英国切手を貼ってやろう。
「やってるかい?」
ガラガラ引き戸を鳴らしながら入ってきたのは煙草を咥えた壮年の男だった。男は慣れた足取りでカウンターの彼女の目の前まで歩み寄る。
「おや、珍しい客だ。最近めっきり見なくなったからどっかに越したんだとばかり思ってたよ」
「香港に仕事で行っててね、一度戻って来れたけどまた直ぐに発たなきゃならないんだ。その前にここの火腿を買っとこうと思ってね」
男は愛想良くそう答え、無言で彼女に煙草の箱を差し出した。女店主はこちらも無言でそれから一本抜き取ると隣のストーブで火を点けて、慣れた手つきで竿に吊された火腿を切り落とすとそれを麻袋に詰め込む。忽ち店内には香ばしい燻製の匂いが広がっていく。その光景を見ている男の目に、不意に卓上の鳩が目についた。
「おや?この鳩は以前日本人に売ったと言っていたものとは別の鳩かな?」
机の上に太々しく居座る鳩を訝しむ眼差しでまじまじ見つめながら男はそう尋ねる。
「いや、前置いてたのと同じやつだよ」
女店主は火腿の入った袋を男に手渡しながらそう答える。「あぁ、そうだ」と付け加え、彼女は袋と一緒に一枚の封筒を男に手渡した。
「これは?」
「香港に行くんだろ?ちょっとしたお使いを頼まれてくれないかい?なぁに、その封筒を香港のポストに入れてくれればいいだけのことさ」
彼女にそう言われて、それを快諾した男は代金を支払って、手を振りながら再びガラス張りの引き戸をガラガラと音を立てて開けては閉めて男は出て行った。
女店主は男を見送って、手を振り下ろすと再び水壶を手に取りお茶を湯呑みに注ぐ。
「それにしてもあの手紙の送り主、仮にロンドンまで手紙が届いたとしてもその後については何も考えてなかったのかねぇ、切手も貼らずに住所だけ書いてても郵政は届けてくれんだろうに……よっぽどのお人好しと見たね」
彼女はそう溢しながらお茶を啜り、小息を吐く。お人好しは私もか……卓上の鳩、ミス・ヘルメスはというと店を出た男の遠ざかる後ろ姿をひたすらに見つめていた。まるで、彼女が運んだ手紙の行末を見送る様に。
「温いねぇ」
壁にもたれ掛かり、男から貰った煙草の煙が天井に燻るのを見つめながら、もう一口お茶を啜り彼女はそう溢すのだった。