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ヘルメスは南へ飛んだ  作者: 空原梨代
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1921.「ヘルメスは南へ飛んだ」

 ──一九二一年九月二十日、曇りのち晴れ。⬛︎⬛︎⬛︎記す。


 空を見れば、細く棚引く雲一つ。曰く、あれは飛行機が飛ぶ際に作る雲の足跡だそうだ。大戦景気の気も抜け切っていないこんな日和でも青空はどこまでも澄んでいて、殆どの人が気づいてすらいないこの国の危うい立ち位置を見透かしているとすら思えた。大きな声では話せないが、巷間で飛び交う陛下の病を嘆く声も上部だけのもののように思えて仕方がないのだ。

 私は僅かに浮ついた吐息と共にいつまでも慣れない煙管の煙を吐いた。煙は私の部屋の天井に溜まって脂の香りとして降ってくる。空はこうも澄んでいるというのに、私はといえば四畳半の部屋の隅、堆く嵩張った本の上に被った埃に息を吹きかけ、欄間から差す光に埃が舞うのをただ呆然と眺めるのみの体たらく。

 北の大国を打ち負かしてからというもの、この国は良くも悪くも大きくなったと感じる。大陸まで国土を広げ、世界でも存在感を増してきている。国力の発展も昨今目覚ましい進化を遂げ、半世紀前まで鎖国していたとは思えぬ程だ。しかし……それ故に考えてしまう。果たしてこの国はこのまま進んで良いものなのか。確かに戦争には勝った。技術力も向上した。国としても発展した。しかし、それでもこの強気な国の指針が、いずれ虚栄去勢となり崩れ去るのではないか、私はそう憂いてならない。

 とはいうものの、私とくれば憂うばかりで窓辺に向かい、終日(ひねもす)働きもせず親の財を食い潰す始末。だからといって、体を動かした所でこの憂いが晴れる事は決して無いと確信できてしまう。何故ならこの憂いの種を私は遠い西の果ての島国に置き去りにしてしまったのだから。

 その話をする前に、卒爾乍(そつじなが)ら私の身の上について少々語らねばなるまい。


 ──明治33年、上野、新橋駅の構内に日本初の自動電話が設置された年の初夏、私は横須賀商家の次男として生を受けた。幼少より意気地もなく、他人の是を非とは言えない。そんな子供であった。私が読み書きを覚える頃には十つ上の長男である兄は、既に高等教育を終え家の後継としての重責に苛まれ、私に構う暇などなく、記憶する限りわたし達兄弟の間に会話と呼べるものはほとんど無かった。

 あの頃から母は、優しき子と私のことをよく言ってくれたが、父は私を軟弱者と事あるごとに詰った。いや、私が軟弱者であることは事実で、父の言葉に異議を立てるつもりは無い。今思えば父は父で、兄と遜色のない秀才に私を仕立て上げるつもりだったのだろうか、今気づいた所でどうなることでもないのだが、ゆくりなくもこんな意気地なしに育ってしまった所為か、あの頃より父とはほとんど口を交わすことはなくなってしまった。

 尋常小学のある時分、父の伝で英国への留学を言い渡された。本来は不出来な私ではなく優秀な兄の為のものだったが、その兄が癆痎(ろうがい)に苛まれてしまったのだ。

 父にしてみればこんな穀潰しに海を渡らせたところで、既にありもしない圭角(けいかく)が更に剥けてしまう程度の(はか)は容易についていただろう。

 然し、しかして留学生なる甘露な三文字は、当時の父の目にさぞ煌々と輝いて見えたことだろう。当時、津田梅子女史がその辣腕を巷間で奮っていた時期とあって、裕福な家庭の才子は留学をするのが一種の誉れだった。勿論、それは多分に恵まれたことであり、本来であれば蛍雪で勤勉に勤しめど獲れる権利ではないのだ。故に、留学とは大変名誉なことであり、贅沢なことである。しかし、私にしてみれば押し付けられた贅沢などただのありがた迷惑でしかない。それに追従する周囲からの羨望や期待の眼差し、私に関心すらなかったあの兄ですら私に応援の声をかけるのだ。あの時ほど兄の背負う責の重さをひしひしと感じたことはない。

 かくて、長子がダメならと、父の(わたり)をつけた私の西端への旅程は否応もなくトントン拍子に事が運ばれ、私の唯一の味方であった母も人中が薬と、私の留学を喜ぶ始末。

 心ならずとは噯にも出せないが、こうして見聞を広めよという名文(たてまえ)と、頼る人なき異郷の地でその意気地を鍛え直してこい。願わくば帰ってくるなという大義(ほんね)の元、私は齢十にして英国、倫敦(ロンドン)に留学することになったのだった。

 こうして、私の倫敦イズリントンでの留学生活が幕を開けるわけなのだが、その殆どを割愛させていただく。理由は大きく分けて二つ。一つ、留学当初の記憶はもう殆ど覚えてはない。十年近く前の記憶ともなれば尚更である。二つ、緊張と重圧で気息奄奄(きそくえんえん)、満身創痍のまま踏み入った英国の地だったが、どういうことか、この国の空気は私の肌によく馴染んだ。とりもなおさず、予想だにしない程度にはありふれた日々だったのだ。

 とは言え言葉も伝わらず意思疎通も(まま)ならない異国の地、言葉の交わせぬ身ではあったが、留学一年目の年は下宿夫婦の乳飲み子達と並び言葉を習い慣れていき、翌年から地元の学校に編入した。勉学は嫌いではないし、その頃には言葉もある程度は理解できるようになっていた。日本に比べやや夏に物足りなさを感じることはあれど、それでも四季は四季であって節気の祭りや祝い事を歳の近い子供達と共に楽しんだりもした。

 そんな具合で西国の四季を二度、三度ほど巡った頃だったろうか、彼女に出会った。いや、出会ったのはイズリントンに来てからすぐだった。それでもその日初めて、目を合わせて、言葉を交わした。彼女は私の住む下宿先の近所に住む少女で、彼女はいつも一人子供たちの輪に入れず彼らの姿を物陰で羨ましそうな眼差しで眺めていた。

 なんでも、生来の吃り癖があるらしくそれが原因で揶揄(からか)われ虐められていたという。しかし、私のような異邦人にしてみれば吃ろうが、吃るまいが異国の言語に変わりない。

 その日、彼女が私に筆記体を教えて欲しいとせがんできた。どうやら学校で吃り声を出すのが恥ずかしいというわけで、先生に教えを乞えないらしい。その頃の私と云えば書写の要領でひたすらに筆記体を物狂いの様に綴り続け、地元の子供たちや大人以上に教本通りの綺麗な綴りで書けるようになっていた。尤も筆記体など崩れ字なのだから綺麗に書くというのはやや違和感があるがまぁよい。兎角、そんな故があって、私は教えを乞われるに至った訳だ。彼女は確かに他の子供に比べて若干ではあるが、要領が悪いように思えた。そして、それを恥じさらにどつぼへと陥る。そんな彼女にある種の共感、こちらの言葉で言うところのシンパシーなるものをわたしは感じていた。

 私は日本の商家の出で、彼女は英国の一般家庭の子だ。出自は異なれど根底の、彼女の心の淵源に私に近しい何かを、その時私は確かに感じ取ったのだ。それは形容してしまえば、忸怩(じくじ)たる劣等感、その上益体(やくたい)もない自虐心から来るもので、兎角。私は彼女に対して一等意識するようになっていった。

 彼女は彼女で異邦人の私に対しては生来の吃りを気にすることもなく藹々と言葉を並べることが出来た様で時が経つにつれ、私たちの関係は異邦人と吃者(どもり)から指導者と教え子、そして男女の仲へと変化していった。

 そして、八度目の時計塔の除夜の鐘を聴き終えた九年目の晩冬。それは一通の手紙として突然舞い込んで来た。

 手紙は父からのものであり、その内容に目を通し私は言葉を失った。兄が夭折したのだ。しかも内容はそれだけではなかった。何と、母も昨年、兄と同じ癆痎によって亡くなっていたのだ。

 私は膝から崩れ落ちた。異国の地にあって、確かに離れていたが、母は常々便りを寄越してくれた。確かに近頃、便りが滞っていたがそれも、便りがないのは何とやらと呑気に高を括っていたのだ。文によれば病に伏していたのはもう五年も前から、私に寄越す文には一切そのようなことは綴られていなかった。

 私は悔しくて、悔しくて、しかしそれ以上に汗顔の至で涙を流せるほどの羞恥心に苛まれた。

 私が色恋に耽っている間も、如何なる時も私の味方であり続けてくれた母は病と闘っていたのだ。こんな話があるだろうか。

 私は涙で滲んだ視界で手紙を読み進めるが、やはり視界がぼやけて上手く読めない。それでも、その文の続きには大凡(おおよそ)の見当がついていた。

 兄の夭折が意味するところは一つ、我が家の跡目が消えたのだ。そこで父は私を呼び戻し跡目に据える算段なのだろう。この時ほど私の目に瞋恚の宿っていたことなどあっただろうか、私の怒りは何も父の帰国命令に起因するものではない。母の死の報せをこの時宜に寄越したことだ。恐らく昨年、母の死を私に知らせれば私は二の句を継ぐ間も無く帰国の途に着く。父はそう踏んだのだろう。確かにそうかも知れない。だから伝えなかった。

 許せないが、父が私を日本に帰したくないと考えていたのであれば、それもやむなし、受け入れる他無かっただろう。しかし、兄が亡くなった途端、私に帰国を命じる。そして、その(つい)でと言わんばかりに母の死を突きつける。これが私には我慢ならなかった。

 私は父の気紛れで未だ母の墓前に立つことが出来ていない。そんな気さえした。

 それでも、私は飽くまで留学生という身の上。親である父にしてみれば俎上の魚も同然、煮るなり焼くなりお好みに調理できるのが現実だ。

 かくて、私は恋人を残して帰国の途に着くことを余儀なくされた。それが二年前の話だ──


 新しい煙管の詰まらぬことか、つらつらと平凡な言葉ばかりが羅列していく。畳に寝転び伸びをして、不意に見上げた曇り空に煙を吐き出す。私は横須賀に戻ると、父と顔を合わせぬ様に離れに移り住んだ。戻ってからというものの何に対しても意欲が沸かず、朝風呂丹前長火鉢の惰性を貪る始末だ。

 あれから彼女には会っていない。そもそも倫敦に戻っていない。戻ろうにも戻れないのが現状だ。せめて彼女に手紙だけでもと試みたが、悉く父に邪魔をされた。父は郵便局員を買収し、私の英国宛の手紙を全て焼き捨てる様に命じていたのだ。どうやら使用人の誰かが父に告げ口したらしい。"倫敦に私の思い人がいる"と…… よもや郵政にまで顔が効くとは、当時の私は汗顔と焦燥の入り乱れた形容し難い顔を浮かべたことだろう。

「色恋に(うつつ)をぬかすことなど私は許可していない。それもよもや西国の吃者など、巫山戯るのも大概にしろ」父ならきっとそう思ったはずだ。私に言わせてみれば、今更父にどう思われようが知ったところではないが、それでも彼女に文が出せないことが心残りでならない。ひょっとすると、彼女はもう私のことなど、すっかり綺麗さっぱり忘れてしまったのではないか……そんな風に思う時もある。それでも彼女に一枚、一度だけでいい、思いを、言葉を届けたい……

 いかんな、こう陰気になっていては……私は気分を変えるべく薄く鈍色がこびり付いた空の下散歩に出ることにした。

 横須賀の町は戦後の経済成長の波に押されて私が幼少の頃、目に映したそれとは大きく様変わりしていた。尤も、もう二年も前に帰国したのだからこの景色にも慣れた。しかし、石畳にガス灯が櫛比し、瓦屋根の家屋に硝子窓がズラリと陽の光を反射する様、和洋が折衷するこの街並みはやはり倫敦を思い出す。本屋に一瞥をくれれば鴎外先生の著した件の名著が巷を席巻していた。確かに素晴らしい作品だが、私はどうも好きになれずにいた。何せどうも他人事のように思えず読めば読むほど私は何処ぞの何某豊太郎とは違うだ、違わないだと頭の中で論駁(ろんばく)を一人繰り広げては懊悩(おうのう)しいつまで経っても帰結せずにいるのだ。

 その時、ふと足が止まる。私の目に留まったそれはどこにでもある萬屋(よろずや)だった。確かに意表を付くようなユニークな看板だが私が足を止めた理由はそれではない。私は不意に視界に捉えたそれを見逃さなかった。それなるは、店先に文鳥と共に並べられていた一羽の鳩であった。

 そして、その檻の下にはこう書かれていた。


倫敦(ロンドン)から仕入れた伝書鳩(エンゲージ・キャリヤー)、一五拾圓』


 私は目を疑った。しかし、何度見てもそこには確かに倫敦の文字が書き記されていた。早鐘を打つ脈拍衝動を抑えきれず、私は店の店主に迫り


「そこの鳩、倫敦から来たというのは本当(まこと)ですか!」


 らしくもなく声を荒げてそう尋ねた。


「おや、五丁目の坊ちゃん。えぇ、そうです」


 萬屋の店主は末広がりのように後退する頭髪を三角巾で覆いながらそう答えた。確かな鳩の足元の脚環にはLondonの文字と番号、恐らく軍鳩の名残だろう。


「英国人から買ったのですか?」


「いえいえ、買ったのは浙江の商人からです。なんでも香港で安く譲って貰ったとかで……」


 店主は辿々しくそう答えた。確かに、香港は英国領だ。英国の伝書鳩が売られていても不思議ではないが……私は、人を訝しむことは心得てはいたが、少なくともこの局面において、それを拭い去ることにした。一五拾圓、綜麻繰(へそくり)でなんとか事足りるか……そうと決まれば私は普段のうすら頓馬はどこへやら脱兎の如く家へ駆け戻り、引き出しの奥に後生大事に仕舞われていた札を乱雑に掴み取ると、しかと一五拾圓足るか僅かに逡巡し、足りたことを確認すると急いで踵を廻らせてまた玄関の戸を素早く閉めた。そして握りしめた札が手汗で滲みかねないほど切迫して私はその萬屋へ駆け戻った。すると、萬屋に置かれていた伝書鳩の値段が一六拾圓に変化していた。


「店主、値段がおかしくないかい?」


 私は口に出さずにはいられなかった。


「いえいえ、元からこうでしたよ?」


 店主は素知らぬ顔でそう(うそぶ)いた。「私は蛸坊主が……」と心の内で悪態を吐き、弱々しく睥睨すると、大きく溜息を溢してなけなしの貯蓄から一圓多く支払うことにしたのだった。

 鳩を持ち帰る途中、私はその鳩に名前を付けた。『ヘルメス』私が倫敦にいた頃聞き齧った希臘(ギリシア)の神話に登場する旅人の神の名である。さて、鳩を家に連れ帰るなり私はすぐに宴の支度を整えた。主役は他でもない(かれ)である。父の目の付けぬ間に離れの表座敷を貸し切ると、鯛の尾頭、(あつもの)(なます)とおよそ鳩には過ぎた餌が表座敷の卓の上に整然と並べられた。主役の鳩はと言うと、膾と、ひじきの煮浸しの大豆を少々(ついば)んでいた。

 私はその結果に概ね満足していた。このもてなしはこらから私より小さいその身一つで私と同じ旅程に向かう彼に私からの激励であった。過剰なことは大いに結構、足りないよりは、だいぶマシである。「さて」と溢して私は表座敷を後にし自分の部屋へ戻ると書卓の前に腰掛け、一枚の白紙の便箋と向き合う。

 そこに、それに綴る言葉はずっと前から考えていた。決まっていた。だから私は臆面もなく筆を走らせることができた。しかしそれでも一縷の不安が頭を過る。この文が届かなければいよいよ私と彼女との(えにし)が解けてしまう。そんな不安が危殆な(しこり)となって私の心に炎症を引き起こしてやまないのだ。私は紙に言葉を綴り、皺くちゃに丸めて捨て、また新しい紙を用意する。そして、さっき書いたのと同じ言葉をまた綴りまた丸めて捨てる……これしか無いと解りきっていてもそれでも踏み切れずにいる。いつまで経っても言を左右にするばかり、あの頃と何も変わっていないでは無いか。

 不意に私は朝ぼらけの滲む桃色の空に一瞥をくれた。空は昨日と変わらず薄曇りの候、薄曇り広がる雲の天鵞絨(ビロウド)から、まだ淡い光を滲ませる陽が輪郭を浮かび上がらせる。それを私の中で見て何かが吹っ切れた。私は書卓の紙を折り畳むと、急いで表座敷に向かった。表座敷では(ヘルメス)が忙しなく飛び回っており、その畳や襖、欄間に糞尿がこびりついていた。私はそれらに目もくれず、ヘルメスに手を伸ばすと、彼は間髪入れず私の掌にすっぽりと収まった。確かに、よく訓練された軍鳩の様だ。私は彼の背に昨日のうちに取り寄せていた巻き棒に便箋を巻き取り、それをケースに仕舞い込むとヘルメスに背負わせた。そして、縁側に向かいその窓を開ける。涼しい風が頬を伝い、吹き抜けていく。空を見みてか、はたまた風にあてられてかヘルメスは急に私の手の上で騒ぎ出したので、私は思わず「待て!」ともう片方の腕で翼を覆った。伝書鳩の扱いはイズリントンの新聞屋が飛ばしていたのをよく見ていたから、ある程度は理解していた。

 一度目の風が頬を伝い、二度目の風が髪を撫でて、三度目の風が目に染みると、私は「Go!」と高らかに声を上げてヘルメスを離した。ヘルメスは何ら問題なく得手に翼をを拡げて空へと舞い上がり、やがて南西の空に豆粒のように小さくなっていった。伝書鳩は彼らの帰巣本能を利用して文を運ぶものである。一般的に伝書鳩が手紙を運ぶことが出来る限界と言われているのは約1000㎞、およそ二五拾(にひやくごじゅう)里。ここ日本、横須賀から英国、倫敦まで約9000㎞だそうだ。限界距離といっても過去に例があるだけでどの鳩もそんなに飛ぶとは思われていないし私もそう思っている。しかし、何故か不思議と私はあの手紙が彼女の元に届く。そんな気がしてならなかった。

 私はすぐに支度を始めた。母の仏壇に手を合わせ、その後墓にも参ろう。(つと)(ひとえ)に彼女の元へ……ようやく踏ん切りがついた。ヘルメスが南へ飛んだ今日の空は、今まで拝んだどんな空よりも絶対に綺麗だ。そう思った。


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