1955.「考察はアフタヌーンティーの後で」
──1955年9月19日
麦の穂先に露滴る秋色の朝、未舗装の畦道を空気の抜けた二輪車が駆け抜ける。朝刊と郵便を運ぶ青年の二輪車だ。
アイリッシュの海原を駆けダブリンでフィドルの音色を拾いオーバンの酒気を帯びた風が吹く、長閑と呼ぶには些か寂れたこの小さな町をデュラーと言い、郵便配達員である彼は、この村に点在する約60軒の家屋に郵便物と朝刊を配って回るのが仕事だった。
朝一番、誰も歩いていない雑木林で川を挟んだコーズウェイを我が物顔で疾走するのが、彼の密かな楽しみだった。
配達は残すこところあと一軒、この土手先の小高い丘にぽつんと建てられた古民家だ。住んでるのはお年を召したご婦人一人で、なんでも若い頃に恋人が原因で村八分に遭ったとか。身寄りもないらしく、彼女の家にはここ5年ほぼ毎日朝刊を届けているがその実、彼女宛の荷物は疎か便箋一枚見たことがない。所謂天涯孤独というやつなのだろう。
青年は慣れた具合に身体を起こしながらペダルを漕ぎその勢いのまま緩急の激しい未舗装路を駆け上がっていく。坂さえ登り切れば後はよいよい、軽やかな足取りでブレーキをかけて二輪車から降りると、青年は荷台に積んである朝刊に手を伸ばすが、そこであることに気付く。
あること、というのは些か不自然かもしれない、正確にはあるものというべきか、兎角それは一枚の封筒だった。青年は宛先を確認するが、それは確かにこの家の住所を指していた。諄い様だが、5年間毎日のように郵便配達をしていて、彼女の家に手紙を届けるのは今日が初めてだ。その手紙というのがまた奇妙なもので、先述した住所も、実は一度で修正された後があり紙も古い。幾度となく雨風に晒されたような滲みや汚れが目立っていた。封筒そのものもさることながらそれに貼られた切手の数々、見たことのない切手がいくつも貼られている。恐らく、いや間違いなく海外の、それもかなり古い切手だ。そしてなにより不自然なのが、それらの切手には年月のまちまちな消印がきっちり刻まれているのだ。そして、封筒の端っこに、しおらしくまるで脇役であるかと言わんばかりに貼られた我らが女王の戴冠記念切手。これには数日前の消印がちゃんと刻まれている。つまりこれは、おそらく切手としての効力を発揮しているのはこの真新しい一枚のみで、他のそれらは単なる装飾、ラッピングに過ぎないということだ。
一体何でこんなことを……?青年はこの手紙が何なのか訝しむが、よくも知らぬ他人のことを詮索するのは無粋と感じ、小さく諦めにも似た溜息をこぼすと、朝刊と共にその便箋をポストに挿し込むのだった。
──何でこんなことを……?か。確かに、依頼の内容はこの手紙を件の人物に送り届ける。ただそれだけのことだった。助手の小娘にも眉を顰めて同じことを訊かれたよ。「どうしてこんな手間のかかることを?」ってな。
事実、俺が第三者だったら俺だってそう尋ねるだろう。でもまぁそうさな、強いて理由を繕うなら、ただの気紛れかな。
──
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──1955年8月30日
それは突然の依頼だった。ウェストミンスター・ソーホーの歓楽街で探偵稼業を営んでいた男の元にある日届いたそれは、突拍子もないうえ、ある意味非凡とも言える類のものだった。
「身に覚えのない手紙が届いた、どうやらこの家にかつて住んでいた人物に宛てた手紙らしくその人物にこの手紙を届けて欲しい」
というものだ。確かに探偵と称するが舞い込んでくる依頼は往々にして失せ物探しや浮気調査ばかり。戦後、あの焦燥とした日々から変遷し世界はすっかり様変わりした。四海波静かとはいかぬものの、それでも能天気な日和が続くこと自体は確かに愛おしいものだ。だが、とりもなおさず平穏とは退屈と同義であることもまた事実なのだ。
今日もまた近所の猫探しの仕事がある。あなや、こんな惰性にも似た退屈に塗りたくられていては、探偵としての存在価値を自分自身にすら疑われかねない。ただでさえ、ソーホーのホームズなどという肩書きと呼ぶには些か過多すぎる過多書きを近所の女衒や娼婦に押し付けられているというのに……
男は懊悩するが、兎角日銭を稼がねばならないのも事実であって……彼は立ち上がると散らかり散らした部屋をものを避けながら進み、今日の依頼である猫を探さんと借家の扉に手をかけたその時、奇しくもノックが二回、欅の扉を打つ。二度ベルを鳴らすのは郵便配達だけにしてくれ。辟易とした面持ちで、男はゆっくりとノブを回す。
扉の向こうには小柄な女性が一人小さな背嚢を背負って立っていた。若さの証左である雀斑を少し残した幼い顔立ちの彼女はそれに似合わない男物のドレスシャツにスキニーという男勝りな出立、しかもそのシャツも酷く草臥れておりところどころにほつれや汚れも目立つ。
「おはようございます、先生。これ、本日のご依頼です」
彼女は溌剌とした一揖の後、背後に回していた手から2通の封筒をホームズに差し出す。
「ご機嫌よう、Ms.ワトスン。丁度今仕事に向かおうとしていた所なんだ。いや嘘ではないよ?ターナーご婦人の猫がまた居なくなったんだ。ほら、なんて言ったかあの茶虎の……とにかく、彼を探しにいかなければならないんだ。では失礼するよ。あぁ、依頼ならテーブルに置いておいてくれ給え」
ホームズは吃りながら、しかしえらく饒舌に答えると、口調にも似て早々と部屋を出て行こうとする。しかし、そうはいかんとワトスンと呼ばれた少女は扉の前に立ち塞がる。
「毎度毎度、性懲りも無く……逃げる口実くらいもう少し工夫してみてはいかが?」
「いやしかし、本当にターナー夫人の猫が……」
ホームズの必死な弁明を一笑に付すとリタはおもむろに背負っていた背嚢を降ろし、口の紐を解いていく。ホームズはようやく気づいたが何やらこの背嚢、蠢いている。そして、彼女が中から取り出したのは一匹の茶虎猫であった。
「先生が猫探しを逃げる口実に使うことはハナから想定済みです。ですので朝のうちに捕まえておきました!」
勝ち誇った表情でワトスンはそう言いやる。彼女の服の汚れやほつれは猫探しによるものだったようだ。ホームズは後手に回ったと悟り膝から崩れ落ちる。
「どうせ探索もそこそこに呑みに行くつもりだったんでしょう?私が見てないと依頼にすら目を通さないし……」
Ms.ワトスンは項垂れる彼を他所に部屋に上がり込むなり、散らかり散らした部屋を睥睨し
「2日……たったの2日でこの始末……」
震えながらにそう溢す。彼女の目くじらが徐々に吊り上がっていくのが目を見ずとも目に見えた。釈明の余地なしと悟るも逃げる手立ても当然無く、渋々片付けんと身体を起こすが
「先生がやると余計散らかりますから、座って先程の依頼にでも目を通していてください」
Ms.ワトスンはそう吐き捨てると「どうしてこう徒疎かなのかなぁ」とぶつぶつ文句を垂れ流しながらテキパキと片付けを始めた。
彼女には悪いが彼女の言う通りなので、ホームズは格好付かずに古い椅子に腰掛けると、目の前の卓上に並べられた2枚の封筒に目を落とす。
どちらも同じようなハトロン紙の封筒に包まれているが片方はパンパンになる程に何かが詰め込まれており、片やもう一方は普通よりもやや厚めだが、それでも横に並べてあるそちらの封筒よりは一般的な厚みだった。訝しみながらもホームズは葉巻を一つ摘まみ、厚みのない方の封筒をペーパーナイフで解くと、中にはこれまた別の封筒が仕舞い込まれていた。
どう言うことかとホームズは眉を顰めこの封も開こうとするが、寸でのところで手を止める。何かがおかしい……このひどく草臥れた封筒をホームズはまじまじと観察する。すると、目についたのは球戯場の誓いが描かれたフランスの切手、フランス切手が貼られたそれは何をか言わんやフランスから送られてきたものであることは明白だ。消印は1945年10月20日。つまり終戦直後に送られたものだろう。宛先はクラーケンウェル……確かイズリントンの地区だったか?
要するにこの番地に住んでいる人間が依頼主ということか。ホームズは思うところ有り気にまじまじとその番地を一睨すると、悠揚迫らずその封筒にもペーパーナイフを充てる。しかし
「……?」
ここでホームズが先ほどよりもさらに不可解な表情を浮かべ首を傾げる。
「なんだこりゃ」
机の上に並んだ封筒の中身を睥睨し、ホームズはそう溢した。そこに掃除にひと段落がついたのか、はたまた依頼内容が気になってか、Ms.ワトスンが扉越しにひょっこりと顔を出す。
「簡単そうなお仕事でしたか?」
ホームズの書卓に歩み寄りながらそう尋ねるワトスンにホームズは形容し難い顔を浮かべている。
「なぁ、この封筒はポストに入ってたのか?」
突然ホームズは尋ねる。
「はい、そうですが何か?」
ワトスンは不思議そうにそう答えた。その答えに若干不服そうな顔を浮かべながらもホームズは「ふむ」とだけ溢す。
「依頼内容は単純だ、こっちの封筒に入ってた手紙を本来の届け先に届けてくれって話だった」
ホームズはパンパンに膨れた封筒をワトスンに差し出す。中には依頼内容の綴られたが入っており、要約すると『つい先日、身に覚えのない手紙が届いた。この届け先の名前を近所の人に尋ねた所、2、30年くらい前までここに住んでいた女性らしい。しかし現在の住所まではわからなかったので、探偵さんに依頼します──』とのことだ。
因みに、依頼書と同封されていたのは依頼料の500ポンド、猫探しがいつも1ポンドなので実質500倍だ。しかしそれほどの値段がつくような仕事とも思えない。ワトスンはそう訝しむ。
「俺もお前と同じ事を思ったよ。こっちの封筒の中身を見るまではな」
そう吐き捨てると、ホームズはもう一つの封筒をワトスンに手渡す。
「依頼書にあった受取人を探せっていう手紙ですか?」
ワトスンは特に臆面もなくその封筒を受け取ると、封の解けた封蝋を指で捲り中を検める。検める。検める……
「なんですか、これ……」
ワトスンは掌に広がるそれにホームズと同じように首を傾げる。彼らが総じて奇異の目を向けるそれは、封筒の中に、封筒、さらに封筒、そしてその中にさらに封筒と、計四回の封筒に過剰梱包された一枚の紙切れだったのだ。
「一枚目の真新しい封筒はここロンドンの消印、1955.8.25。つい先日のものだということは明白。そして二枚目」
ホームズ一枚の封筒を書卓に置き、二枚目の封筒に手を伸ばす。
「二枚目の封筒は切手と消印からフランスのもので間違いない、そして日付は1945.10.20。さらに……三枚目はノルウェーの切手、消印もノルウェーのものだ。消印は1940.4.8。さらに四枚目の封筒は香港のものだ」
ホームズは順番に封筒をテーブルに陳列する。すると、入れ子人形の末っ子の様に残った一枚の手紙が、仲間はずれと言わんばかりに端に恥を偲んでしおらしく佇んでいた。
「ワトスン君、この封筒の不自然な点を言ってみ給え」
ホームズはここぞとばかりに探偵面を満面に出してそう提起する。
「不自然な点ですか……いわんや、この意味不明な四重包装では?」
「その通り、だが少し視点がマクロだ」
「というと?」
指を振り勿体ぶるホームズの言葉にワトスンは訝しげに首を傾げた。
「1番外側。つまり、依頼主の梱包した封筒の消印は今年、1955年。しかし、次のフランスから送られてきた封筒の消印はどうだ?」
「……!1945年⁉︎10年以上前じゃないですか!あぁ!その次のノルウェーも1940年、最後の封筒なんて1921年!四半世紀どころか30年以上も前の手紙ってことですか⁉︎」
ワトスンは目を丸くしそう叫ぶ。しかし、ホームズは矢継ぎ早に次の謎を突きつける。
「俺が一番疑問に思っているのはこれだ」
ホームズは詳らかに指を差す。彼が指し示したのは宛先の欄だ。
「でもこれ、ロンドンの依頼主のご自宅の住所ですよね?そこに送られてきたというのだから当然なのでは?」
「そりゃフランスの封筒にロンドンの住所が宛先として綴られていることには何の疑念もない。問題は……」
ホームズは呆れた面持ちで三枚目と四枚目、つまりノルウェーと香港から送られたと思われる封筒をワトスンに差し出す。その両方の封筒の宛先がロンドンの住所を指しているのだ。
「これの何処が変だと?」
ワトスンはますます怪訝に眉を顰める。
「馬鹿!気付かんか、香港から送られたはずの手紙の宛先がロンドンであるなら、最初から英国に届くはずだろう」
「あぁ、そう言われてみれば……」と目を見開きあっけらかんとする彼女を他所にホームズは続ける。
「おまけに、この過剰包装の果てに待っていたのが……」
ホームズは封筒の中の中の中の中にいたく大切に仕舞われていた紙切れを一瞥する。封筒の中身は一枚の便箋で、不思議なことに過剰なまでに封筒に梱包されていたはずなのにその紙はひどく傷んでおり、綴られた文字も所々掠れている。
「えっと、なになに……?あ──」
「読み上げなくていい」
Ms.ワトスンの言葉を遮るように、ホームズはそう言いやると、綴られた筆記体を、シワシワに傷んだ紙を指でなぞる。
「なかなかに達筆ですね、本当に外国の方がこれを?」
ワトスンは首を傾げ尋ねる。
「達筆すぎるからな。こんな読みやすい筆記体を英国人が書くわけないだろ。こういうのは大抵、留学等である程度英語に造詣のある英国かぶれの坊ちゃんが教本に書いてある筆記体をそのまま写した様な文字だ」
ホームズは呆れた面持ちでつらつらと吐き捨てる。不意に彼の目はその文の最後の行で止まる。
「大正十年……?読めんな、中國語か?いや、このだが文言何処かで……」
その一行を一睨するとホームズは何を思ってか数年は手をつけていないであろう、埃を被って堆く積み上がった書籍の山を漁り出す。あれでもないこれでもないと上を下へと忙しなくしばらく手を動かしていたが、目当ての何かをようやく見つけたのか一冊の書籍を手に取ると、ページを捲りながらまじまじと目で文字を追い何かを探す。
「これだ……」
お目当ての何かを見つけたのか、一人何度も頷きながらホームズは踵を巡らせ手にしたハードカバー書籍をMs.ワトスンに突きつける。
「RASHO-MON?なんですかこれ……?」
ワトスンがホームズから手渡されたそれは漢字の横に手書きの翻訳が施された書籍だった。
「日本の作家の作品だ、日本文学を研究している知人から借りていたんだ」
ホームズは思い出したようにそう答える。
「はぁ、でもこの本がこの便箋と何か関係が?」
「奥付を見てみろ」
訝しむワトスンにホームズはそう言いやる。言われ通り日本語の横に英語が縦書きで不自然に並んだページを捲り続け、奥付にたどり着く。彼女のそこに記された文字を目で追うと、確かにそこには「大正六年」と書かれていた。
「大正(TAISHO)、日本の元号だ。そしてその本の翻訳によれば大正六年が1917年だ。ということは……」
「大正十年は1921年。今から34年も昔ってことになりますけど……?」
──香港切手の貼られた封筒の消印の年と合致はする。この手紙と封筒はセットで考えて相違ないだろう。問題は、何故、中國から日本語で書かれた手紙をユーラシアを転々としてイギリスに、しかも34年もの時間をかけて届いたのかだ……
「本来数カ国を跨いで手紙が送られてくる場合、一つ封筒に複数の国の到着郵便印が押されるものだ。こんな何重に封筒を重ねる事など聞いたこともない。それに、もし仮にこの手紙がリレー形式で、例えば中国からノルウェーへ、ノルウェーからフランスへ、フランスから英国へ送られてきたというのであれば本来、中国からの封筒にはノルウェーの、ノルウェーからの封筒にはフランスの住所が記載されていなければおかしい……」
ホームズは澎湃と湧き上がる知的好奇心と、そんな好奇心が尻尾を巻いて逃げ出したくなるほど複雑怪奇な謎の中にあって、手にした葉巻に火をつける事を忘れてたまま手汗で葉巻を湿らせていることに気付く。
「で、でもこの封筒がハナから別々に送られてきたものを依頼主が一つに纏めただけって可能性も……だって封は切られていたんでしょう?」
ホームズの考察に対してワトスンは尤もな持論を展開する。確かにホームズが検めた時には既に封は切られていた。依頼主が各国から送られてきた封筒を寄せ集めて、恰も一連のミステリアスな状態に仕上げることは可能ではある。しかし……
「何のために?」
ホームズのこれまた至極真っ当な質問にワトスンは言葉を詰まらせる。
「そ、それは……いたずら……とか」
二の句も継げず閉口した彼女がやっと絞り出したその答えを聞いて、ホームズは頭を抱えながら
「ただの悪戯を押し付ける相手に500ポンドもついでにくれてやるものかね?」
と、手にしてた湿りきった葉巻を机の横の屑籠に投げ入れ、もう一つの封筒から溢れんばかりの札束を忌み有り気に睥睨している。気難しい沈黙が詰まったソーホーの借家にテムズ川の微かな生臭さと、悠揚の余韻を共に運ぶ河風が西日のよく差し込む窓から吹き込んだ。それを皮切りにお互いに緊張の糸が切れたように項垂れて
「お茶を淹れてくれ、とりあえずティータイムだ」
ホームズのその言葉にMs.ワトスンは頷きだけで答え、無聊、不明瞭な依頼に対する考察はとりあえずアフタヌーンティーの後でと言う運に相なったのだった。