遠くはないうちに
デビュタントから数ヶ月後。
ネリッサ視点。
結婚が近づいて悩み出すssです。
(マリッジブルー)
不満はない。
でもそれは、納得している、という意味ではなくて──。
「はあ……」
その日の午後。
陽光の降り注ぐサロンでひとり、ネリッサは読み終えたばかりの小説をぱたんと閉じた。
とても素敵な物語だった。
身分違いの男女が恋に落ち、様々な試練を乗り越え、しあわせな結末へと至る──王道と呼ぶべき恋の物語。
子どもの頃はこんな恋愛にひどく憧れたものだった。
いつかこんな恋ができたら、どんなにいいだろうと何度も夢に見た。
でも、理想と現実は違う。
ネリッサには物心ついたときから婚約者がいて、しかもそう遠くないうち、結婚することが決まっていた。
そしてネリッサはその彼に、不満なんて一つもない。むしろ好きなほうだ。
優しいし気は合うし、最近は家の仕事も手伝っているらしい彼を、素直に尊敬している。
けれど。
「これは【恋】じゃないわよね……?」
よくわからない。
──先日ネリッサは、とうとう社交界デビューを果たした。
以来お茶会や夜会への出席が増えているのだが、その席につくたび、周囲から【結婚】について言及さることが多くなっていた。
『エトアルトさまとはどうなの──?』 と。
途端、今まで漠然としたものだった【結婚】といものが、急に現実味を帯びてきて、ネリッサは戸惑った。
(エトと結婚。わたしが……)
なまじ幼いころから一緒に過ごしていたせいで、今更、緊張もなにもない。
けれど結婚となれば、同じ部屋で寝起きし、食事やら何やらを共にするのだ。
「うーん……」
そこにこの小説のようなときめきなど、もちろんあろうはずもない。
ただ。
ただ……。
エトはこの頃──
「百面相もかわいいね」
「!」
穏やかな声とともに降ってきたキスに、ネリッサは悲鳴をあげそうになった。
いつの間にか目をつむって考え込んでいたらしい。
見開いたそこにいた婚約者を前に、ネリッサは硬直する。
「エ、エト……!? どっどう」
「『どうしたの』って? 近くに用事があったから寄ったんだよ。唸ってたみたいだけど、何考えてたの?」
……これっぽっちも気付けなかった。
驚きを隠せないまま、ネリッサは、隣に腰掛けてきたエトアルトを見つめる。
仕立ての良い黒の上着に隙なく結ばれたタイ。
翡翠色の瞳が愉快そうに細められて、つい今しがた唇を寄せられた頬が、熱を持ったような気がした。
「……も、物語の、こと」
「ふうん。あ、またこの作者の本読んでたんだ。好きだよね」
ネリッサの膝上に置かれた本を見やって、エトアルトが呟く。
ネリッサは動揺をごまかすように口を動かした。
「新作なんだけど、とっても素敵だったわ。身分違いの男の人と女の人のお話で、ふたりともすごく機転が利くの。敵役も信念があって魅力的で、見て、こんなに分厚いのに、一晩で読み終えちゃった」
「そっか。そんなに面白いなら僕も読んでみようかな。借りてもいい?」
「え? ええ、もちろん」
「ありがとう」
本を受け取ったエトアルトが、そのまま、ぱらぱらと中身をめくる。
その隣でネリッサは、まだ落ち着けないでいた。
先ほどのキスといい言動といい──そう、この頃エトアルトは、どこか変だ。
いや。変というより、愛情表現が濃密になった、というか……。
子どもの頃の彼はどちらかというと淡泊で、飄々としていて、あまり感情を表に出すほうではなかったのに。この頃はこうしてキスをしたり「好きだよ」と想いを言葉で伝えてくれることが多くなった。
(たぶん、あのデビュタントの日からだわ……)
そんな考察をしていたネリッサの隣から、エトアルトが名残惜しそうに立ち上がる。
「それじゃあ、そろそろ行くね」
「え、もう?」
「うん。これから食事会があるんだ。ちょっと面倒だけど、行ってくるよ」
「そう……気をつけて」
「うん。ネリッサもいい休日を」
言って、見送りのために立ち上がったネリッサの目元にまた軽い口付けをする。
「……」
そんなときネリッサは、どう反応すればいいのかよくわからなくて、ただ、彼を見つめ返すことしかできない。
エトアルトのことは好きだ。
キスだって嫌じゃない。ううん、じゃなくて──。
「……ネリッサ?」
顔が紅いよ。
言われて、ネリッサは慌ててかぶりを振った。
【不満はない】なんて、贅沢なことを言っている自覚はあった。
でも、あと一歩。
もう少しだけ。
この気持ちの正体に気付くために、ネリッサには考える時間が必要だった。
いつか彼に、そう遠くないうちに、想いを返せるように。
「いってらっしゃい」
そう送り出せば、エトアルトは柔らかく笑い返してくれる。その笑顔は幼い頃から変わらず、やっぱり、大好きだった。
読んでくださってありがとうございました!