後編
「婚約解消?」
両親の私室にはいると、母親が刺繍をしていた手をやすめて、不思議そうに言った。
(あいにく、父親の方は留守だった。)
母親はネリッサをそばへ呼び寄せると、愛娘の瞳を穏やかに覗き込んだ。
「どうして? エトアルトと喧嘩でもしたの?」
「違うわ。ただ、エトに、他に似合う子がいたの」
「まあ、それはどんな子? あなたも知り合いなの?」
「えっと」
母の質問に、ネリッサは一つ一つ答えて行った。母はネリッサが話す間、否定も肯定もせず、ただ静かに聞き入って、最後に「そう」とつぶやいた。
ネリッサは母を必死に説得しようとした。
「だからね、エトは、私と結婚するよりジュリエットさんと一緒になる方が幸せになれると思うの。私じゃ、歴史の話、わからないから……」
だんだんと小さくなっていったネリッサの声に、母は柔らかく笑った。
「そう、話してくれてありがとうネリッサ。あなたの気持ちはよくわかったわ」
そう言って、続ける。
「あなたは、エトアルトのことが本当に好きなのね」
「……え?」
思いがけないことを言われてほうけるネリッサに、だってそうでしょう? と母は諭すように言った。
「寂しい気持ちもあるのに、あなたはエトアルトがどっちの方が幸せになれるかを考えて決めたんでしょう? それはあなたがエトアルトを好きだからなんじゃないかしら」
「……私が、エトを?」
好き?
ネリッサは困惑しながら母を見上げる。
それは、そうだろう。エトアルトとは小さな頃からずっと一緒にいたのだ。恋とは違うけれど彼のことは好きだし、大切でもある。幸せになって欲しいと思っている。でもそれは家族としてだ。
「ねえネリッサ。一度エトアルトに話してご覧なさい。婚約をどうするかは、あなた達で決めて構わないから」
「……はい」
エトアルトに、話す。それでもしも彼が、いつもみたいに「わかった」と言ったら、それでこの婚約は解消されてしまうのだろう。
いとも、簡単に。
そう思うと、ネリッサの心臓の奥が一瞬、つきりと痛んだ。
エトアルトはもちろん「いいよ」と言うだろう。なぜなら彼は別に、ネリッサのことを特別好きだというわけではないからだ。ただ、両親に言われて婚約した、それだけの関係に過ぎないのだから。
ネリッサは今更ながらに、そんなことを思い出していた。
*
そうしてそれから数日後。ネリッサは考えに考えて、母の助言に従い、エトアルトに婚約解消について相談してみようと思い立った。
(普通に、普通に……)
自分にそう言い聞かせながら、いつものようにエトアルトの屋敷へ向かう。
通いなれた馬車での道のりも、これが最後になるかもしれないと思うとやっぱり寂しい気持ちがしていた。
「いらっしゃい」
その日も、(当たり前だけれど)出迎えてくれたエトアルトはいつも通りだった。ネリッサを迎え入れながら、さっさと部屋の奥へ入ってしまう。通された彼の私室で、ネリッサはしどろもどろになりながら口を開いた。今日はジュリエットは別件で出ているらしい。
「こ、こんにちは。いい、天気ね」
「……? まあそうだね」
エトアルトはちらと窓の外を見やって不思議そうに頷く。そうして「座りなよ」と言いながら自分も定位置の長椅子に腰を下ろした。ネリッサも対になっている向かいの長椅子に腰を下ろしながら、またしてもいちいち(この椅子に座るのもこれが最後かもしれない)などと考える。
と──その目にふと、見覚えのあるお菓子が映り込んできた。ネリッサははっとしてエトアルトを見つめる。
「エト、これまだ食べてなかったの?」
「食べたよ。でも、ネリッサも美味しいって言ってただろ。だから君の分もとっておいたんだ」
こともなげに言って、エトアルトはネリッサとの間に置かれたクッキーを一枚手に取ると口に入れた。そうして顔を綻ばせて「やっぱり美味しいね」とつぶやく。
(エト……)
ネリッサはなんだかとても嬉しくなって、緩みそうになった唇を噛み締めた。エトアルトの、そんな普通の優しさが好きだった。そうして、だからこそ、彼には本当に気の合う女の子と結婚して欲しいと思ってしまう。
ネリッサは意を決してエトアルトを見つめ直した。
「ねえ、エト。話があるんだけど」
「なに?」
「私たちの婚約、一旦解消してみない?」
あまり重くなり過ぎないように。さらりと言った、つもりだった。エトアルトは数回瞬きをすると、ネリッサをじっと見つめ返してくる。
「どうして?」
「それは……」
「僕とじゃ、恋が出来ないから?」
前に、小説のような恋愛に憧れたネリッサは、「決まった婚約者がいるんじゃドキドキするような恋が出来ない」と、そんなことを口走っていた。エトアルトは今、そのことを指しているのだろう。
ネリッサは微かに首を振る。
「そ、それもそうだけど、違うの……ほら、私たちって結局、お父様たちに言われて婚約してるだけじゃない? だからね、これからもっとこう、お互いに、気の合う好きな子が出来るかもしれないでしょ。その時、本当に好きな子と結婚した方がいいんじゃないかなって、思ったの」
「ネリッサはさ」
エトアルトはネリッサの言葉を遮るように言った。
「そうしたいの?」
静かに、寂しげに見つめられる。
そうしてふと、視線を下げられた。そんな彼は初めてで、ネリッサはひどく悪いことをしたような気分になった。
「僕は嫌だよ。結婚するなら、君とがいい」
「……エト」
「正直、これが恋かは僕にもわからないけど。でも僕は確かに君が好きだし、幸せにしたいって思ってるし、君との結婚生活はきっと、楽しいだろうなって思ってた。でも、ネリッサはそうじゃなかったんだ」
ネリッサは居た堪れなくなって、俯いた。皆、どうやって恋だと気づくのだろう。
「私だって、エトのことは好きよ。大切だし、幸せになって欲しいって思ってるわ。誰よりも」
「だったら、このままでいいじゃないか」
「でも」
ほとんど叫ぶような声になってしまった。
「私じゃ、エトと歴史の話出来ないんだもの!」
「……は?」
とたん、エトアルトがまた瞬きを繰り返す。
「歴史? 歴史って、なんの話?」
ネリッサはこうなったら全部話すしかないと涙ぐんだ。
「だってエトは歴史の勉強が好きでしょ? ジュリエットさんといつも楽しそうにしてるし……だから、エトにはジュリエットさんみたいな子がお似合いなんじゃないかって思ったの」
「…………僕が、ジュリエットと?」
一瞬考えるように目線を横にやると、エトアルトはすぐに首を横に振った。
「ないない。彼女は僕より歴史に詳しいし、僕だってついていけないくらいだし」
「でも」
「ねえ、ネリッサ。もしかして、それで最近悩んでたの?」
「……」
「元気ないなって思ってたんだ。すぐに帰っちゃうしさ」
そう言って、ほっとしたようにはにかむ。
「あのね、ネリッサ。僕は歴史の勉強は好きだけど、君といるのもすごく楽しいよ」
「……本当?」
「本当。ああ良かった、じゃ、この問題は解決だね。婚約解消なんて二度と言わないでくれよ」
心臓に悪い、とエトアルトは笑いながら長椅子の背に身体を預けた。そうしながら、柔らかく微笑む。
「決めた。僕、君に恋してもらえるよう頑張るよ。じゃないとまたいつかおんなじこと言われちゃいそうだからさ」
「……それって、あなたはもうとっくに私に恋してるみたいな言い方だわ」
ネリッサが顔を真っ赤にしながら言うと、エトアルトはしばし沈黙する。ややあって、頷いた。
「うん、多分そうなんだと思う」
私たちはまだ子供で、だからこれから先のことはわからない。
けれどずっと先の未来でも、今と変わらずクッキーを食べあえるような仲だったらいいと。
高鳴る心臓を抱えて、ネリッサは、そう思った。
お読みくださってありがとうございました**