冥送
同日、6月6日
東京都港区、青沼霊園
都会からこの空間を隔絶するように鬱蒼と茂った木々の隙間から月明りが差し込み、無数に並んだ鼠色の墓石を微かに照らしている。
三上大聖は、その鍛え上げられた腕に巻かれた時計を確認した。時刻は午後11時を回ったところだった。
「しかし、広いな」
「ええ、まったくです。依頼人の話ではこの辺りのはずなのですが」
大聖の隣に立っている、堀田秀夫が後退した額に浮かべた汗をハンカチで神経質に拭いながら答えた。腹に蓄えられた脂肪で息苦しいのか、いつも呼吸が荒い。
二人は舗装された十字路の中心に立ち、辺りを見回した。しかし、無機質な石のオブジェが立ち並んでいるばかりで、人の気配はまるでない。
大聖はカーゴパンツのポケットからシガレットケースを取り出し、手巻き煙草に火を点けた。ホワイトセージ特有の清涼感のある香りが煙と共に風に漂った。
「墓地のど真ん中で喫煙なんて、呪われますよ」
堀田が心配そうな表情で大聖を見た。
「死んだ人間の殆どはとっくに成仏してるんだ、ここにはいねえよ」
生温い夜風が吹き込み、煙草の火が一瞬強まる。頭上で梢が笑うように揺れたあと、深い静寂が訪れた。
「未練がましくこの世に居座る幽霊には、この臭いはちょっとキツいよな。我慢しないで出てきたらどうだ」
大聖の野太い声が霊園内に木霊した。
「誰だ」
不意に、二人の背後から男の掠れた声が聞こえてきた。その声は、殺意が滲み出た恨めしいものだった。二人が同時に振り返る。
声の主を認めた堀田は「ひっ」と情けない声を漏らした。
杖を突いた老人が、真っ直ぐに大聖を見つめている。老人の口がゆっくりと開く。笑っていた。歯の無い口内が露わになり、白けた歯茎がむき出しになる。
老人の姿だけが闇の中から切り抜かれたように浮いて見えて、皺のひとつひとつ、シミのひとつひとつが鮮明に見えた。
黄色く濁った眼球が、堀田と大聖を交互に見る。
「お前ら、俺を、殺しに……」
下卑た笑みを浮かべた老人は、その表情とは裏腹に、息苦しそうに言葉を細かく区切りながら喋った。
「堀田さん、本を」
老人から目を離さずに大聖は堀田に告げた。堀田は小脇に抱えていた分厚い本を大聖に手渡す。
「所長、あの老人は浮遊霊で間違いありません」
大聖は頷き、臙脂色の表紙に「慰霊赦魂典」と書かれた古ぼけた本を捲った。
「我、現世に彷徨える魂を冥界に手引きする者なり。現世に残した悔恨を我に委ね、救いを求めし霊魂に永遠の安らぎを与えん」
大聖が言葉を言い終えた直後、老人の体を淡い光が包み込んだ。
「幽霊は幽霊らしくあの世に行かないとな。安心しろ、冥土に連れていくのが俺の仕事だ」
大聖は目を瞑り、胸の前で右手の人差し指と中指を立てた。
「──冥送」
大聖の言葉に呼応するように、辺りは眩い光に覆われた。瞬く間に世界から色と音が消失し、一面何もない真っ白な空間に、大聖と老人だけが相対していた。
「ああ……体が、心が、軽い」
老人は心地良さそうに呟いた。
「現世に留まり続けるのは苦しかっただろう。もう大丈夫、ここはあの世への入り口だ」
「……俺は天国に行けるのか?」
老人は不安げな表情で大聖に訊ねた。
「天国や地獄っていのはフィクションで、死んだ人間は皆等しく永遠の眠りに就く」
「そうか、そうか……」
「さあ、長話は無用だ、行きな」
大聖は老人の背後を指さした。老人が振り返ると、そこには立派な並木道が果てしなく続いていた。現世の木々とは違い、根、幹、枝、葉、その全てが無色透明で、時折どこからか吹くそよ風を受けて、陽炎のように景色を揺らがせていた。光に溶け込むようにひっそりと死者を送り出す道を、老人は恍惚とした表情で歩き出した。
やがてその後ろ姿は光の中へ溶けて、全ての景色は大聖が左手に持っていた赤茶けた本の中に集約していった。
不快な蒸し暑さと暗闇が視界に戻り、開かれていた本はひとりでに音を立てて閉じた。
その瞬間、大聖の体内を巡る血液が何倍もの質量を持ったかのように、彼は激しい倦怠感を覚えた。体に力が入らず、視界がぼんやりとする。
「終わりましたか?」
「ああ、すまないが、帰りの運転は堀田さんに任せてもいいか?」
「勿論です。任せてください」
堀田はそう言って、大聖の腕を自分の肩に預けさせ、墓地の出口へ向かって歩き出した。
「しかし、どうして霊というのは墓地に集まり易いのですかね。女風呂や更衣室のほうが魅力的だと思うのですが、人は死ぬと性欲が無くなるとか、そういうことですかね?」
大聖の体を支えながら、堀田は取り留めのない話を繰り広げた。
「……どんなに大切な人間が死のうと、死んでしまえばそれは記憶になっちまう。記憶っていうのは嫌でも薄れていくもんだ。けれど、墓参りに来る人間は死者のことを思うもんだろ? 自分のことを思い出してくれる場所に居たいんじゃないか?」
「そういうものですかね」
墓地の出入り口に大聖の愛車であるトヨタの黒のカローラが停められている。助手席に大聖を乗せて、堀田は運転席に乗り込んだ。
「行き先は、事務所ですか? それとも自宅ですか?」
「ん、自宅で構わない」
背凭れに深く背を預け目を瞑った大聖は気怠そうに答えた。堀田は「かしこまりました」と小さく答えてエンジンを掛けた。街灯のない真っ暗な道に、ヘッドライトが光が煌々と灯った。