堀田との出会い
現在、6月15日
東京都港区、三上心霊事務所
「……その後すぐ、親父は俺の前から姿を消したよ。それから十四年間も時が経ったんだな」
大聖は、背凭れに深く凭れ掛かり、天井を見上げながら呟いた。
「きっと、それ以上、所長のことを巻き込みたくなかったんでしょうね」
堀田が頷きながら言う。
大聖は、シガレットケースから煙草を一本抜き、火を点けた。14年前、父が吸っていた物と同じ、ホワイトセージの手巻き煙草だ。
堀田のデスクの上に置かれた固定電話が鳴った。咳払いをして、少し表情を作ってから受話器を取り上げる。
得意げに電話の応対をする堀田の姿を見て、大聖はふっと笑った。
それは、初めて出会った時の彼からは、想像もできない姿だったからだ。
大聖は、その日のことを思い出した。
秋山が自ら命を絶った次の日、家に帰ると、三蔵の荷物はすっかり無くなっていた。
七畳一間の部屋の中心に置かれたちゃぶ台の上には、古びた本がぽつんと残されていた。
表紙には「慰霊赦魂典」と書かれている。
適当にページを捲ると、目が痛くなるほどぎっしりと達筆な文字の羅列が書かれている。
しかし、目を凝らして字を解読すると、それは、冥送士に関する本だということが解った。
怨霊、浮遊霊、地縛霊、憑依霊、動物霊、更には守護霊の祓い方まで事細かに記されている。
どれほど前の時代の書物なのだろうか、紙は日焼けして、毛羽立っていた。
ふと、あるページに真新しい紙が挟まれていることに気が付いた。
紙には、三蔵の字で「オバケが出たら、念を籠めやすいポーズを片手でして、これを唱えろ」と書かれていて、紙が挟まれていたページの一文にペンで傍線が引かれている。
酷く稚拙で適当なアドバイスだったが、三蔵の字で書かれているため信憑性はあった。
念を籠めやすいポーズ……咄嗟に頭に浮かんだのは、忍者が印を結んでいる光景だった。
右手で、人差し指と中指を立て、胸の前に持っていく。
「我、現世に……彷徨える、魂を……冥界に、手引きする者なり。現世の……遺恨を、我に、委ね、救いを求めし……霊魂に、永遠の安らぎを与えん」
一字一字確かめながら読み上げてみたが、辺りに変化はない。
「霊が出ないとだめか。ていうか、線なんて引いていいのかよ……」
大聖が初めて霊を祓うことになったのは、それから数か月後のことだった。
春の夜、心地よい風が肌を撫でる穏やかな日に、大聖が酔歩していると、歌舞伎町の一角は騒然としていた。
二十人ほどの人だかりは、皆一様に首を斜め上に向けて、何かを見物しながらひそひそ話をしている。
「本当に飛び降りる気かな……」
野次馬の声を聞いて、大聖も正面の建物を見上げる。
五階建ての雑居ビルの屋上で、後ろ手に手摺を掴んで地上を見下ろす男が居る。
大聖は、建物の裏側に回ると、外階段を使って屋上に向かった。
男を見上げていた傍観者の群れが、一連の放火魔による事件とリンクした。
心のどこかで人の死を望む醜悪な興味。誰かが助けるだろう、という責任転嫁。
そういう人間には、なりたくない。
あの時、燃え盛る炎の中で手を伸ばした母を救うことができなかった。だから、助けを求める人を迷わず助けられる人間になることが、母に対するせめてもの贖いだと思う。
「今日はいい天気だね」
男の背中に向かって声を掛ける。
男はびくっと身体を驚かせ、こちらを振り向いた。
歳は30代前半くらいに見えるが、乱れた髪から覗く額は後退し、顎下にはだらしなく贅肉がぶら下がっている。
「誰だい、君は」
「多分、おじさんと同じくらい不幸な人間」
男は、眉間に皺を寄せ、苛立ちを露わにした。
屋上の縁に立ち、極度の緊張状態にあるためか、額は汗でぐっちょりと濡れて、眼鏡のブリッジがずり落ちている。
「君に私の何が分かるんだ。会社では虐げられ、嫁にも浮気されて逃げられた私の気持ちが、分かるのか!?」
「全然分からない」
大聖は、会社どころか学校にも行っていないし、嫁はおろか彼女すらいない。
男を刺激しないように、ゆっくりと、慎重に距離を詰めていく。
「そっから飛び降りれば、楽になれんのかな」
その言葉は、自問だった。拭い去れない過去も、一秒先の未来への憂いも、その一歩で、全てが消えるのだろうか。
「……終わらねえよ」
大聖は、独り言ちる。
男は聞き取れなかったらしく、不思議そうな顔をしている。
「悔いを残して死んでも、終わらねえんだよ。むしろ、死んじまったら、何かを成し遂げることも、誰かと愛し合うことも、できねえじゃねえか」
「……君はまだ子供だろ。大人になれば分かるさ。私には、何かを成し遂げるための気力や、能力も、もう一度誰かを愛せるほどの活力も無いんだよ」
男は寂しそうに大聖に背を向け、眼下のアスファルトを見下ろしている。
手を伸ばせば届くほどの距離に大聖は居たが、力尽くで男を引き戻そうとはしなかった。
「ヒデオ……だめ」
大聖の隣で、女の嗄れ声が聞こえた。
男は、はっとして振り返る。
「お母さん?」
白髪の混じった、ハリのない髪を後ろで結わいた、瘦せ細った女性が、我が子を心配そうに見守っていた。
男は両手で手摺に掴まって、肩を震わせ、涙を流した。
「死ん、だら……いけない」
女性は、喉からすり潰したような、不安定で、苦しそうな声を発した。
「母さん……ずっと、見守っていてくれたの?」
子供のようにしゃくり上げながら言う男に、女性は眉を八の字にして優しく微笑んだ。
「お母さん、息子さんのことは、これからは俺が見守るから、もう大丈夫だよ」
大聖が言うと、女性は深々と頭を下げた。
小脇に抱えていた慰霊赦魂典を左手に持ち、傍線が引かれた部分が載っているページを開く。
「霊にとって、人が生きるこの世は、すごく苦しい場所なんだよ。だから、お母さんのこと、楽にしてあげてもいいか?」
男は、困惑の表情を見せたが、大聖の素性をなんとなく察したらしく、涙目で頷いた。
ポーズをとることを思い出し、右手を胸の前に持っていき、人差し指と中指を立てる。
「我、現世に、彷徨える、魂を、冥界に、手引きする者なり。現世の、遺恨を、我に、委ね、救いを求めし、霊魂に、永遠の安らぎを与えん」
女性の身体の包み込むように光が発生し、その光は波紋を広げて、辺り一帯を飲み込んだ。
あまりの眩しさに、大聖が一瞬目を閉じると、その間に、世界は完全に姿を変えていた。
例えるならば、まるで雲の中にすっぽりと入ってしまったかのような、夢の中にいる心地だった。
変化したのは視界だけでなく、鼻孔に流れ込む空気も、大自然や、清流を思わせる透き通った空気だった。
目を凝らすと、大聖の立っている場所から、一直線に並木道が続いていることに気が付いた。
というのも、木々は無色透明で、時折吹く風によって梢が揺れた時、その周辺の景色が陽炎のように微かに揺らめいていることで、初めてそこに木が立っていることを理解したからである。
「ヒデオの命を助けてくださり、ありがとうざいました」
先ほどの中年男性の母親と思しき女性は、もう一度深々と頭を下げた。その所作から、柔和な人柄であることが窺えた。
「俺は何も……今まで苦しかったでしょ。もう、苦しまなくていいよ」
あの並木道の先には、きっと永遠の安らぎが待っている。
大聖の直感がそう言った。
「あの道が見える? あれに沿って歩いていって着いた場所が、お母さんにとっての終わりでもあって、始まりでもあると思う」
大聖がそう言うと、女性は安心しきった表情で、大聖に背を向け、ゆっくりと歩き出した。その背中と足取りは、迷いがなく、家族との別れをしっかりと受け入れているように見えた。
左手に持っていた本の中に、景色が吸い込まれていき、視界に雑居ビルの屋上と、泣きながら跪く男が戻ってきた時、突如、頭の中の電源コードを引き抜かれように思考と視界がブラックアウトし、体に力が入らず、その場に倒れた。
目を覚ました時には病院のベッドの上で、窓からは朝日が差し込んでいた。
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子の上でうたた寝をする男は、大聖の立てる物音で目を覚まし、嬉しそうな顔をした。
「ああ、三上さん。目が覚めて良かった」
まだ思考がぼんやりと霞んでいたが、昨日の夜、眼前の男を救ったと思ったら、逆に救われたことを理解し、思わず笑いが込み上げた。
「おじさん、名前は?」
「堀田です。堀田秀夫と言います」
「堀田さんか。これからよろしくな」
堀田は、首を傾げて「これから?」と訝った。
「堀田さんのお母さんに約束しちまったからな。息子さんのことは俺が見守るって」