放火魔
それから数日間は、放火魔の動きはなかった。
秋山は一応の事情聴取を受けたが「事故」という形で今回の件は幕を閉じた。
ストーカー被害の依頼人から受け取った報酬金で、電気料金を支払い、三上心霊事務所は明るい夜を過ごすことができるようになった。
放火魔の正体は、霊能力者に恨みを持った霊能力者ということで、三蔵と秋山は身分を隠して放火魔を追うことにした。
三蔵は「祈」、秋山は「賽」と名前を偽った。
「こうして明かりの下で冷えたビールが飲めるのも、秋山さんのおかげだな」
缶ビールのタブを引きながら大聖が言う。しかし、未だに秋山はどんよりとした表情をしている。
「今回の件は不問になったわけだし、気を取り直そうや」
三蔵は既に三本目のビールを開けている。
「……ええ」
浮かない顔をしている秋山に、三蔵がビールを差し出す。
「こういう時こそ酒だよ。煙草も吸うか?」
秋山は首を横に振り、ビールを受け取って一気に呷った。
時間を忘れて酒を飲み続けた三人は、いつの間にかソファの上で眠っていた。
鼾をかく秋山の手には二つのサイコロが握られていた。
寝返りを打った拍子に、サイコロが床に落ち、数回転がる。
ピタリと止まった二つの正四面体には「災」と「醒」の文字が書かれていた。
活気に満ちた歌舞伎町でさえ眠りに就く頃、大聖は寝苦しさに魘されていた。
息が詰まる感覚、冬の夜にも関わらず、熱を持った空気が大聖の身体を包んでいる。
遠くで、何かが小さく爆ぜるような音。聞き覚えがあった。
脳内で眠気が薄れてゆき、徐々に思考が明瞭になる。
薄目を開ける。
大聖の横では、三蔵が鼾を立てて眠っている。
対面で、秋山も肘掛を枕にして穏やかな表情で目を瞑っている。
しかし、網膜が映す眼前の光景には、違和感があった。
数回目を擦る。
しかし、変化は無い。
視界が、霞んでいるのだ。眠気のせいではない。それに、嗅いだことのある臭いと、聞いたことのある音。
大聖は、目を見開いた。
この臭いは、煙だ。それに、視界に懸かる薄い靄のようなものの正体もそうだ。
慌てて三蔵の身体を揺する。
「親父! 起きろ!」
何度も身体を揺すっていると、三蔵は眠気眼でゆっくりと起き上がった。
やがて、異変に気付いて秋山を起こす。
「まずい! 出入口にまで火が!」
閉まっている鉄の扉の隙間から、煙がゆっくりと事務所内に侵入してきている。パチパチという、何かが焼けて爆ぜる音も、扉のすぐ外から聞こえてきているようだ。
「窓だ!」
三蔵は窓を開け放つ。
三メートル以上ありそうな高さに、三蔵は躊躇している。
「親父! 早くしろ!」
背後で大聖に急かされて、意を決した三蔵が視界から消えた。
「秋山さんも!」
恐怖で目元に涙を浮かべる秋山を、半ば突き飛ばす形で窓から避難させる。
煙を吸い込んだせいで、大聖は激しく咽る。
眼下では、三蔵と秋山がこちらを見上げている。
二人を囲むように、複数人の野次馬も固唾を呑んで大聖を見物している。
こんな時に、母の最期を思い出してしまう。
母さんは、もっと熱い思いをしたのだろう。もっと苦しかったのだろう。もっと、生きていたかっただろう。
救いを求めるようにこちらに伸びていた、焼け焦げた母の手が、大聖の脳内でフラッシュバックした。
体が震えて、奥歯が鳴った。
自然に、目の奥から涙が溢れてきた。
「大聖! 何やってる! 早く降りてこい!」
三蔵の声で、我に返る。
まだ、死ぬわけにはいかない。
背中に感じる熱から逃げるように、窓枠を蹴った。
みるみる地面が近づいて、両手と両足で着地したあと、衝撃を逃がすために、前転をする。
勢いよくアスファルトに飛び降りた衝撃が、全身に痺れを来たした。
建物の一階から発生したと思われる火は、うねりながら建物全体を呑み込もうと勢いを増していた。
炎は獣の呻き声のような音を発し、周囲の人間を威嚇しているようだった。
三蔵が、目を細めて何かを注視している。
三蔵の目線の先を、大聖も見る。
こちらに一定の距離を保って、遠目から見物している野次馬の群れがある。
「親父、どうかしたのか?」
「……あのフードを被った女」
大聖はもう一度野次馬に目を向ける。
確かに、群れの後方に、紛れるように佇む鼠色のパーカーのフードを被った人物が居る。俯いているため、性別までは判然としないが、父はあの人物について何か知っているのだろうか?
三蔵が、ゆっくりと野次馬に近づいていく。
携帯電話を構えた若者や、心配そうな表情の中年男性や、見物を楽しむ浮浪者が道を開ける。
フードを被った人物だけが、動こうとしなかった。
炎に照らされて相対した二人に、長い影ができている。
二人は何やら言葉を交わしているらしいが、聴き取れない。
フードの人物は、ゆっくりとした動作でフードに手を掛けた。
歳は20代前半だろうか。若い女が口元を歪めて笑みを浮かべている。その表情は、言い得ぬ恐ろしさのようなものを孕んでいた。
三蔵が女に掴みかかろうとしたのをひらりと躱し、闇に溶ける長い黒髪を揺らしながら女は走り出した。
「追うぞ! あいつが放火魔だ!」
三蔵の言葉を皮切りに、大聖と秋山も続いて走り出した。