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死神とドグマ  作者: 結城 光
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ストーカー

 凍てつく空気に、耳介が麻痺するような痛みと、体の末端から熱が奪われてゆく感覚があった。

 三上心霊事務所が入っている雑居ビルの真裏はゴミ捨て場兼駐輪場になっており、秋山は思いつめた表情をして立っていた。


「私は無力です」


 秋山は俯いたまま呟いた。白煙を撒き散らす室外機の音に搔き消されてしまいそうだった。


「そうかもな」


 大聖は、煙草に火を点ける。


「無力だから諦めるっていうのは、結びつかない気がするけどな」

「でも、三蔵さんは頑固だし、説得するのは無理だと思いますよ」


 秋山は肩を落として溜め息を吐いた。


「生霊は冥送士の管轄外なんだろ? じゃあ許可は必要ない」

「そんな屁理屈……」


 秋山のポケットの中で携帯電話が震え出した。

 画面に表示された名前を見て、秋山は慌てて応答ボタンを押した。


 暫く秋山の相槌が続いたあと「すぐに行きます」と返答して通話が終了された。


「例のストーカーです。今、家の前まで来ているらしい」

「助けに行こう」


 今度は、迷いが無かった。秋山と大聖は走り出した。


 真っ黒なスーツ姿の男と、学生服の青年が並走している光景が余りに異様だったのか、道行く人は二人を奇異な眼で見る。

 二人はなりふり構わず走った。

 大聖は、心の内で奇妙な感情が湧きあがっていることを感じていた。

 身を寄せる(よすが)もない自分が、初めて誰かに必要とされた喜びが、怒りと喪失感を相殺した。


 西新宿の外れにある小さなアパートに到着する頃には、二人ともすっかり息が上がっていた。膝に手をついて、肩を上下させながら呼吸を整える。


 建物は縦長の作りになっていて、一階部分は全部屋分の郵便受けがあるだけで、部屋は二階から四階部分にあるらしい。


「彼女の部屋は、三階です」


 秋山は荒い呼吸を整えながら言った。額からは汗が滴り、銀縁眼鏡のレンズは曇っている。

 

 建物内から、音がすることに大聖は気が付いた。

 一定のリズムで、繰り返し、間延びした、チャイムの音だ。

 続いて、扉を乱暴に叩く音。


「開けてよお。何もしないからさあ。顔が見たいだけなんだ」


 不気味な男の声がする。

 大聖と秋山は顔を見合わせた。

 階段を駆け上がり、二階と三階を繋ぐ踊り場に行くと、三階の部屋の扉の前に、不審な男が立っているのが見えた。


 チャイムを数回鳴らし、扉を叩く。ひたすらその行動を繰り返している。


「居るのは分かってるからさあ。出てきてよお」


 黒いダウンジャケットを着た肥満体型の男は、右の拳で扉を何回も叩く。

 その反対の手、左手には、包丁が握られていた。


「おい」


 大聖の声で、男は動きを止めた。そして、ゆっくりとした動作で首だけを動かし、二人を見る。

 男の眼は、狂気を湛えていた。眠たげな瞼の中で、獲物を狙う小さな黒目が、秋山と大聖を捉えている。


「誰だあ、お前ら」


 贅肉が付いた喉から、野太い声が発される。

 薄闇の中でぎらりと光る刃渡りは、十五センチ以上はありそうだ。


「包丁を捨てて、私と話をしないか?」


 秋山が、階段を一段上る。男はまだ動かないが、その巨躯(きょく)から放たれる強烈な殺意が、目当ての女性だけでなく、秋山と大聖にも向けられていることが伝わってくる。

 しかし、男は再度首を扉の方に向けて、また扉を叩き始めた。


「おい、男が二人来たぞ。浮気してるのか」


 先ほどよりも強い力で叩いているのが、反響する鈍い音で分かる。


「開けろ。開けろよ。裏切者」


 男の隙を伺って、秋山が一段ずつ階段を上がっていく。

 大聖は、踊り場で固唾を呑んで見ていることしかできなかった。


 秋山の気配に気づいたのか、男がまた首だけを二人に向けようとした瞬間、男のすぐ傍まで迫っていた秋山は、男の体に飛びついた。

 痩身で非力な秋山は、自分よりも遥かに体の大きな男に縋りつくように必死にしがみついている。


「大聖君! 刃物を奪うんだ!」


 秋山の言葉で、茫然としていたことに気が付き、弾かれたように大聖も階段を上る。

 大聖が包丁を取り上げようとしていることに気付いた男が、激昂し、脂肪に包まれた身体をがむしゃらに揺らして必死に抵抗した。

 そして、バランスを崩した男の体が傾き、秋山諸共、階段の下へ落ちた。

 互いの身体の上と下が変わりながら、弾むように落ち、踊り場の壁に衝突して二人の動きは止まった。


「秋山さん! 大丈夫か!」


 上から声を掛ける。秋山と男は絡み合うような体勢のまま倒れている。


「ええ……大丈夫です」


 男の体の下敷きになった秋山は、なんとか抜け出して、息を荒げながらずれた眼鏡を直した。

 尚も男はうつ伏せに倒れたままだった。


「気を失ってるのか?」


 大聖は言いながら、あることに気が付いた。


 倒れている男は、両手に何も持っていない状態だった。

 先ほどまで持っていたはずの包丁が、見当たらない。


「秋山さん……刃物は?」


 大聖の心臓が早鐘を打った。恐ろしい予感が背筋を駆け抜ける。

 微動だにしない男の姿と、消えた包丁の行方がリンクして、気温に反比例した汗が大聖の額を伝った。


 秋山は、恐る恐るうつ伏せの男の左肩を持ち上げた。


 半身になった男の胸部からは、包丁の柄が突き出ていた。

 根本から溢れ出した血が、ぼたぼたと地面に滴る。


 青ざめた顔の男は口を半開きにして白目を剥いている。

 

 二人は、言葉を発することができなかった。

 浅い呼吸を繰り返し、体が小刻みに震える。目の前の現実を理解することを脳が拒んでいる。


 秋山のポケットで、携帯電話が震えた。


 男の体をうつ伏せに戻し、携帯電話を取り出して、通話ボタンを押した。


「……三蔵さん……私……」


 秋山の上擦った声が、静まり返った踊り場に反響した。

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