大聖の過去
同日、6月15日
東京都港区、三上心霊事務所
「これ、どうします?」
堀田がお守りの紐を指先で摘まみ上げて、繁々と眺めながらながら言った。
先日、霊に取り憑かれた女子大生から回収した物だ。
「ていうかこれ、心霊スポットで落ちていたにしてはやけに綺麗じゃないですか?」
「ああ、そうだな」
大聖が窓の外を眺めながら無関心に答える。
昨日の大雨の余韻である雲の間から、眩い陽光が薄暗い街を貫くように細く伸びている。
『とある宗教団体が、霊能者を次々と殺害しているという話を聞いたことがあるんです』
昨日の天野叶の発言が、大聖の頭の中に残り続けている。
得体の知れない恐怖に胸がざわつき、誤魔化すように煙草に火を点けた。
「そういえば、昨日の女子大生の子が言ってたあれ……」
ちょうど同じタイミングで、堀田も同じことを考えていたらしい。
「やっぱり堀田さんも気になるか?」
「ええ、私も噂程度の情報しか知りませんけどね」
今から4年前に起きたとある大きな事件。
ニュース番組では、無差別大量殺人として報道されていたが、殺害されたのは全員霊能者だったことから、計画的な犯行だったのではないかと実しやかに囁かれていた。
「……三上さんのお父様も、冥送士でしたよね?」
「ああ、けど、14年前に親父が突然蒸発してからのことは知らねえから、今はどうだろうな」
大聖の言葉をトリガーに、脳内で薄れつつあった記憶が呼び起こされた。
14年前、大聖が高校生の頃のことだった。
その年の冬は特に厳しい寒さだった。
『これから、空気が乾燥し火災が発生しやすい時期を迎えることから、火の取り扱いや暖房器具の取り扱いには十分注意してください』
居間の隅に置かれたテレビからはニュースが流れている。
「そういえば、また担任の先生から連絡きたわよ。喧嘩なんてしてないで、勉強しなさい」
眠気を抱えたまま飯を口に運ぶ大聖に、母が言った。
「うるせえなあ」
食器と箸を乱暴に机に置いて、席を立つ。
背後で母が呼び止めるのを無視して、玄関の戸を開いて家の外へ出た。
雪が降りだしそうな強烈な寒気で、鼻の奥がツンと痛む。
体を強張らせながら、原付バイクに跨り、学校へ向かった。
大聖は、冥送士をしている父が嫌いだった。
困っている人だけでなく、死んでしまった人のことさえ助けようとする父は、人間としては立派だったが、仕事場に泊まることも多く、あまり家に帰らず、家庭のことはほったらかしだった。
そんな仕事人間の父に代わって、母は大聖のことを常に気にかけてくれていた。
しかし、その優しさを素直に受け止めることができない大聖は、いつも母に反発していた。
学校の傍にある墓地の手前で、ハンドルを切って曲がる。
墓地の横を通ると、突き刺すような視線や、引き込まれるような感覚を覚えるため、いつも遠回りしているのだ。
校門の脇にバイクを停めて、閉ざされた校門をよじ登る。
毎日のように遅刻している大聖にとっては、慣れたものだった。
校庭の隅にあるサッカー部の部室の裏で、煙草に火を点ける。
煙草なんて苦いだけで、美味しいと感じたことは一度もないけれど、隠れて悪い事をしているという背徳感と高揚感を手軽に味わえた。
「あれ、奇遇だね三上君。昨日はどうも」
砂利の上でスニーカーを引きずる足音と、金属バットが地面に擦れる音と共に、痣だらけの顔面の男が大聖に近づいて来た。
昨日、完膚なきまでに打ちのめした、一学年上の生徒だ。たしか、名前はタカハシだったはずだ。
「昨日は俺が不意打ちされたから、これでおあいこだよね」
タカハシの発言で、漸く自分が袋の鼠だということに気が付いた。
しかし、気付いた時には遅く、いつのまにか大聖の背後に居たタカハシの仲間に羽交い絞めにされ、身動きの取れない大聖に向かってタカハシは容赦なくバットを振りかぶった。
鈍い音と同時に、視界が眩んだ。頭頂部から生温かいものが流れ、地面に滴る。
取り巻きが歓声を上げると、タカハシは拳や脚で大聖を痛めつけ始めた。
どれくらいの時間が経ったか分からないが、自力では立っていられないほど、大聖は弱っていた。
瞼は腫れあがり、鼻は曲がり、口の中は切れ、肋骨が折れて呼吸がし辛い。
遠退く意識の中で、タカハシが誰かと話している姿を見た。
相手は酷く慌てた様子で、タカハシに何かを説明している。
「おい! どうすんだよ!」
「急に火が大きくなったんです! 俺たちはちょっと火を点けただけで……」
弱まった聴覚でも、辛うじて話声が聞こえる。一体、なんの話をしているのだろう。
「ちょっとビビらせるだけでよかったんだよ!」
タカハシは地面に倒れた大聖を動揺した表情で一瞥してから、取り巻きに「逃げるぞ」と言って、走り去って行った。
大聖の中で、嫌な予感がみるみる膨らんでいった。
帰らなければ。
しかし、大聖の意思に反して、体は思うように動かない。全身が酷く痛み、呼吸の度に胸の内側が軋んだ。
それでも、懸命に体を引きずった。
満身創痍でバイクに跨り、全速力で自宅を目指した。
どうか、杞憂であってくれ。
心の中で何度も祈りながら、アクセルを回した。
家の近くまで来ると、普段は穏やかな住宅街が、騒然としていた。
大聖の心拍数が増々上がっていく。
近所から集まった野次馬の群れ、どよめき、そして、立ち上る黒煙。それらが大聖の予感と結びつき、その予感は確実な恐怖へと姿を変えた。
バイクを乗り捨てて、野次馬をかき分ける。
煙の臭いが濃くなり、ガラスが割れる音や、木が爆ぜる音が鮮明に聞こえた時、最悪の光景が目に入った。
大聖の家が、真っ赤な炎を纏って、どす黒い煙を巻き上げて、燃え盛っている。
「母さん! 母さん!」
大聖の声は、轟々と唸る炎にかき消された。一階部分を完全に取り込んだ火は、大聖の家を丸呑みにしようと、勢いを増していた。
何度も何度も、母を呼ぶ。
返事はない。
声を張り上げる度に、傷だらけの体が悲鳴を上げた。
何かに引火して、突如目の前で爆発が起きた。
その瞬間、爆風によって炎に隙間ができ、割れた窓ガラスの向こう側の居間の様子が一瞬見えた。その一瞬が、スローモーションのような映像となって大聖の網膜に映った。
顔を嘗める業火の熱も、耳孔を劈く地獄の旋律も、その一瞬だけ途切れた。
黒く焼け焦げた母の左手が、救いを求めるようにこちらに向かって伸びていた。その薬指には、しっかりと結婚指輪が嵌まっていた。
隙間風のような音が喉の奥で鳴る。頭が今の一瞬を理解した時には、視界にはもう、全てを焼き尽くす炎だけが映っていた。
沸騰しそうなほどの熱を持った雫が、瞳から溢れ出す。
大聖の慟哭は、際限なく湧きあがる焔に飲み込まれた。