取り憑かれた女
世田谷区三宿にある、東急世田谷線三軒茶屋駅からほど近い二階建てのアパートに、件の女は住んでいた。築30年ほどの木造建築で、部屋は一階と二階に二部屋ずつの小ぶりな建物だ。
青みがかった夜空に浮かんだ半月が、厚い雲の隙間から見え隠れしながら、微かな光を落としている。
「ここで間違いない?」
天野叶は睨みつけるようにアパートを見つめがら、深く一度頷いた。
各部屋の前に等間隔に設置された蛍光灯の乳白色の光に照らされながら、大聖は102号室のドアチャイムを鳴らした。
予想はしていたが、なんの返答もなく、不気味な沈黙が訪れる。もう一度鳴らしてみても、やはり結果は同じだった。
「裏にまわってみましょう」
堀田の提案で、ぐるりとアパートの裏側に回り込み、102号室の窓を覗き込む。
白いカーテンが閉まっていたが、隙間から真っ暗な室内が僅かに確認できる。
大聖は手で庇を作り、眼を細めて室内を注視した。
白っぽい色のローテーブルが部屋の中央に置かれていて、テーブルの下に、女性のものと思しき青白い二本の脚が見えた。
窓をノックし「おーい」と呼び掛けてみる。
しかし、返事はない。
「歩実さん、居るんですか?」
天野叶が背後で恐る恐る言う。
「ああ、たぶんな」
窓の淵に手を掛け、スライドしてみると、窓は抵抗なく横に滑った。鍵は掛かっていなかった。
生温い空気が室内から漏れると、錆のような、不快な臭いが鼻を突いた。
「この臭いは……血ですかね?」
大聖の一歩後ろで堀田が顔を顰めながら言った。
風を受けて微かに揺れるカーテンを捲ると、明かりが一切灯っていないワンルームの部屋が露わになった。
フローリングの上には、割れた食器や、引き裂かれて羽毛が飛び出た布団、脱ぎ散らかされた服などが、足の踏み場もないほど散乱している。そして、そのどれもに赤黒い液体が付着していた。
ローテーブルに、下着姿の女が突っ伏している。
腕は血塗れで、右手には赤く染まった果物ナイフが握られていた。
「歩実さん……?」
天野叶が女に近寄ろうとするのを、大聖は手で制した。
「近づくな、危険だ。その子を連れて部屋の外に出てろ」
天野叶は大聖に言われた通りに、茫然としている日河美久を引きずるようにして窓から一歩離れた部屋の外に移動した。
「堀田さん、見えるか?」
女から目線を離さずに堀田に問う。
「いえ、霊はまだ彼女の中にいるようですね」
大聖は舌打ちをして、堀田から慰霊赦魂典を受け取った。
霊が人間に憑依している状態で冥送を行うことは、憑依されている人間になんらかの影響を及ぼす危険性があるため、避けるべき行為なのだが、背に腹は代えられない。
本を左手に持ち、右手は胸の前で人差し指と中指を立てる。
大聖が口を開こうとした時、女の上半身が糸で吊り上げられたように、俯いた姿勢のまま起き上がる。腕はだらりと脱力し、ぼさぼさの髪が顔を覆っている。
そのまま女の上体がゆっくりと仰け反り、首が天井を向いた時、髪は重力に従い、女の顔が露わになった。
細長い、糸のような瞼の中で、黒目だけがじっと大聖を補足し、食いしばった歯が怒りや憎しみを剝き出しにしていた。
「その子の体から出てきて、直接話してみないか?」
女は微動だにしなかった。
肩や腕、胸や太腿など、体の至る所に切り傷ができていて、既に血は乾き、罅割れた血の跡が残っている。胸を伝った血は、白い下着に赤茶色のシミを作っていた。
手に持っているナイフで、自分で自分を傷つけたのだろう。
霊が人間の体に憑依する理由は、言い残した言葉を伝えたいか、自分の痛みや苦しみを理解してほしい場合の二種類があり、後者は厄介だった。生身の人間が少々怪我をしたところで、死んでしまった人間の苦痛など到底理解できるわけもない。結果的に霊は、憑依した人間を殺すまで自傷行為を止めないのだ。
「……歩実さん、私のこと、分かりますか?」
部屋の外から天野叶が声を掛けた。大聖を睨みつけていた瞳が、ゆっくりと移動し、天野叶を捕らえた。その視線は、友人を見るものではなく、恨みの籠った悍ましいものだった。
「所長、彼女の左手、何か持っていませんか?」
堀田が大聖に顔を近づけて囁いた。
ナイフが握られている右手とは反対の左手は、確かに、血が止まって白くなるほど強く拳が握られている。
「あれ、さっき話していたお守りでは?」
彼女と霊を繋いでいるお守りさえ取り上げてしまえば、彼女の体から霊を引き離すことができるかもしれない。
大聖が女に一歩近づくと、女の黒目が威嚇するようにぎょろりと移動した。
「……い、た、い?」
女は一音一音を確かめるように、口を大袈裟に開閉させながら突如声を発した。
「痛い? 痛い? 痛い?」
壊れたレコードのように同じ言葉を同じ調子で繰り返す。その質問は、宿主である彼女にしているのだろうか。
「お前が体を傷つけたせいで、その子は痛いだろうな」
大聖は女を見下ろしながら、冷淡に言い放った。女は大聖の顔を不思議そうに見上げてから、眼を剥き、口角を吊り上げた。
笑っている。
背筋を何かが走り抜けるような感覚があり、総毛立った。
女の肩が小刻みに震えだしたかと思うと、歯茎を剥き出しにしてけたけたと笑い始めた。
「痛い? 痛い? 痛い?」
苦痛を分かち合えた気になって喜んでいるのか、理由は定かではないが、悪趣味な笑いであることには変わりなかった。
大聖はもう一歩女に近づいた。既に女との距離は一メートルもない。
女の甲高い笑い声が、キンキンと鼓膜を震わせた。
「所長! 今です!」
女が大聖から目線を外した一瞬の隙に、背後から堀田の声がして、大聖は弾かれたように素早く屈んで、女の左腕を掴んだ。
互いの力が均衡し、両者の腕がぶるぶると震えた。日ごろから体を鍛えている成人男性の力と、線の細い女子大生の力が互角など、通常では考えられないのだが、霊に取りつかれた人間は時として常識では計り知れない力を発揮することがある。
女は、大聖の腕を切りつけようと、ナイフを振り上げた。
「危ない!」
堀田が叫び声にも似た声を上げる。大聖は咄嗟にもう一方の手で、ナイフを持った手を掴んだ。組み合った体勢になると、手汗と血液で滑ってしまいそうになる。
女の超人的な力が勝り、上体が密着する。
女は、振り子のように一度首を仰け反らせて、勢いをつけて大聖の左肩に嚙みついた。地面にスコップを突き刺すように、女の歯が皮膚に食い込み、尋常でない痛みで視界が歪んだ。
大聖の断末魔の叫びが部屋に木霊した。堀田が何かを叫んでいるようだが、はるか遠くで叫んでいるように聞こえる。
ぶちぶちと音を立てて女の歯が肉を抉っていく。
途切れそうな意識をかき集め、女の腹部を力いっぱい蹴飛ばした。女の体が大聖から剥がれて、音を立てて背後の壁に衝突する。女は衝撃でうつ伏せに倒れ、苦しそうな呻き声を上げた。
倒れた拍子に、ナイフと、薄汚れた赤い小袋が女の手から零れて床に転がった。
堀田はすかさず赤い小袋を拾い上げる。
「やりましたよ所長!」
「喜ぶのは、まだ、早いだろ」
大聖は左肩を右手で抑えて、荒い呼吸で言った。肩から流れた血が、大聖のティーシャツに染み込んでいく。
突然、女の体が痙攣したかと思うと、跳ねるように仰向けになり、死に際の昆虫のように手足をばたばたとさせて暴れ始めた。