思わぬ依頼人
6月12日
東京都港区、三上心霊事務所
「黒野さんの件、どうもすっきりしませんね」
事務所内に漂う副流煙を睨みつけながら、堀田が呟いた。
先日、冥送を行った霊が、黒野泉の息子、陽ではなかったことが未だに腑に落ちていない様子だ。
「依頼人があれで満足してるならいいんじゃない?」
入口から一番遠くにあるデスクで、煙草の煙を吐き出しながら大聖が言う。
「所長は優しいんだか、冷たいんだか、よく分かりませんね」
堀田は建付けの悪い窓に苦戦している。
ガタガタと音を立てながら少しだけ窓が開くと、冷房の効いた室内に、生温く湿っぽい空気が流れ込んでくる。
不意に、堀田のデスクに置かれた固定電話が鳴る。
「お、仕事かな」
堀田は受話器を取り、「はい、三上心霊事務所です」と平時より高い声で応対する。
しかし、相槌を打つ表情は次第に曇り、それに合わせて声の調子も暗くなっていった。
「……少々お待ちください」
堀田は通話口を手で押さえながら大聖を見た。応対の雰囲気から、面倒臭そうな案件だということは伺えた。
煙草を灰皿に押し付け、堀田から受話器を受け取る。
「お電話代わりました、三上です」
『……助けてください』
受話口から聞こえてきたのは、若い女の声だった。そして、大聖はその声に聞き覚えがあった。
確か、少し前に事務所に電話を掛けてきた、なんとか研究会とかいうサークルの女だったと思う。事務所の電話番号を知っているのも辻褄が合う。
「要件は?」
『……友人が、幽霊に取り憑かれてしまったんです』
女の声は、電話越しでも分かるほど酷く震えていた。いたずら電話というわけではないらしい。
「詳しいことは後で聞く。取り敢えず、今いる場所を教えて」
女が告げた場所は、東京メトロ日比谷線の広尾駅の付近にある「イナセ珈琲」というカフェだった。
「分かった。すぐに行くからそこで待ってて」
大聖が受話器を置くと、堀田が耐火金庫に入れてあった「慰霊赦魂典」を抱えて歩み寄ってきた。
「出発ですか?」
「ああ、車をまわしてくれ」
ポケットから取り出して投げた車のキーを受け取った堀田は一度頷き、丸い身体を弾ませるように事務所を出て行った。
指定された場所は事務所から離れておらず、20分もかからずに二人を乗せたカローラはイナセ珈琲に到着した。古いカーナビが午後6時30分を示している。
日は沈み、赤黒く禍々しい空が頭上に広がっていた。
駐車場にカローラを停め、店に入り、辺りを見渡す。
外見の特徴などは訊いていなかったため、探すのに苦労するかと思っていたが、店内の客は疎らで、しかもこの世の終わりのような表情をしている客は、店の一番奥のテーブル席に座った二人組の女以外に居なかった。
大聖と堀田が二人に近づくと、ショートカットの、眼鏡を掛けた女が、長い黒髪で、色白の女に声を掛けた。
「ねえ、この人たち……」
ひそひそと話しているので、大聖が痺れを切らして話しかける。
「電話してくれた子だよね?」
眼鏡女が目を伏せたまま頷く。
彼女は席を立ち、大聖と堀田が並んで座ることができるように、もう一人の女の隣に座りなおした。
大聖と堀田が着席するのとほぼ同時に、店員が二人の分の水を持ってきた。若い女性二人組に、中年男性二人組という組み合わせが余りにも不自然だったのか、店員は一瞬訝しげな視線を向けたあと立ち去った。
「一応、二人は依頼人という扱いになるから、名前を訊かせてもらおうか」
大聖が二人の顔を交互に見ると、眼鏡女は天野叶、色白女の方は天野叶が「日河美久」と紹介した。
「それで、何があったの?」
天野叶は人と話すことが苦手そうだし、日河美久は人と話せる精神状態ではない様子だった。俯いているせいで、美しい黒髪が不気味に顔を覆い隠している。白を基調とした服装も相まってか、まるで、ステレオタイプの幽霊のようだ。
「……じゃあ天野さん、教えて」
迷った末、天野叶から話を訊くことにする。
彼女は緊張と不安が入り混じった表情で、黒縁眼鏡のテンプルを押し上げてから話し始めた。
「……私たちは、大学で超自然研究会というサークルに所属していまして、3日前の6月9日に、美久と、サークルの先輩の二人で、有名な心霊スポットに行ったんです。私は行かなかったんですけど」
天野叶が日河美久を一瞥した。
「その日は特に何もなかったのですが……先輩が、面白半分でそこに落ちていた物を持ち帰ってしまって……」
堀田が隣で深い溜め息を吐いた。呆れた様子で、額に手を当てている。同感だ。
「何を持ち帰ったの?」
「……お守りです。今もその先輩が持っているみたいなんですけど」
「それで、その子に何があったの?」
「お守りを持ち帰った次の日、学校に来た先輩は何かに怯えながらぶつぶつと独り言を呟いていて、それで……」
心を落ち着かせるためか、天野叶はアイスティーを一口飲んだ。
「今日は学校にも来てなくて、連絡も取れないんです……」
天野叶が説明している間も、日河美久は一言も喋らずに俯いているだけだった。
「その子の家の住所は分かる?」
天野叶は頷いた。
「一刻を争う事態だ。私たちは今からその子の家に行くけれど、君たちはもう帰りなさい」
堀田が諭すような優しい口調で言うと、天野叶は身を乗り出した。
「責任の一端は私にもあります……私も連れて行ってくれませんか?」
堀田は困ったように大聖を見た。思わず、堪えていた溜め息が出てしまう。
「まあ、この子らを連れて行けばアフターケアも任せられるし、いいんじゃない?」
投げ遣りに大聖が言うと、堀田は「やれやれ」と首を振って立ち上がった。
大聖と堀田は、二人をカローラの後部座席に乗せて、天野叶が言った住所をカーナビに打ち込んだ。