追憶
梅雨の直中であるにも関わらず、良く晴れた日だった。
燦々と降り注ぐ陽光の下、少しウェーブの掛かった、胸のあたりまである黒髪が、由良の歩調に合わせて揺れている。
青々とした葉を茂らせたソメイヨシノの並木道を、美命と由良は手を繋いで、どちらともなくゆっくりと歩いていた。共に過ごす時間を惜しむ二人は、交際を始めてから3年が経ったとは思えないほど初々しかった。
不意に、由良が美命の方に体を向けた。
「ねえ、私が突然消えたら、美命はどうする?」
唐突な質問に美命は困惑したが、由良の眼は真剣だった。
「そうだなあ……必死で探すよ」
由良は首を横に振る。
「探しても見つからないの。私と美命は一生会えなくなってしまうの」
それはあり得ない、と由良に向かって微笑みかけようとした美命は、更に動揺することになった。彼女の大きな黒目からは、憂いがはっきりと読み取れたのだ。
「美命はこれから先、色々な人と出会って、新たな恋をして、どんどん歳をとって、きっと幸せな一生を過ごす。そして私は美命の記憶から消えてゆく……それが私の望むこと」
突然吹き抜けた強風が、由良の艶のある長い髪とワンピースの裾を棚引かせた。その風が、彼女をどこかへ連れ去ってしまいわないか不安になるほど、儚く、愛おしかった。
「そんな悲しいこと、言わないで。俺の幸せは由良が隣に居ることだよ」
由良の口角が、微かに動いた。彼女は「嬉しい」と呟いた。
二人の傍らを車が通りすぎ、時間が再び流れ出したように、二人は歩き出す。由良の細長い五指に、力が入っていた。微かに肩が震えている。
「どうしたの?」
美命が顔を覗き込もうとすると、由良は首を捻ってそっぽを向いた。
「なんでも、ないよ」
そう言いながら、由良は目元を手で拭っていた。泣いているのだろうか。
「何があったの? 俺に教えて」
由良は首を振って「なんでもない」と言うだけだった。美命は、自分の無力さを噛み締めて、彼女の隣を歩くことしかできなかった。
並木道が終わりを迎えようとしていた時、悪夢は突然やってきた。
二人の背後から走ってきた何かが、由良に衝突し、彼女の体は衝撃に合わせてくの字になったあと、前のめりの地面に沈んでいった。繋いでいた手が解け、どさりと彼女は倒れた。
由良にぶつかったのは、人間だった。黒いジャンパーのフードを深々と被り、顔を確認できない。震える手が握っているのは、彼女の血液で真っ赤になったダガーナイフだった。切っ先から赤黒い血が滴り、アスファルトを濡らしている。
うつ伏せに倒れた由良の、白いワンピースの腰の辺りから血が噴き出し、ゆっくりと地面に流れていく。
何が起こったか理解できない美命は、跪き、由良を抱きかかえたまま、茫然としていた。
由良は薄く目を開き、悲しそうな眼で美命を見つめた。
恐怖だけははっきりと認識した美命の体はがたがたと震えた。
「由良、由良!」
由良の名を呼び、体を揺すっても、反応がない。
二人の傍で、茫然自失としていた男が、突如奇声を上げた。
美命の頭上で、由良を刺した男が血塗れのダガーを振り上げている。
殺される。
逃げないと。
脳が警告を出しているのに、体は石になったように硬直し、目の前でダガーが振り下ろされるのを見ていることしかできなかった。
刃は、美命の左肩から右胸を切り裂いた。ティーシャツが破け、裂けた皮膚から真っ赤な血が溢れ出たとき、遅れて焼けるような激しい痛みが全身に走った。
体験したこともない痛みに叫び、悶えた。夥しい量の血液がぼたぼたと滴り、横たわる由良に降りかかった。痛みと恐怖で意識が朦朧とするなか、それでも彼女を守ろうと、懸命に彼女に覆いかぶさりながら男を睨みつけた。
肩で息をしながら美命たちを見下ろす男の眼が、フードからちらりと見えた。男の表情は虚ろだった。傀儡のように、魂が籠っていない瞳。
男はダガーを投げ捨てて走り出した。
美命はそれを追いかけることができなかった。額から脂汗が噴き出し、凍てつくような寒気と、燃えるような痛みが同時に襲い掛かり、浅く短い息が、狭まった気管から音を立てて漏れ出した。
惨事を見ていた人々のどよめきや叫び声が絡み合って、美命の鼓膜に張り付いた。美命の腕の中で苦しげに喘ぐ由良の傷口から、絶えず血が溢れ出している。
「由良、死んじゃだめだ!」
美命の言葉に、彼女は力なく首を横に動かした。
血に濡れた由良の手がゆっくりと伸び、美命の頬に触れる。その生温かい感触は、辛うじて命を感じさせた。
「ありがとう、美命」
それが由良の最期の言葉だった。彼女の腕が脱力し、美命の頬から滑り落ちる。浅くなっていた呼吸が止まり、腕の中の温もりが次第に失せていく。
魂の抜け落ちた彼女の亡骸を、美命はいつまでも抱き締めていた。