アルバイト
6月11日
東京都足立区、レンタルビデオショップ
店から支給された紺色の制服を纏った美命を、渚と店長のサトウは繁々と眺めた。
「うん、似合ってるよ。面接した感じ真面目そうだし、何より渚ちゃんの紹介だから信用できるよ。これからよろしくね」
小太りのサトウは菩薩のように柔和な笑みを浮かべた。
サトウの後頭部の辺りで、同心円状の模様が揺らめいている。普段の癖で、会話している相手の寿命を数えてしまいそうになったが、慌てて目を逸らす。
「よろしくお願いします」
美命は深く頭を下げた。
「基本的には二人体制でやるから、今日は渚ちゃんと二人でお願いね」
「はい、任せてください!」
渚が明るい笑みで返事をすると、サトウは満足げに頷いた。
渚と出会ったことで占い師を辞めた美命は、収入がゼロになってしまったため、自分よりも五歳も下の渚に頼んで、アルバイト先を紹介してもらった。普段から接客態度が良く、容姿も整っている渚の紹介とあらば、と軽い面接のみで即採用された美命は、即日から出勤するように命じられた。
「じゃあ美命君、まずは店の中を紹介するね」
渚が事務所の扉を開きながら振り向いて言った。
二階建ての店の一階はCDや、音楽に関するDVDが置かれていて、等間隔に並んだ棚が三本の通路を作っている。
入口の正面に、流行りの曲だから目立つようにと、某女性アイドルグループのCDが大量に置かれているが、三つ前のシングルだということは黙っておいた。
二階は映画コーナーが大半を占めていた。店の最奥に暖簾を隔ててひっそりとアダルトコーナーがあり、更にその奥に事務所がある。アダルトコーナーを抜けなければ事務所に入ることができない構造になっていて、渚は出勤する際、壁に貼られたポスターや、陳列されたDVDや、それを物色する客をなるべく視界に入れないようにしているらしい。
一通り店内の案内を終え、レジ打ちの基本を教わり、数人の客の会計を実践して、その日の研修は終わった。同じタイミングで渚も退勤し、二人は店を出た。
腕時計は午後6時を示しているが、太陽の余韻が街を仄かに照らしていた。
「この間まで18時はもう夜って感じだったのにな」
「そうだね、夏が近づいてる感じがしてワクワクしない?」
渚は無邪気にそう言った。そんな何気なく、日常的な会話を久しぶりにした気がした。
目まぐるしく起こる非日常を受け入れることに必死で、当たり前を体感することを忘れていた美命は、何かを許されたような、肩の荷が下りる感覚があった。
駅前の駐輪場に停めていた自転車に乗りかけた時、渚は美命を呼び止めた。
「これから美命君の家、連れてってよ」
跨ろうとして片足を上げていた体勢のまま、美命は停止した。どこまで警戒心のない女なのだ。
「どうして?」
訝る美命の質問に、渚は少し考える仕草を見せた。
「……友達の家に遊びに行くのって、理由が必要?」
「いや、友達って言っても一応は異性だし、それに俺の家、散らかってるし……」
「いいから、いいから」
問答無用で渚は自転車の荷台に跨った。車体が少し沈む感覚と、背中に感じる体温が、なぜだかとても懐かしかった。
「俺の家で何するの?」
純粋な質問だったが、下心と受け取られないか心配になった。
「別にー、お話するだけ」
まあ、そうだよな。と心の中で呟き、ペダルを踏みこんだ。
車体がふらつきながら前進すると、渚の細い腕が美命を腰に回された。その瞬間、ハンドルを掴む手から一気に汗が噴き出して、胸の中で心臓が暴れだした。異様なペースの鼓動を渚に悟られないことを祈りながらペダルを漕いだ。
荒川沿いの都道461号を通り、それから15分ほど黙々と自転車を走らせて、漸く美命の住む猿田荘に到着した。気温と緊張のせいで、美命の体は汗に濡れている。
いつの間にか空の色は藍色に変わり、寂しげに灯った常夜灯に四階建ての賃貸マンションが不愛想に照らされている。
劣化してすっかり塗装が剥げた柱の上に、錆に覆われた半折屋根が乗せられた駐輪場に自転車を停め、三階の角部屋に向かう。
家に他人を上げるのは初めてのことで、たださえ緊張しているのに、その相手が異性となるとなお更だった。
「男の部屋って感じだね」
部屋の中央に置かれたローテーブルの前に膝を抱えて座った渚は、興味津々な様子で部屋の中を見回していた。
自分はどこに座ろうかと悩んだ結果、一人分の間を空けて渚の隣に腰を下ろした。
それから数分間、美命も渚を口を開かなかった。
互いの呼吸音が聞こえるほど、部屋の中は静まり返っている。香水の匂いが、渚から優しく漂ってくる。
「……亡くなった彼女の話、聞かせてくれないかな」
渚が突然、沈黙を破った。
渚にだったら、話してもいいか。
美命の脳の奥底で閉じこもっていた記憶が、映像としてぬるりと這い出てくる感覚があった。