悪戯
住所を訊くと、黒野泉は南青山に住んでいるらしい。スマートフォンで道のりを調べると、三上心霊事務所からは5キロほどしか離れていなかった。大聖は、中古で購入した型落ちのカローラの助手席に彼女を乗せて、黒野宅へ向かった。
オフィスビルが立ち並んでいた街並みも、いつしか高級住宅街に変貌し、自慢たらしい家々の中に黒野宅はあった。
二階建ての家の外観は白を基調としていて、教会のように神聖な雰囲気を放っている。石張りの外壁に設置されたステンドグラスが、分厚い雲のせいで暗くなった辺りを淡く照らしていた。
家の前の道幅は広く作られていたので、気兼ねなく黒野宅の前に駐車した。
雨の勢いは落ち着いてきたが、じっとりとした蒸し暑さが身を包み、汗が身体中に滲み出た。ビニール傘に落ちた雨粒が、頭上でぼつぼつと音を立てている。
玄関ポーチの先には、両開きの扉があり、大聖はその先へと案内された。
玄関からは二階に続く階段とリビングに通じる廊下があり、リビングに通される。
無垢板が張られた床の上に、赤っぽいペルシア絨毯が敷かれている。キッチン側にダイニングテーブルと椅子が四脚。窓側には事務所の物とは比べ物にならないほど高級感のある革張りのソファ、照明を反射する大理石のローテーブル、70インチはありそうな大きなテレビがあった。こんな空間に住んでいて落ち着くのだろうか。
キョロキョロと辺りを見回した末、ソファに腰かけることにする。
「息子さんと旦那さんは?」
黒野泉はキッチンで茶を淹れながら無表情のままこちらに目を向けた。
「主人は仕事で夜遅くまで戻りません。ツキヒト……ああ、上の子はもうすぐ大学から帰ってくる頃だと思いますけど」
「そうですか。ちょっと陽君のお部屋を拝見させていただいてもよろしいですか?」
「ご自由にどうぞ。二階に、陽と書かれたプレートが下がった部屋がありますので、すぐに分かると思います」
「わかりました。ありがとうございます」
玄関ホールに一度戻り、そこから二階へ続く階段を上った。ラクダ色の壁と、白木の手すりに挟まれた階段の先には、薄暗い二階ホールがある。
階段を上がってから、蒸し暑さは忽然と消え、薄寒い空気が何処かから流れ出ている。接地した両足から体温を奪われていくような感覚に、身震いをした。
二階には部屋が三つあり、一つは、恐らく夫婦が使用していると思われる寝室、一つは「月人」と書かれた金属製のプレートが吊るされた長男の部屋、そしてもう一つは「陽」のプレートが吊るされた部屋。
陽の部屋の前に立つと、扉の隙間から、冷気が流れ出していることに気が付いた。闖入者を拒むような圧迫感が扉の向こう側からひしひしと伝わってくる。
扉を三度、ノックする。
大聖の配慮を無下にするように、直ぐに仄暗いホームには静寂が訪れる。
レバー式のドアノブを下げ、ゆっくりと開く。
ホールよりも一段と濃い闇が、ぽっかりと口を開けて愚かな獲物が自ら口の中へ入るのを待っているように感じる。不穏な空気と共に、埃っぽい臭いが大聖の鼻孔に流れ込んできた。
一歩だけ部屋の中へ足を踏み入れる。
途端に、それまで静まり返っていた部屋の奥から、ギイギイと何かが軋む音が鳴り響いた。
この部屋には、確実に何かが居る。
大聖は、音を発している暗闇を睨みつけながら、後ろ手で壁伝いに電気をスイッチを探した。
ざらついた壁の上を三上の指先が滑り、やがて何か硬いものに触れた。それを押すと、パチン、という音と共に、白っぽい明かりが部屋全体を照らしだした。何かが軋む音は止んだ。
視界に飛び込んできたのは、開けっ放しで、服が引っ張り出された引き出しや、床に散らばった玩具、中から教科書やプリントが飛び出したランドセル……掃除されていない子供部屋だった。陽が死んだ日のままにしてあるのだろう。
自分の存在を大聖に知らせるかのように、ギイギイ、と何かが軋む音が再び聞こえ始めた。
音の正体は、どうやら勉強机と一体になった木製の椅子から聞こえているらしい。
ひとりでに揺れる椅子を見ていると、にやけ面で大聖のことを見つめながら、振り子のように体を前後に揺らす少年の姿が、脳裏に過った。
突然、頭上のシーリングライトが激しく明滅し始めた。
視界が奪われたかと思うと、また灯る。そして、また消える。交互に訪れる間隔が次第に短くなったと思うと、明かりは完全に消え、不吉な暗闇がまたも大聖を包み込んだ。
継続的に椅子が軋む音だけが聞こえてくる。
大聖が部屋の中央まで行くと、背後で扉が音を立てて閉まった。大聖を逃がさないつもりだろうか。
「なあ、話をしよう。姿を見せてくれないか」
大聖の声が部屋に反響する。暫く待ってみても、返事はない。
「居るんだろ、陽か?」
再び、闇に向けて声を掛ける。徐々に目が慣れてきて、家具や床に散乱した物が、シルエットとして見え始めた。
霊の姿はない。会話もできないとなると、なす術がなかった。一度一階に戻り、黒野泉に話をしようと踵を返した時、ひたひたとフローリングの上を素足が走る音が聞こえてきた。
大聖を囲い込むように、部屋の至る所から足音が聞こえる。
前後左右から子供が無邪気に駆け回っているような足音がして、それは扉の前、つまり大聖の正面の位置でぴたりと止まった。
目の前に居る。しかし姿は未だに確認できていない。
再び足音がして、真っ直ぐに大聖へ向かってきた。
まずい。咄嗟に一歩後ずさりをするも、大聖は何者かに足を掬われ、その場に仰向けで倒れこんだ。背中と後頭部を強く打ち付け、痺れるような痛みが全身に走った。
「アキラってだあれ?」
突然、大聖の腹部で、変声期を迎える前の甲高い少年の声が聞こえてきた。
声は、頻りに「アキラってだあれ?」と質問を繰り返し、徐々に大聖の顔に向かってずり上がってきた。
天井を見つめたままの大聖の視界に、声の主が姿を現した。
白粉を塗りたくったように血色が無い肌に、生気の宿っていない大きな黒目が二つはめ込まれた少年の顔が、大聖の目と鼻の先の距離にある。
大聖の体は金縛りにあったように硬直していた。
しまった、と大聖のこめかみに汗が伝った。
霊を祓う際に使用している「慰霊赦魂典」を事務所から持ってくるのを忘れてしまったことを、今になって気が付いた。
「アキラってだあれ?」
霊は、魚のようにぱくぱくと口を動かして、質問を繰り返す。
小さな右手と左手が、大聖の首に触れた。氷のように冷たい感触が、全身の毛を逆立たせた。
霊の手に力が入り、気管が締め付けられる。
意識が遠退き、視界がぼやけてきた。
もはやどうすることもできず、大聖はゆっくり目を閉じた。