依頼人
6月10日
東京都港区、三上心霊事務所
整然とした街並みの虎ノ門に三上心霊事務所はある。誰にも知られないように、大通りから外れた雑居ビルの三階に、看板も出さずに今日も営業している。
事務所内は片付いているというよりも殺風景で、客人用の革張りのソファに挟まれる形で長机が一脚、堀田用のデスクと大聖用のデスク、依頼人に関する資料が入ったキャビネット、貴重品を入れておくための耐火金庫が置いてあるだけだ。
カーテンが開け放たれた窓の外では、激しい雨が絶え間なく降っている。
プラスチック容器に入った牛丼を啜りながら、堀田が「すごい雨だなあ」と呟いた。
三上心霊事務所では、スーツを着なければいけないという決まりはないのだが、堀田はワイシャツにネクタイをきっちりと締め、薄くなりつつある髪を整髪剤で7対3に分けている。
一方で、社長である大聖はティーシャツにカーゴパンツというラフな恰好で、ネックレスやブレスレットなどの装飾品を身に着けていて、堀田とは対照的だ。
「堀田さん、勝手にうちのホームページ作ったでしょ」
小袋に入った紅ショウガを牛丼に乗せながら、大聖は堀田の横顔に問うと、忙しなく動いていた口と箸の動きが止まった。図星のようだ。
「……所長。今時、紹介制なんて儲かりませんよ。もっとインターネットを駆使すれば多くの人にうちのことを知ってもらえますよ」
再び米と肉を咀嚼しながら堀田が開き直る。天井の蛍光灯が、汗の浮かんだ堀田の額を輝かせている。大聖は深い溜め息を吐いた。
「あのな、ただでさえ胡散臭い商売やってるんだぞ。そんなことしたら悪戯してくださいって言ってるようなもんだろ。紹介制ならそういう心配もないじゃないか」
堀田は不服そうな顔をした。
説教をするのは自分の性に合っていないし、何より、自分より10個以上歳の離れた相手に口うるさくするのは忍びないので、それ以上は言わないことにした。
「それで、依頼人はいつ来るんだっけ?」
「一時間後にはお見えになると思いますよ」
壁掛け時計を見ると、時刻は午後4時を回ったところだった。
「体調は大丈夫ですか?」
霊を祓った際に訪れる倦怠感は既に解消されていた大聖は、堀田に向かって親指を立てた。
それから一時間後、午後5時ちょうどに、静かに入口の扉が開くと、不安げな表情をした痩身の女性が現れた。今回の依頼人である黒野泉だ。
顔に刻まれた皺や、薄化粧のせいで年齢は40代前半くらいに見えるが、切れ長の目、すらりとした鼻梁、薄い唇が元々の美しさを証明していた。
「わざわざ雨の中お越しくださりありがとうございます」
堀田が姿勢を低くしながら黒野泉の元まで歩いて行くと、彼女は俯きがちに会釈をした。
堀田が部屋の中央まで案内し「どうぞ」とソファに座るように促すと、「失礼します」と彼女は浅めに腰かけた。
「本日は三上心霊事務所にご依頼くださり誠にありがとうございます。こちら、冥送士の三上でございます。今回は、この三上が担当させていただきます」
堀田によって紹介された大聖が深く頭を下げると、つられるように黒野泉も会釈をした。
「冥送士という言葉は聞きなじみがありませんよね。冥送というのは読んで字のごとく、死者を冥土に送ることです。冥送士は、皆様がご想像される霊能者とはちょっと違います。恰好もこのように平服ですし、仰々しい儀式もございません。逆にちょっと味気ないかもしれませんがね」
堀田はペラペラと得意げに喋り、黒野泉は口を半開きにして黙ってそれを聞いていた。
大聖が咳払いをして、堀田のマシンガントークを遮り、勝手に仕切るなと言わんばかりに睨みつけると、そそくさと茶を入れに行ったので、大聖は黒野泉に向き直って口を開いた。
「早速で恐縮ですが、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
黒野泉は物憂げに喋りだした。
「……私には二人の息子がいるのですが、7年前に下の子が不慮の事故で亡くなりまして、それ以来、身の回りで度々不可解な出来事が起こるようになったんです」
「不可解な、というと、具体的にはどのようなことが?」
黒野泉は喉に何かが詰まったように苦しげに眉間に皺を寄せた。
「ええ……水道の蛇口からひとりでに水が出たり、扉が開いたり、足音が聞こえたり」
典型的なポルターガイスト現象だな、と話を聞きながら大聖が思っていると、黒野泉は「あと」と話を続けた。
「最近、よく転ぶようになったんです……」
そう言ってロングスカート捲り上げた黒野泉の脛や膝には、青みがかった痣が幾つもできていた。偶然転んだだけではこうはならないだろう。大聖は痛々しい痣をじっと見つめてから、慎重に話し始めた。
「それらの不可解な現象の正体が必ずしも息子さんであるとは言い切れません。ですが、調べてみる価値はあると思います。決して費用は安くありませんが、よろしいですか?」
黒野泉は暫くの間黙り込み、何かを思考しているようだった。窓を叩く雨音がノイズのように継続的に耳孔に流れ込んでくる。
二人の前に堀田が湯気の立つ緑茶を置くと、黒野泉は思いつめた表情を少し緩ませ、湯呑みの底部を左手で支え、右手を側部に沿わせて音を立てずに一口飲んだ。大聖は指先で摘み上げるようにして茶を啜った。
ようやく黒野泉が血色の無い唇の隙間から「よろしくお願いします」と掠れた声を出すと、待ってましたと言わんばかりに大聖は頷いた。
「息子さんのお名前と、当時のご年齢を教えていただけますか? あ、ついでに家族構成も」
「亡くなった息子の名前はアキラといいます。太陽の陽という字を書きます。七年前、あの子はまだ十歳で、小学五年生でした……今は長男と夫の三人で暮らしています」
大聖は黒野泉の言葉を追ってメモ帳にペンを走らせた。
「ありがとうございます。では、黒野さんのお宅にいる霊が本当に陽君の霊なのかどうかを調査させていただきたいのですが、今からお伺いすることは可能でしょうか?」
黒野泉は力なく頷く。目の下の隈や、ロングの黒髪に疎らに混じった白髪が、彼女の心労を物語っていた。