霊能力
雪のように白い口髭の男は、何も言わずに美命と渚を見つめながら煙管を吸っている。もはや当然の如く男にも年輪は無い。
「すみません」
美命は男に近づきながら、姿勢を低くしながら声を掛けると、男は煙をゆっくりと吐き出した。
「俺に何か用か?」
掠れた凄みのある声で男は短く問うた。
美命は「ええ」と返事をする。掛け時計の秒針が時を刻む音が言い得ぬ緊張感のようなものを増幅させた。
「本を買いに来たわけじゃないだろ?」
男は煙管に詰まった葉を机上のガラス灰皿に落とす。
「ある人からこの場所に行けと言われて来ました。俺たちの霊能力について訊きたいんです」
男は顔色を変えずに小さく頷いた。
「いいだろう。俺のことはウケイと呼んでくれ。除霊師をやっている」
渚が「ウケイ?」と首を傾げると、男は「祈るという字で祈と読む」と補足した。
「下の階に居た女の子は?」
美命の質問に、祈は顔を強張らせた。
「……あいつはカヤという名前だ。俺が名付けた」
「お孫さんですか?」
「いいや、違う。あいつは孤児院で育った子供だ。訳があって俺が引き取った」
「さっき、あの子の俺たちの心を読まれました」
「……心の眼、心眼という力だ」
祈は煙管の先端に白い葉を詰め、マッチで火を点けた。マッチが焦げた臭いのあと、清涼感のある独特な香りが部屋に充満した。
「それで、お前らは?」
祈は指をさすように煙管の先端を二人に向けた。
二人が自分の名前と霊能力を簡単に説明すると、祈から霊能力に目覚めたきっかけを問われ、美命は当時交際していた女性の死、渚は親友が自殺したことを話した。
「木花渚、口寄せの巫女か。お前はその力をどうしたい?」
「勝手に入ってこられないように、コントロールしたい」
祈の目線が美命へ移る。
「問題はお前だ。人の寿命が形として見えるんだったな?」
「ええ、そうです」
「お前が見えているものは、人間の魂の渦、魂渦というものだ。そして俺たちのような霊能力者には魂渦が存在しない。その理由は簡単だ。能力者は自分の命を削りながら力を使っているからだ。つまり、俺たちはいつ死んでもおかしくないということだ」
祈は煙管に口を付け、深く吸い込んでからゆっくりと吐き出した。
「むやみに力を使っていると、その分早死にする。俺がお前らに力の使い方を教えてやる」
「よろしくお願いします」
頭を下げた美命に、祈は「待て」と言った。
「その前にお前にはひとつ話しておかなければならないことがある」
祈の視線がより一層鋭利になる。
「……お前の力はとても危険なものになり得る」
「どういうことですか?」
「覚醒の話はしっているのか?」
「ええ、生まれつき備わっている霊感が、何等かの影響で覚醒を遂げるって話ですよね」
祈は小さく頷く。
「お前は第一の覚醒を終え、魂渦を視認することができるようになった。第二の覚醒が訪れた時、お前の力はどのように変容すると思う?」
「……想像もつきません」
祈は暫く、腕を組んで虚空を見つめた。静まり返った空間のせいで、時間の流れが異様に遅く感じる。
「人を殺したいと、本気で思ったことはあるか?」
突如投げかけられた身も蓋もない質問に、美命は戸惑った。
「ない……と思います」
「……お前と同じ力を持っていた人間を一人だけ知っている。そいつは俺の弟子だ」
祈は深い溜め息を吐き、白髪頭を撫でた。
「もう十年以上前になる。俺たちは、悪霊によって寿命を縮められた人間の寿命を、除霊を以て引き延ばすことを生業にしていた。俺は金になればそれでよかったんだが、俺の弟子は人一倍正義感の強いやつでな。客に肩入れし過ぎちまった」
祈は寂し気に目を伏せた。
「ストーカーの生霊に取り憑かれた女が俺たちの元に相談に来たことがある。生霊というのは質の悪い霊で、生み出した人間の念を原動力にして存在している。つまりは生霊の根源である人間の意思を変えなければ霊体は消滅しないということだ。それは俺たちの専門外だったんだが、あいつは俺の言うことを聞かずにストーカーに彼女を諦めるように直接言いに行った……」
煙管から立ち上る煙が、線香のように揺らめいている。
「あいつはそのストーカーを殺しちまった。不可抗力だったんだがな」
祈の視線がゆっくりと美命に向けられる。
「そして、それが引き金となってあいつに第二の覚醒が訪れた」
「……彼はどうなったんですか」
美命の声は震えていた。これ以上のことを知ることに恐れを抱いているのだ。
「人に怒りや憎しみを抱くと、それが強い念となり、その念を受け取った相手を殺してしまう力を手に入れたんだ」
言い終えると、祈は再び深く息を吐いた。嫌な予感が美命の脳裏に過ったが、この話を最後まで聞き遂げなければいけないという使命があった。
「一人でも多くの命を救いたいと言っていた人間が、人の命を奪う能力者になるなんて皮肉なもんだよな……。それを苦にしたあいつは、自ら命を絶った」
「……どうすることもできなかったの?」
渚が問うと、祈は悲しげな表情のまま首を振った。
「能力を別の誰かに渡すこともできたが、霊能力というのは命と対になっているものだ。力を譲渡するということは、命を半分、分け与えるということだ。そんな簡単に渡すものじゃない。それに、あいつは俺に力を渡さなかった。自分の力がいかに危険かを分かっていたからこそ、誰かに渡すなんて無責任なことはできなかったんだろうな」
「もし、仮に俺が人を殺したとして、俺の力はそのお弟子さんのように変わるんですか?」
「……どうだろうな。しかしその可能性は十分にある。実際に人を殺めなくとも、殺したいという心が引き金となったことも考えられる。あいつは、自分の力が恐ろしいと言っていたよ。憎む人間はいたとしても、殺すべき人間など一人もいない。しかしあいつの力は己の感情ひとつでどんな人間であろうと殺めてしまう。本当に恐ろしい力だ」
自分が抱えているものが巨悪の種ということを、美命は実感した。こんな話はあまりに理不尽ではないか。一生自分の力に怯えながら生きることを想像し、背筋に寒気が走った。
「霊能力の危険性を前もって知っておくことは大事なことだ。お前に限らず、力を持っている者には多かれ少なかれリスクが伴う。口寄せも例外ではない」
渚は露骨に顔を顰め、「やっぱり」と呟いた。
「霊が乗り移っている時、意識がないだろ?」
渚が頷く。
「扱い方を知らないやつは全員そうだ。霊に体を貸している時、宿主の意識がないことは非常に危険なことだ。今までは運良く霊が体から抜けていただけで、お前の体を完全に乗っ取られることだってあり得る」
「そんなの嫌だ!」
渚が一歩前に出ると、祈は「まあ待て」と両の掌を見せて制した。
祈は、机の端に置かれていた褐色の一升瓶を中央に置きなおす。
「霊気を一点に集中させることが全ての鍵だ。お前の場合は自分の体内に霊気を集めておくことで、たとえ霊に乗り移られたとしても、その霊気がお前を守ってくれる」
「霊気って?」
「霊能力が車だとしたら、霊気がガソリンだ。こいつがないと霊能力は使えない」
「……なるほど。俺たちは何をすればいいんですか?」
「この瓶に霊気を送り込み、触れることなく中を水で満たしてみろ」
二人は、祈が何を言っているのか理解できなかった。
「無理だよ、私たちは超能力者じゃない」
「言い方が違うだけで、超能力も霊能力も変わらん。とにかく、お前はこの瓶が水で満たされていることをイメージしろ。大切なのは想像力だ。見た目だけでなく水温や味、水を連想させる音でもいい。とにかく事細かに想像しろ」
渚は不服そうに口を尖らせながらも、祈の言う通りに瓶に意識を集中させた。空の瓶の底から水が湧きあがる光景を必死にイメージしている。
「お前はこの瓶が割れることを想像しろ。破片の形まではっきりと思い浮かべることができればその通りに割れるぞ。まあ、無理だろうがな」
挑発的な台詞に触発された美命は、渚と同じように瓶を凝視した。口部から罅が入って、底部に向かって亀裂が伸びてゆき、遂には音を立てて割れ、バラバラになって机上に散らばる光景を想像しようとするが、眼前にある物を見つめながら、それが変化することを想像するのは非常に難しかった。
祈が煙管を吹かしながら「水が先か、割れるのが先か」と笑いながら二人を煽った。
二人は、眼球が乾燥することも忘れて眉間に皺を寄せた。しかし一向に瓶が変化する様子はない。
渚は両手の胸の前に突き出して念を送る仕草をしたり、試行錯誤しているようだったが、その効果は得られなかった。
祈の溜め息と、灰皿に煙管が打ち付けられる音が響く。
「お前ら、真面目にやっているのか」
「こんなのできるわけない!」
自分がやっていることの馬鹿馬鹿しさと無理難題に苛立った美命が声を荒げると、祈は薄ら笑いを浮かべながら首を振り、一升瓶に目を向けた。
「何もない所から水が湧きだすなんてあり得ない。触れてもいないのに瓶が割れるなんてあり得ない。高が20歳やそこらのガキのくせに凝り固まった思考……。いいだろう、そういう馬鹿どもには一度見せてやらないといけないな」
祈は特に表情を変えることもなく瓶を見つめた。
数十秒もすると、物言わず机上に直立していた瓶が、祈の視線に怯えるようにガタガタと音を立てながら震え始めた。祈の背後にある窓はぴったりと閉まっているので、風の影響ではない。だとすると、本当に霊能力で瓶が震えているのだろうか。
渚は口に手を当てて目を剝いていた。
瓶の震えは次第に緩やかになり、円を描くようにゆっくりと揺れた。そして、瓶の底部で揺れに合わせて回っている液体が発生していることに、二人は気が付いた。
「あれって……」
渚が消え入るような声を発した。美命は声すら出せなかった。ただ茫然と眼前で起こる不可思議な現象を見ていた。
瓶の中に発生した液体は、ほんの数十秒で胴部の中間まで湧きあがり、波打ち、渦を作っている様がはっきりと確認できる。祈は瓶をただ見つめているだけで、何か細工をしている様子もない。
とうとう瓶の口部まで水が満ちると、瓶は動きを止め、何事もなかったかのように直立不動を決め込んだ。
今、不可能が可能になる瞬間を目撃した。美命と渚の中にある常識が瓦解し、白紙に戻った。
祈は、二人を見ながらにやりと笑った。
「これで信じてもらえたかな? 今日のところはもう帰っていいぞ。また何かあればいつでも相談しに来い。それと、普段から練習を怠るなよ」
二人は何も言うことができずに、そそくさと階段を下りた。
店の出入り口の傍でカヤが佇んでいる。薄汚れたガラス戸から差し込む橙色の斜陽がカヤを包み込んで長い影を伸ばしていた。
「お姉ちゃんたち、落ち込んでるね。大丈夫だよ。カヤもできないから」
カヤが微笑む。目を瞑っているせいか、カヤの笑顔は柔らかく、優しい。
「カヤは目が見えないから、瓶って言われてもイメージがフラフラしちゃうの。でも、カヤはおじちゃんから眼を貰ったから、それでいいんだ」
渚はカヤの傍まで歩み寄り、膝を曲げて目線を合わせた。
「人の心が見える力は、おじちゃんから貰ったの?」
カヤは笑顔のまま頷く。
「悪いオバケのせいで目が見えなくなっちゃったから、おじちゃんがくれたの」
ということは、祈はカヤに自分の寿命の半分を与えたということだ。お人好しだな、と美命は思ったあと、カヤに思考を読み取られると思ったが、美命が考えている内容をカヤは理解していないようで、ぽかんとした表情をしていた。
「人の心が読めることが辛いって感じる時はないの?」
渚の質問にカヤは「うーん」と唸りながら考えた。
「慣れちゃった。お父さんもお母さんも居なくて、目も見えないから、みんなカヤのことを可哀想って思うの。でも、カヤは可哀想じゃないよ」
他人の幸せは他人が決めるものではない。10歳にも満たないほどの少女の言葉に、美命は胸を打たれた。
「ねえ、また来てくれる?」
カヤが寂しそうに言うと、渚は深く二度、頷いた。
「絶対また来るよ。約束する。おじちゃんと仲良くね」
渚の言葉に、カヤは嬉しそうに顔を綻ばせた。渚はカヤの手を取り、互いの右手の小指を絡ませた。
夕日が、指切りのシルエットを床に映し出した。