前書き
人生とは一冊の本だ。
生まれてから死ぬまでの全てを記した一冊の本だ。
人により長編の物もあれば短編の物もあるだろう。
だが、全ては等しく一冊の本なのだ。
多くの人間はその本のラストシーンが悲劇であると、その本自体が悲劇であると思い込んでしまう。
だが本当にその本が悲劇かどうかを評価出来るのは、その本を最初から最後まで読んだ人間、自分だけなのだ…
防波堤に座り海を見ていた。
揺れながら青く光る海面が何処までも広がる光景は、10年ぶりの為かとても新鮮に感じられ、飽きる事もなく数時間ただ眺め続けていられた。そんな波の音が微かに聞こえるだけの静寂な空間にけたたましいサイレン音が鳴り響き、僕は現実へとかえる。
振り返り浜辺を見ると数十人程の人がちらほらと立っており、皆海の方を向いて目を瞑り手を合わせていた。
多分街でもこのサイレン音に合わせて多くの人が同じ行為を行っているのだろう。
10年前の巨大な津波が多くの命を飲み込んで以来、この街では毎年今日のこの時間に、生き残った人達が黙祷を行うのが恒例となっていた。
僕は黙祷が嫌いだ。
この黙祷が始まってからの3年程は黙祷をする人達に対して、耐え難い怒りを覚え一人身悶えしていた。
「僕の一生はあなた方に憐れまれる物じゃない」
黙祷を受ける側になって初めて気付いた感想である。
僕の名は安田弘志、享年21歳…
そう、僕は10年前の津波に飲み込まれた一人、今は俗に幽霊と呼ばれる存在である。
最近では黙祷も生者特有の意味のない形式的な儀式のひとつだと思える様になり、我を忘れて怒る事もなくなったがやはり好きにはなれない。
なぜ生者は死者の気持ちを考えないのだろう。
死者が見たいのは、生者が自分を偲んで立ち止まる姿でなどではなく、自分がいなくなった日常を普通に過ごしている姿なのだ。
なぜ死者を卑小で憐れな存在に貶めようとするのか。
少なくとも僕の人生は悲しい物ではなかった。
確かに津波で死んだ僕らの最期は残酷で唐突な物だったかも知れないが、僕の人生はそれだけではない。
語り尽くせない程たくさんの出来事があった。もちろん楽しい事ばかりだった訳ではないが終わってみれば素直に素晴らしい人生だったと思える。
死んだ事に後悔もなければ、自然災害である津波に恨みなどある訳もない、自分を忘れてほしくないと女々しく考えもしなければ、自分の事で涙を流されるのを喜んだりするはずもない。
もっと我々を誇り高い存在だと分かってほしい。
多少興奮してしまい稚拙な文章が更に乱れてしまい申し訳ない。
生前より物を書くという行為自体ほとんどした事がなかったもので今後も稚拙な文章が続く事も重ねてお詫びする。
この手記は死者である僕の書く個人的記録であり、もちろん誰かに読まれるなどとは思っていないが、何らかの奇跡で生者の、とりわけ現在の死に対する概念で苦しむ人の目に触れ、その苦しみから解放される一翼を担えれば幸いと思い記した死者よりの手記である。