悪の華道を待ちましょう
「お兄様ー! 隣国へ向かわれるというのは本当でございますか!?」
妹が一冊の本を胸に抱き目をキラキラさせながらこちらへ駆け寄って来る。
留学の準備に追われ忙しくしていた足を仕方なしに止めた。
「ああ、僕も来年には成人だから。その前に見聞を広めようかと思ってね」
世界でも有数の経済大国である隣国の政策や貴族の統治形態といったものを、今この時期に実際にこの目で見ることは今後の人生の大きな糧になるに違いない。
父や母からも大いに学び我が国の発展へと繋がる手掛かりを何か掴んで来いと言われている。
「なんてお羨ましいっ!」
妹は胸に抱えた本を更にギュッと抱き込みうっとりと吐息を吐き出した。
「幼い二人が運命的な出逢いを果たしたあの湖の見える丘も、お忍びの初デートをしたあの街並みもナマで見れるなんてっ!」
「……僕は遊びに行くわけではないんだぞ」
そりゃあ植物の研究観察が趣味なので、四季の豊かな隣国の草木に興味がないと言えば嘘になるが、あくまで見聞を広めるのが短期留学の第一目的だ。
「お兄様が真面目なお気持ちで留学されることくらいは分かっております! でもでも、いくらお兄様でも楽しみなはずです。 だってあの“クリスティーヌ”に会えるのでしょう!?」
やはり“クリスティーヌ”が出たかと溜息をつきそうになる。
確か本物の彼女は隣国の宰相の嫁である。
短期留学を希望する旨の手紙を使者に持たせたところ、友好国の王子である僕を歓迎しようという返事が返って来た。
おそらく隣国へ着けば歓迎の催しがあるはずだ。
立場的に彼女も出席するはずなので、会えることは会えるだろう。
「僕は全然その本のファンではないので楽しみではないよ」
「ファンでなくともセレスティーヌ様は絶世の美女と名高いですもの。殿方が楽しみでないなど嘘ですわ」
「嘘じゃない。“クリスティーヌ”にもセレスティーヌ殿にも興味はないさ」
肩を竦めて言い捨てると、子供っぽく頬を膨らませて不満を表す妹。
「草や花ばかり見てないで少しは女性に興味をお持ちになった方がよろしいですわ!」
「はいはい。僕は忙しいんだ、じゃあね」
これ以上相手はしていられないのでさっさと立ち去るが吉だろう。
「まったく、困った妹だ……」
今年12になる妹が抱えていた本は隣国のとある人物達をモデルにしているとされており、その本は今世界的ヒットを見せている。
後生大事に持ち歩いていることから察せられるように妹も大ファンである。
あんな恋愛小説の何がいいのか。
妹が無理に勧めるので目を通したが、とんだ駄作だった。
醜い金持ち中年に無理やり嫁がされた美女が、義理の息子である騎士と恋に落ちるというストーリー。
だが冷静に考えるとそれはただの泥沼浮気だろう。
こんなものを大人から子供まで愛読しているなど、みんなどうかしているとしか思えない。
植物図鑑を眺めている方がよほど有意義だ。
更にヒロインの“クリスティーヌ”は妖精のように美しいと持ち上げられているが、実際モデルとなったとされるセレスティーヌはそれは金遣いの荒い派手な女だというではないか。
夫である宰相を誑かし日々豪遊しているという話で、そうなると本のストーリーも冷めた目で見えてしまう。
金と権力だけでは飽き足らず、若い男まで欲する強欲な阿婆擦れ悪女。
僕のセレスティーヌに思い描く印象は最悪であった。
******
隣国へ訪れたその日の夜、予想通り催された夜会。
ただの未成年の隣国王子の歓迎の宴なので小規模であるはずだが、予想以上の煌びやかさに圧倒された。
彩り鮮やかなカクテルのタワーが天井に付きそうなほど天高くそびえ立ち、舌がとろけるほど美味いアラカルト。
思わず立ち止まって聴き惚れてしまう腕利きの楽団。
会場の真ん中を陣取る巨大かつ繊細な飴細工には賞賛しかない。
巨大な花木を模して作られた飴細工は、生き生きとした枝振りに咲き誇る無数の小さな花一つ一つまで精巧に出来ており、特に美しく会場を華やかに見せていた。
更に花の部分は少し触れるだけで簡単に取れるようになっており、そのまま飴として口に含んだり飲み物に浮かべて楽しめるようになっている。
これは植物好きの僕でなくても誰でも感動するだろう。
流石は世界随一の大国といったところか。
やはりセンスが違う。
先程正式に挨拶をさせて貰った王には凡庸な印象しか抱かなかったが、周囲が余程優秀なのだろう。
「今日のパーティーは招待人数は少ないが随分と凝っているなぁ。近年のマンネリ化したものとはえらい違いだ」
お上りさんのごとくパーティーに驚いている中、そんな声が漏れ聴こえてきた。
やはりいくら大国と言えど、このパーティーは特別なようで少し安堵する。
こんなレベルの催しが常に行われているのなら、ウチの国はどれ程遅れているのだろうかと悩まなければいけないところだった。
「知らないのかお前。今日のパーティーは国王陛下があのセレスティーヌ様に企画を依頼されたそうだぞ」
「セレスティーヌ様がか! どうりでお洒落なわけだ」
「流石だよな。お美しい上にセンスまでいい。ああ、あんな女性を嫁に出来る宰相様が羨ましい」
盛り上がる男達とは対照的に僕の興奮は静まった。
なんだつまらない。
例の悪女の評判作りだったのか。
どうせ金にモノを言わせて頭の回る誰かに全部考えさせたのだろう。
別に僕を歓迎してだとか国力を見せつけるアピールだとかではなかったようで、僕を意識してここまでの会場が作られたのだという高揚が落胆に変わった。
「あ、おい。セレスティーヌ様だ」
「おお! 今宵もお美しいな。なんたる眼福」
「夜の女神のご降臨だ」
会場の騒めきの中心に目を向けると、そこには腕を組んで人垣の中を優雅に歩く男女の姿があった。
脂肪の乗った腹と顎を揺らし一際上等な服を着込みどことなく偉そうに歩く中年の男。
いかにも悪役ですと言わんばかりの性格の悪さが滲み出た顔つきだ。
そんな男の腕にそっと白い手を添えている女に息を呑んだ。
なんと美しい女だろうか。
ハッとさせられるような華やかで整った顔立ちと、ため息が出るような理想的なプロポーション。
猫のように少し釣り上がるパッチリとした目とふっくらとしたセクシーな唇に引かれた紅が少し勝気な印象を抱かせ、タイトなドレスは扇情的で完璧な美しい曲線を描いている。
一見するとあまりに妖艶で並みの男は尻込みしてしまいそうな美女なのだが、横の中年男を見つめるその瞳には甘さがタップリと含まれ、どこか男の庇護欲を掻き立てる愛らしさも兼ね揃えている。
人形のように完璧な容姿に魔法で息を吹き込んだかのように生き生きとした魅力を感じた。
あれがセレスティーヌか……まさに絶世の美女の名に恥じぬ美しさだ。
思わず人目も時間も忘れて彼女を食い入るように見つめてしまった。
「見てセレスティーヌ様よ。素敵ねぇ」
「とても御子をついこの間ご出産なさったとは思えないプロポーション。私が出産した時などそれはもう体型が崩れたのに、なんて羨ましいのでしょう」
誰もが見惚れ、目にした者達の会話に口々に上る彼女の話題。
近くにいた年配の婦人方も楽しげに彼女について語っている。
「確か御子様は男児でしたよね?」
「そうよ。お披露目会で拝見したのですがそれはもう可愛らしい御子様でしてよ」
「ご長男のマルク様もとても可愛がっていらっしゃるとか。まるで親子のようと評判らしいですわね」
「マルク様は年下の継母にあたるセレスティーヌ様とも良好なご関係のようで、何よりですわねぇ。おほほほほ」
「本当にお似合いなお二人ですものね。うふふふふ」
年配の婦人達の井戸端会議の内容に雲行きがあやしくなり始めた辺りから、浮ついていた僕の頭もだんだんと冷めてきた。
危うく彼女の色香に惑わされるところだった。
そうだ、どんなに美しくとも彼女が強欲で不埒な女ではないという証拠にはならない。
見た目に騙されるなど王族としてあってはならないことだ。
ゆったりとこちらに歩みを向ける宰相夫妻に気を引き締め隙のない笑みを心がけて作る。
「これはジェイス殿下。お初にお目にかかり光栄でございます」
「宰相殿ですね。お噂はかねがね。こちらこそ貴殿のような傑物なお方にお会い出来るとは、それだけで今回の留学に万金の価値がございます」
「それはそれは。殿下の留学が実りあるものになるよう祈りを込めて、微力ではございますがこちらにおります我が妻に今回のパーティを飾るよう申し付けております。いかがですかな?」
宰相の横に並ぶセレスティーヌが嫋やかに微笑み美しい動作で頭を下げた。
陶酔を吐き出すような溜息が周囲の男達からこぼれ出る。
やはり息を呑むほど美しい。
この微笑みと動きが自分に向けられたのだと思うと動揺しそうになるが、こちらとて王族。
そう易々と感情を表したりするものか。
「そうでしたか。ご夫人が。どれもこれも目を惹く素晴らしさだと感激しておりました。特にあの飴細工には圧倒致しました」
「ご満足いただけたようで何より。飴細工にご注目くださるとはお目が高い。あれは今回妻が特に心砕いたモノでして。そうだろうセレスや」
僕と対話していた時の引き締まった宰相の表情は隣の彼女に喋りかけると途端にデロンデロンに崩れてしまった。
「はい、そうですわアナタ」
初めて聞いた彼女の声はとても耳に心地よく、ついうっとりと聞き惚れてしまう。
声まで美しいとは反則ではなかろうか。
「隣国は暖かい気候と伺っております。飴でしたらジェイス殿下のお目も楽しませることが出来るのではないかと思案致しました」
「確かにこのような巨大な飴細工は我が国ではすぐに溶けてしまうため造るのは難しいでしょう。私も初めて見ました。
それに……あの飴細工は我が国の国花ですよね。世界的にあまりメジャーではないのに、よくご存知で」
「私あのお花の木が大好きなのです。ほんの少しの間だけ美しく咲き一瞬で消えてしまう。それでも忘れずに次の年にはきちんとまた咲いてくれるあの木がなんだか愛おしくて。とても素敵な国花で羨ましいですわ」
あの国花は花弁が散りすぎて鬱陶しいとか、あまりに短い開花時期に育て甲斐がないとか、白なのか桃なのか微妙なぼんやりした色だとかで国外からのウケが悪い。
それでも僕はあの花木が大好きで国花であることを誇りに思っていたので、そのように褒められると胸が熱くなってしまう。
それに加えどこか郷愁に駆られたように切なく目を細めるセレスティーヌにどきりとさせられ、彼女は悪女だと必死に内心で呟きどうにか気持ちを落ち着かせようと必死にならなければいけなかった。
パーティから数日後、僕は宰相家が治る領地へと赴いた。
別にセレスティーヌにもう一度会いたいとかいう下心ではなく、数々の流行を生み出す発祥の地をこの目で確かめる為である。
ここ数年でこの領地は洗練されたお洒落な街として世界的に注目を集めているのだ。
王都のすぐ近くにあるのだが、今や王都よりも栄えていると言っても過言ではない。
ついつい物珍しさで色々と見て回り、時間が矢のように過ぎ去っていった。
気付くと宰相の屋敷へ伺う時間が近づいている。
留学中の僕の予定はこの国にいる間は報告義務があり、この領地へ赴くことも筒抜けだ。
なので宰相から自分の屋敷に招待されるのも当然の流れであり、別にセレスティーヌに会えることを楽しみにしているわけではない。
招待を断るなんて失礼だし、仕方なく行くだけだ。
人妻に会いたいとか僕がそんな不埒なことを考えるわけがない。うん。
そんなことをつらつら脳内で並べている間に城と見紛うほど立派な屋敷の前に着いた。
何故か跳ねる心を押さえつけ門をくぐった。
出迎えたのはパーティで出会った中年ハゲ親父の宰相。
そして立派な体格と鋭い目つきの美丈夫だった。
「ようこそお越しくださいましたジェイス殿下。これは我が不肖の長男マルクです」
「お初にお目にかかりますジェイス殿下」
ビシッと頭を下げる姿はまさに妹が好きな物語に出てきたヒーローの騎士そのもの。
セレスティーヌと並ぶとさぞお似合いで、勝手に妄想して本にしたくなるのも頷ける。
とてもこの宰相の血を引いているとは思えない。
「隣国より参りましたジェイスと申します。以後お見知り置きを。宰相殿、本日はご招待下さりありがとうございます」
挨拶をしながら気もそぞろだった。
なぜなら、彼女がこの場に居ないからだ。
どこに行ったのだろう、いつここへ来るのだろうか。
セレスティーヌはどうしたのかと尋ねようかどうしようかとソワソワ落ち着かない。
「本日義母のセレスティーヌはどうしても外せぬ所用がありこの場にはおりません」
聞いてもいないのにマルクが感情の籠らなぬ義務的な口調で言い放った。
しまった、彼女を気にしていたことに気付かれたのだろうか。
「誠に申し訳ございません」
全く悪びれた様子のない息子の騎士。
…そうか。彼女はいないのか。
いや、その方が良かったんだ……。
彼女の魔の手に絡め取られる心配がないのだから寧ろ喜ぶべきなのだ。
「お茶の用意をさせております。どうぞジェイス殿下」
多忙だろう宰相殿がわざわざ未成年の僕の為に時間を作ってくれただけでも実は凄いことなのだ。
切れ者の宰相殿との対話とは楽しみではないか。よし張り切っていくぞ。
なんとか自分を鼓舞しようとするが、これから始まるハゲデブ中年と厳つく無愛想な騎士とのティーパーティを前に、つい先程まで小躍りしていた心も今は奥底の方に潜りこみ膝を抱えたままピクリとも動きそうにない。
『夫は仕事中につき、わたくしがお相手を』的な感じでセレスティーヌが出迎えてくれる妄想とかしてなかったし。別にいいんだ、うん。
なんて萎れていたのだが、何の準備もなく挑んだむさ苦しいティーパーティは実はとても恐ろしい会であり、腑抜けた感情はすぐに消し飛んだ。
気を抜くとペラペラと自国の内部情報を喋りそうになる巧みな話術。
海のように深く広い知識の中で最も適切な情報を拾い上げ嫌味なく話を展開していく様は舌を巻く。
そして息子の騎士もまた鍛えているのは身体だけではないらしい。
宰相の専門的過ぎる内容や解釈に迷う台詞はそれとなくアシストを入れてくれるお陰で会話が実にスムーズに進む。流石宰相の血を引くだけある。
二人ともあらゆる分野に精通し過ぎててこの上なく恐ろしい。
たった十数年間生きてきただけの自分では太刀打ち出来る相手ではないと思い知った。
というかこの二人、我が国の事情を自国の貴族以上に把握しているのはどういう了見だ。
母上の愛人問題とか、一部地域の流行り病のこととか、父王と叔父上の確執とか、検討段階の新たな税制の内容とか。
なんで全部筒抜けなんだよ。大丈夫なのか僕の国は。
この人達に攻め込まれればウチの国は簡単に壊滅してしまうだろう。
そんな確信を持ってしまい少し目眩がした。
「おや? どうされましたか? お顔の色が悪いような」
にやりと厭らしい笑みを口元に浮かべる宰相。
青二才の僕を一泡吹かせて満足したようだ。
正直ぐうの音も出ない。
「お恥ずかしいですが話し疲れてしまったようです」
これ以上ライフを削られては瀕死になってしまう。早くこの場を離れたい。
「おお、それはいけない。そうだ。では気分転換に我が屋敷の庭園を見て回られてはいかがですかな? 」
いや、もう帰りたいのだが。
だがあの宰相の嫌味なにやけ顔からするに解放する気は更々ないらしい。
「ウチの庭園は妻が拘りを持って整えさせておりまして、他所の庭より格段にハイセンスでしてなぁ。妻のナウでヤングな感性と、古き良き侘び寂びを兼ね揃えた素晴らしい庭だともっぱらの評判なのですよ」
この宰相はどうやら本気でセレスティーヌに惚れているようで、彼女のことを話す時は癖のある嫌味な笑みではなく威厳もへったくれもないデレデレと情けない顔になる。
「まぁ妻はおりませんが“庭は”存分にご堪能下さって結構ですので」
油断したところでチクリと嫌味を刺されながら満身創痍で一人庭の散策に出かけたが、綺麗に手入れされた植物を眺める内に段々と心が回復してきた。
美しい季節の花々が咲き誇り、草木が風にそよぐ様子は僕の心の傷を癒してくれる。
心穏やかに歩いていたのだが、まだまだ端が見えないのはどうしたものか。
もしかしたら自国の城の庭より広いかもしれない。
エリアごとにテーマのようなものが決まっているようで、見る者の目を飽きさせない仕様なのは素晴らしいが流石にこれだけ広いと疲れてくる。
どこか休めるところはないかと思っていると、赤い薔薇のアーチの先に大きな噴水とベンチが見えてきた。
そこには既に先客が座っていた。
「あら、ジェイス殿下」
「セ、セレスティーヌ殿」
先日のパーティよりもシンプルだが、最高級の質だと一目で分かるドレスに身を包んだセレスティーヌが僕を見て立ち上がった。
「ようこそいらっしゃいませ。イヤだわどうしましょう。わたくし殿下のご来訪を知りませんで。お迎え出来ず大変失礼致しました」
「いえいえそんな! お気になさらず」
丁寧な謝罪に慌てて首を横に振る。
セレスティーヌは小声で「旦那様ったらなぜ教えて下さらなかったのかしら」と呟いていたが、宰相が僕のことを教えなかったのは十中八九確信犯だろう。
愛する妻を男に近付けたい者などいない。
それもこれほどの美女ならば余計にそうだろう。
「セレスティーヌ殿はお散歩の途中でしたか?」
「ええ。本当はお友達のお茶会へ出席していたのですが、途中でこの子がぐずってしまいまして」
この子、と言われて初めてセレスティーヌの腕にある柔らかな布で包まれたモノが目に入った。
布の中には小さな赤子がスヤスヤと眠っている。
ふわふわした金色の髪、顔の前で握られた両手はプクプクと小さく、触らずとも分かるほど柔らかな頬は丸みを帯びて赤く色付いている。
セレスティーヌ似のとんでもなく可愛らしい子供だ。
「この子、ウチの庭園をお散歩するのが大好きなので早めに切り上げて帰ってきてしまいました」
腕の中で眠る赤子に微笑むセレスティーヌは聖母像のように神々しく輝いて見える。
パーティの時のセレスティーヌもそれは美しかったが、母親の顔をした彼女はより一層男を惹きつける魅力があった。
これは宰相が彼女を僕から遠ざけたがったのも更に理解出来るというものだ。
男は皆いくつになっても、聖母の安らぎを求める赤子に過ぎないのだから。
自分もあの温かな胸に抱かれて眠りに就ければどんなに幸福だろうか…そんな妄想が脳内を駆け巡る。
「———殿下、ジェイス殿下?」
気付くと不思議そうに首を傾げたセレスティーヌが僕を覗き込んでいた。
「あ、いや、その、ぼんやりしてしまいました」
「良いお天気ですものね。この子もお茶会ではあんなに泣いていたのにもうこの通りグッスリ」
くすりと笑うセレスティーヌにまたしても惹き込まれる。
ああ、確かにこんなに優しい手つきで柔らかな胸に抱かれれば誰だって幸福な眠りに就いてしまうだろう。赤子が心底羨ましい……って、しっかりしろ僕!
「くずったのなら使用人に御子をお預けしなかったのですか?」
一般的に貴族の子供は乳母に育てられるものだ。
泣く赤子をあやす貴族婦人というものを、そういえば見たことがない。
「私は出来るだけ自分の手で子育てしたいと思っております。せっかく私の元へ来てくれた可愛いこの子の成長をなるべく見逃したくはないのです」
「なるほど」
今までにない発想に感心する。
遠目から見る平民の幼子があのように幸せそうなのは、このセレスティーヌのように母から常に愛情を溢れんばかりに注がれているからなのかもしれない。
「でも今日は失敗してしまいました。知らない人が大勢いる場はこの子にはまだ早かったようです。お友達にも気を使わせてしまいました。まだまだ未熟な母親で恥ずかしいですわ」
我が子を愛し、周囲にも気を配れる。
当たり前のようでいてそれを出来る貴婦人は多くなく、そこには宰相夫人である奢りは少しもない。
素敵なヒトだ。
吊り上がり気味の目尻を下げて苦笑する彼女に素直にそんな感想が浮かぶ。
そして、悪女だと勝手に決めつけ悪感情を持っていた僕こそ未熟者だと痛感した。
今後はもっともっと視野を広げて物事を見聞きするべきだな。
宰相やその息子の騎士にも負けぬような知識を身に付けるべくより一層の勉学を励もう。
立ち話もなんなのでとセレスティーヌの横に腰掛けるのを許された僕は心の中で熱い決意を燃やしていた。
その後二人並んだベンチでの会話は夢のように楽しかった。
クリスティーヌが夜会で褒めてくれた国花のことを始め、聞き上手の彼女は僕の話を優しい笑顔で聞いてくれる。
その楽しさときたらもう、先ほどまでの男だらけの茶会とは雲泥の差だ。
「実は、その、折り入ってジェイス殿下にお願いがあります」
「はい! なんなりと喜んで!」
弾む会話の中で少し言いにくそうに切り出したセレスティーヌのお願いに内容も聞かずに頷いた。
彼女の為ならなんだって投げ出せる。
「ジェイス殿下は植物にお詳しいのですよね。火傷などにも効くと言われる多肉植物をご存知ないかとお伺いしたくて。それと、もしご存知でしたら入手ルートも教えて頂きたいのです」
「火傷に効く多肉植物?」
セレスティーヌの口から飛び出した意外な言葉に目を瞬かせる。
「茎から枝が分かれるように伸びて緑のトゲトゲで、肉厚な中身は食用もされる植物です」
「うーん、聞いたことないなぁ」
「そうですか……やっぱりアロエはないのかしら」
アロエ?
セレスティーヌの独り言を耳聡く拾う。
その植物はアロエというのか。
やはり聞き覚えのない名前だ。
セレスティーヌが僕を頼ってくれたのに、しかも最も得意分野で彼女の力になれないことが悔しくて仕方ない。
「どなたか火傷をされたのですか?」
「いえ、火傷はしていないのですが、主人の薬に使いたくて」
「宰相殿の?」
「はい。でも存在しないのなら、仕方ありませんね」
憂いを含んだ溜息が美しいセレスティーヌの唇から漏れる。
「あの、宰相殿は、どこかお加減がお悪いのですか? 薬が必要なのですか?」
「はい、主人の頭の———に必要な薬なんです」
一瞬、ビュォォォと大きな風が吹いた。
そのせいで一部セレスティーヌの台詞が聴こえなかったが、頭に必要な薬と言ったか?
もしや宰相は脳の病気か何なのか!?
「主人は気丈ですから私に哀しみを見せようとはしませんが、日々進行する症状に大きく悩んでおります」
あの殺しても死にそうにない宰相が病気?
しかも脳の病気となると今の医療では治療のしようがないのではないか。
これは世界的な大事件になるぞ。
「そのように重要なこと、僕に話してしまって良いのですか?」
「え? ええ、周知の事実なので。まぁ見れば分かるというか……」
既に問題になっていると言うのか!
自分の情報収集力の低さに愕然とする。
「……全く知りませんでした」
「無理もありません。かつてはそよぐ風にすら怯えていた主人も今は腹を括りスッパリと諦めていますもの。以前を知らない方でしたら一見しただけでは分からないのかもしれませんね」
吹いた風に当たるだけでも身体が辛く、今は腹を括っている…そこまで病は進行してしまっているということか。
先程はあんなに元気そうに悪役然としていたが、あれはかなり無理をしていたということか。
「全てを手離す覚悟を決めた主人を私は尊敬しております。しかしやはり自ら断つのと、生命の息吹が絶えてしまうのとでは大きな違いがあるのです。主人は毎朝鏡の前で溜息ばかりついております」
「まさか……それはつまり……」
神妙な面持ちのセレスティーヌに息を呑む。
自ら断つとは……病の辛さに自殺まで考えていたとは。
「それでは残された者はどうなるのです!」
まだ幼い子を抱えたセレスティーヌを誰が守るというのか。思わず声を荒げてしまった。
「残された髪も自然と地に堕ちるしかないのです。それが髪の定め……」
達観したように目を伏せるセレスティーヌに怒りと困惑はより激しくなる。
「そんな神など居てたまるものか! 神はあなた方を見捨てたりしません。どうか気を強くお持ちください」
「ありがとうございます。私も一度は諦めておりましたが、主人の毎朝の様子を見て今は何とかならないものかと奮起しまして」
僕の剣幕に一瞬目を瞬かせたセレスティーヌだが、直ぐに嬉しそうに微笑んだ。
「髪が主人の荒地になんとか留まってくれるよう、そして新たな生命の息吹をと密かな努力をしております」
「それが、薬の開発ということですか?」
「はい。色々試行錯誤しております。お伺いした植物もその為です」
「そうでしたか……お力になれず大変申し訳ございません」
項垂れる僕にセレスティーヌは首を横に振る。
「元々存在すら確証のないものなのです。どうかお気になさらないで下さいませ」
「しかし…」
「それに治療には薬が全てという訳ではなく、生活習慣や食生活も大きく関わってくるのです。症状を緩和させる為、その辺りの改善も家族一丸となり取り組んでおりますのよ。その為に最近はマルクも屋敷に戻って毎日私の考案したレシピの食事を取っています」
「マルク殿が…?」
宰相は分かるのだが何故わざわざ彼まで病人食を食べるのだろう。
素朴な疑問に対してセレスティーヌは少し言い淀んだあとにおずおずと口を開く。
「症状や進行具合に違いはあれど、これは……遺伝、なのでしょうね」
「ということはマルク殿も?」
気まずげな彼女を見て絶句した。
あのガッチリと厳つい騎士然とした偉丈夫が不治の病とは。
あの似ていない親子両方ともそんな様子にはとても見えなかったが…と困惑する中でハッとあることに気付いた。
「まさか!」
なんの憂いもなくひたすら幸せそうにセレスティーヌの胸の中で眠る赤子に目が行く。
彼女はその赤子のふわふわとした髪を愛おしそうにそっと撫でた。
「お察しの通りこの子も発症する可能性は大いにあります」
「そ、そんな。それはあまりに……」
重い未来が待ち受けているのかと思うと、無垢な赤子を前に胸に迫り上がるものがある。
「親としては余計な苦悩を背負うことになるかもしれないこの子が不憫でなりません。しかしこれはどうしようもないことです。
来たる日を迎えることがあるのならば、この子は自分で立ち向かわなければなりません」
狼狽える僕とは違い、セレスティーヌの心はしっかりと定まっているらしい。
母は強しということか。
「雨の日も風の日も怯える時が来るやもしれない。枕やブラシを見て項垂れ、鏡の前で絶望する朝もあるでしょう。同年代と比べ涙する時もあるでしょう。
そんな時にこの子の心を支えてあげられる為にはどうすればいいのか。無謀な挑戦とは分かっていながら、どうにかしてあげられないかと試行錯誤を繰り返してしまいます」
もう何度目かも分からない。
彼女に目を奪われるのは。
美しく、そして気高く。
家族を守ろうとするその想いは、どんな歴戦の戦士にも勝る芯の通った強さが見える。
「でも、私は信じているのです。この子にも、そしてマルクにもきっと、荒地を共に歩んでくれる女性が現れることを」
「…そうですね」
「私も最後の一筋の希望まで旦那様と共に荒地を踏みしめようと思っております。だって私は旦那様の荒地ごと愛しているのですから」
嗚呼、宰相はなんて幸せ者であろうか。
たとえ不治の病であろうと、世界一幸福な男と断言出来る。
なんといってもこんなに美しい人に愛され結ばれたのだから。
セレスティーヌの熱く真っ直ぐな視線に、真実の愛を見つけた気がして感動で胸が震えた。
その後、少し風が冷たくなってきたこともあり僕達は屋敷へと戻った。
「庭は如何でしたかな」
「ええ、とても素晴らしかったです」
「それは何より。では先程の続きを——って、セレス!?」
僕の後ろから顔を出したセレスティーヌに分かりやすく動揺する宰相とマルク殿。
「セ、セレスや、随分と早い戻りだったね」
「ええ、途中でリュカがぐずってしまったのです」
「おおそうか。初めてのお茶会にビックリちたのかなぁ〜。リュカや〜良い子で寝んねちとるのぉ」
宰相は吐き気のするほど気味の悪い口調とデレデレの顔でセレスティーヌから丁寧に赤ん坊を受け取る。
その様相は丸っ切り初孫に浮かれる好々爺のものだが、これでも一応父親であるようだ。
「ワシとセレスの子は世界一愛らしいな、もう食べてしまいたいわ!」
腕の中の赤ん坊を嬉しそうに覗いていたのだが、暫くすると我慢ならないというように叫んだ。
僕がこの場にいることを完全に忘れてないだろうか。
「薔薇色のほっぺがセレスそっくりだのぅ。ん〜リュカ〜」
「なっ!」
思わず批難の声が喉から飛び出してしまった。
なんと純真無垢なふわふわの赤子の頬に汚いおっさんの唇が寄せられようとしているのだ。
汚れる……!
眠る我が子の頬に父親がキスを贈るシーンは本来微笑ましく思わねばならぬのに、目の前にある光景ときたらとんでもない下劣な犯罪が今まさに行われているようだ。
まさか赤の他人である僕が止めに入るわけにもいかず固唾を飲んでいると、スヨスヨ眠っていた赤子はまるで危険を察知したかのようにパチリと目を開けた。
「おおリュカ。おっきしたかのぅ」
寸でのところで犯行は阻止された。
赤子も自分が危うかったことに気づいたようで、宰相のドアップを見て固まった後みるみるうちに可愛らしい顔が歪み始めた。
「ヒック……ヒック…びぇぇぇえええん!!」
その小さな身体のどこから出ているのか不思議な程の音量で泣き始めてしまった。
「うぉ!? リュカや? どうした? 悲しいのか? 父様がついているぞ、よしよし〜グヘッ…ちょ、リュ、リュカ? ブヘッ、グエッ!」
なんとか宰相は宥めようとするが、赤子は全身全霊で自分の父親を拒絶。
ぷくぷくの足で宰相の口元を容赦なくゲシゲシと蹴り上げている。
「ふん、相変わらずの嫌われようですね父上。恐らく加齢臭が不快なのでしょう。どれ、リュカの顔立ちが近頃どことなく似てきたと巷で評判の私にお任せください」
マルク殿が横からひょいと赤子を取り上げる。
「リュカよ…こんなに愛しているのに……うぅぅ」
宰相は愛息子からの徹底的な拒絶に深い精神ダメージを追ったらしく、膝から崩れ落ちてしまった。
一方のマルク殿は、騎士として鍛え抜かれた腕でしっかりと赤子を囲い込む。
安定した体勢に落ち着いた赤子はなんとか泣き叫ぶのをやめたが、未だに機嫌悪そうに口元を歪めたままだ。
「さぁリュカよ、もう安心だ。お兄様だぞ。不甲斐ない父上など放っておいてお兄様がお前を守ってやるからな」
「あう、だう」
「それからお兄様ではなくパパと呼んでもいいのだぞ——へぶっ」
赤子の耳元に顔を近づけ何か囁くとそれを拒絶するように、小さなモミジの手がマルク殿の顔面を「いやー!」と突っぱねる。
そしてもう片方のモミジがセレスティーヌの方へと伸ばされた。
「あう、あーうー」
「はいはい、抱っこね」
渋々な様子のマルク殿から赤子を受け取ったセレスティーヌが慣れた手つきであやすと、コロリとご機嫌になってしまった。
「あーうー、きゃー」
先程とは打って変わり喜びの雄叫びを上げ、セレスティーヌの豊満な胸にぽふりと頬を沈める。
柔らかで甘く暖かく優しい鼓動の響くそこは絶対的安心感を与えてくれる至高の癒しの場所なのだろう。
うっとりとした赤子の目は段々と閉じられていく。
「リュカは母様っ子だなぁ」
自分の息子を心底羨ましそうに見る宰相に、優しく微笑むセレスティーヌ。
「大丈夫ですよ、リュカももう少し大きくなれば男の子としてあなたを頼りに思う日が来るから。その日が来たらこの子を支えて上げてください。マルクもこの子の相談に乗ってあげてね」
「…っ! モチロンだとも! キミもリュカもきっときっと幸せにしてみせる!」
「そうだな、これからも家族としてセレスティーヌとリュカを見守っていくと誓おう」
家族四人寄り添う姿はとても幸せそうで、この家族にとてつもない試練が課せられているようには見えない。
どこまでもひたすらに未来への希望に満ちている。
実際に彼女は試練に打ち勝つ気でいるのかもしれない。
セレスティーヌが強く気高く美しいことはよくわかった。
だが恐らく試練はとても厳しい。
もし彼女が試練に敗れ大切な者を失う日が来た時、僕は……。
「ああ、そろそろ日暮れですよ父上」
「おお、それはいかん。すっかりジェイス殿下をお引止めしてしまいましたな」
野郎三人のお茶会の時とは反対にセレスティーヌが居る今、早く帰れと言わんばかりに追い出しにかかられる。
「本日はとても有意義な時間をありがとうございました」
「こちらこそ沢山お話し出来て楽しかったですわ」
背後で「沢山お話しとはなんだいセレス!?」とか「二人きりだったのか!?」とかごちゃごちゃ言っている外野を無視してセレスティーヌの白い手を取る。
「今度は我が国へとお越しください。貴女の希望の一筋が潰えてしまった時、その時には是非」
「…そうですね。その頃には、息子も赤ん坊ではなくなっているでしょうし。気分転換にピッタリなのかもしれません」
セレスティーヌはまだ騒いでいる宰相の方を見て切なげに目を細めた。
「勿論僕も希望が残ることを祈っております。しかしもし散ってしまった時は、悲しみの受け皿になりたいのです」
「まぁ、そこまで思って下さるなんて」
感激した様子のセレスティーヌに期待が胸に膨らむ。
他人の不幸を願うことは最低だと思うのだが、この欲ばかりは抑えきれない。
さて、留学から引き上げたらやることは山積みだ。
まず再婚制度と養子縁組、国際結婚についての法改正からだな。
全てを失った彼女をこれ以上悲しませるようなことがあってはならない。
希望の一筋が散ってしまうその前に整えておかなくてはいけない。
他人の死という不謹慎過ぎる出来事を待つ準備をする僕は悪に染まってしまったのだろう。
それでも僕はあの華を待たずにはいられないんだ。
なんで異世界なのに髪と神が掛かってんの?とかいうツッコミはナンセンスだと思いますハイ