そして事態はまた動き出す。
タルウ公爵の思考は状況に追い付けていない。
変わる変わる変化する状況。何故水の中にいるのか? ここはどこなのか? どうなっているのか?
揺らぐ水と光を吸い込む水塊からは、外の景色を確認させてもらえず。
呼吸はできるが身動きができない状態。それはまるで堅固な牢と化している。
タルウの焦りと不安は膨らんでいく。だがこの男は命乞いをしない。
――いざとなれば悪魔を頼る。
その考えがタルウに余裕を与えていた。
ーーー
「ここらでいいか……」
中央広場から離れたブットルはどこともない往来で膝を付く。
大容量の魔法を何度も使用したせいか疲労が顔に表れている。見た目の蛙顔からは大きな変化は見えないが、それでも疲れの色は濃い。
横に広い一本道、左右には石造りの家々。亜人の姿はどこにも無い。殆どが中央広場に集まっているのだろう。
「都合が良いな」
振り返ると水塊が三つ。中にはタルウ公爵、奴隷商人コウレツ、奴隷紋を施されたティッパが拘束されている。
三本の指を広げ一つに向けると、音を立てて水塊は四散していく。拘束を解かれたコウレツは石畳の床に転がり落ちる。
「さて、お前に聞きたいことがある」
指先を向けられたコウレツは何も言わずにブットルを睨む。
「随分反抗的な目だ、その目をえぐってやってもいいんだぞ?」
穏やかな声にははっきりと分かる怒気が含まれていた。
「何が聞きたい?」
コウレツはこの亜人からは逃げれないと悟り。答えた後に最善の一手を考え始める。
「ティッパの奴隷紋はお前がやったのか?」
「蝙蝠人の女がティッパと言うのなら、私が施した。タルウ公爵の命令でな」
「なら話は早い。すぐに解除しろ」
ブットルは指を向けティッパから水塊を解く。コウレツと違う点といえば優しく地面に座らせた事だろう。
解放されたティッパは物言わぬまま視線を地に落としている。
「分かった……奴隷紋を解除しよう」
コウレツはのそのそと怠惰な体を動かし、ティッパの正面に膝を付く。
「奴隷紋を解除した後、私をどうするつもりだ?」
「ん? そうだな。随分と人間族の女に恨みを買ってたみたいだからな……どうしたもんか」
ティッパに手を向けるコウレツは何とか逃げ出そうと考える。だがまともな策が浮かばない事に焦りを感じた。
この男はタルウのように他力本願などはしない。常に知恵を巡らせ、知略を駆使し様々な危機から逃れてきた男だ。
見た目が同じ豚でもタルウとの違いはここにある。
それでもこの八方塞がりの状態ではその頭の回転も成りを潜めている。
――考えろ。どうやってこの場を逃げ出す? 奴隷紋を解放したらこの亜人は確実に私を良くはない場所へと連れ出すはずだ。逃げるなら今しか無い。
追い詰められた焦りからか、懇願の眼差しでブットルを見るコウレツ。
だがブットルにはどんなに言葉を尽くしても揺るがない意思を感じた。
視線を切り、ティッパに向けた時、はたと一つの案が浮かんだ。
その案とはティッパを正式な奴隷にして、ブットルと戦わせる事。
ブットルがティッパに特別な感情を寄せているのは明白。それを上手く利用するのが、この男をコウレツ足らしめる要因の一つ。
策を吟味し、視線だけで周囲を確認すると、ブットルには見えないように薄く微笑んだ。
不幸中の幸いとも言えるように、この場には他に誰もいない。
――運は私を見放してはいない。
ティッパにブットルを足止めさせ、この場から逃げる。気付かれた場合の事を考えると危険な賭けだが、それでもと意を決する。
怪しまれないよう最新の注意を払い。かざす掌から奴隷契約を進める呪いを流していく。
だが一人の乱入者によって、また状況が一変する。
ティッパの奴隷紋が光りだす。
眺めるブットル。
気付かれないように策を実行するコウレツ。
そのやりとりの場に高らかに響いたのは女の声。
「父上! ようやくお会いすることができました!」
ブットルとコウレツは同時に声の方向に顔を向ける。一本道から歩いてくる者。その存在を認識したブットルは声が漏れた。
「な、なんだ? 人間族……か?」
声は僅かに震えた。その格好があまりにも得体が知れなかったからだ。
首元から胸部分は黒い鎧で守られている。胸から上は強固な守りに反し、鳩尾から臍までは剥き出しの為、肌色を太陽に晒している。
下半身は黒色のショートパンツを穿き、膝から足先は黒いロングブーツを履いている。
肩口でざっくばらんに切られた黒髪。左右の頭部には牛のような角。はっきりとした目鼻立ち。笑う姿は新雪の少女を思わせる魅力がある。
女の肩口から先と、ショートパンツから伸びる太腿は光沢のある黒。
人の形をしている腕と足だが明らかに硬質。黒より黒い両腕と太腿は、日の光に照らされエナメルのようにてらてらと光っている。
胴体と顔部分は人間族のそれ。頭部には魔人族のような角。肩から先と、見える太腿は形状こそまともだが異質の黒。
全体が細身の女は黒い両手の五指を広げる。掌からズルズルと現れたのは槍。
右手には身の丈程の紫色の長槍。
左手には腰丈程の灰色の短槍。
二槍とも非常にシンプルな形状だが槍から漂う空気が怪奇に過ぎている。
異邦人めいた容姿と、何の躊躇も無く近付く女にブットルは戸惑う。
だがコウレツはブットルの反応とは違う。戸惑いの他にも驚愕や恐怖が見てとれる。
「その顔は……まさ、か……サギナか?」
「これはこれは父上。私のような愚かな娘を覚えておいでとは、このサギナ感銘の極みです」
黒い女。サギナはにやにやと笑みを張り付かせ、台詞めいた口調でコウレツに歩み寄って行く。
「お、お前は……死んだはずだ! いや、私が殺したはずだ! 手足を切り取った後お前は確かに死んだはずだぞ」
「これはこれは、聡明な父上にしては異な事を仰います。子が親に会いたと願えば地獄の底から這い上がるのは常識と思いますが?」
サギナは楽しそうにクツクツと笑う。自虐的な物言いだがそこに込められているのは毒を怨念で固めた悪。
コウレツはティッパの奴隷紋の事などとうに忘れ、尻餅をついたまま後ずさる。
「さて父上。とりあえずはこの場所から抜け出しましょう。我々他種族が亜人に見つかると厄介ですので。その後は、そうですね……私が考えた愛の形を是非、父上には受け取って頂きたいと思います。まず手始めに父上の腹を裂きます。臓物の位置を置き換えると人はどうなるか? 昔父上が私にやったことです。覚えておいでですか? 次には皮膚を全て剥ぎましょう。
痛いかもしれませんが大丈夫です。父上ならば生涯を共にする伴侶のように痛みと寄り添っていけると思いますよ。何事も慣れは大事ですので。
次には目をえぐり、鼻と唇を削ぎましょう。次いでに耳も削いでみましょう。その状態で指を一本一本短くしていきます。楽しいですよ。視覚、嗅覚、嗅覚、聴覚を失った状態での痛みというのは。でも安心して下さい。順次回復魔法で傷を癒していくので死ぬことはありません。ふふっ。想像するだけでサギナは昂ってしまいます。これら全ては父上が私にした愛の形ですが覚えておいでですか? 昔の事なので覚えて無いかもしれませんね。でもサギナは一つ一つ覚えています。おっといけない、喋りすぎたようです。では参りましょうか父上」
慈愛に満ちた笑顔で見下すサギナは、穢れを知らない女神を感じさせる。
見上げるコウレツは戦慄の死神に愛撫されたように体を震わせ、じりじりと後方に下がっていく。
コウレツの目の前に立つと、片膝を付き優しく手を差し伸べるサギナ。
「さあ、父上」
舞踏会の場で踊りを誘うような美しい所作のサギナだが、その手は槍を持ったままだ。
お前なぞいつでも殺せる事ができる。と体現しているようで、声と態度のちぐはぐさが滑稽にすら見える。
「ちょっと待ってくれないか」
突然の乱入者に面を食らっていたブットルだったが、冷静になった所で声を出した。
「この男には俺も用がある。あんたにも事情があるようだが、こっちを優先してもらうぞ」
掌で父とのやり取りを止められたサギナ。まるでおもちゃを取り上げられた子供のような顔で横を向く。
悲しげな顔を数秒した後、ブットルを眺める表情には薄く笑顔が張り付いた。
その風貌も合間り、まるで鬼姫が笑っているかのようにブットルは感じた。




